道草Web

梓散策 目黒〜等々力

梓編年

2006年7月30日

参加:後藤、金谷(途中合流)、中村、橋元

9時に目黒駅に集合。電車の事故でチャウが少し遅れたが、ほぼ予定通り集合。天気は予想外に良く、気温は高いものの湿度がさほどでない。

まずは、目黒自然教育園を訪ねる。最低限の管理で武蔵野の自然状態を維持する国立科博の施設だ。オーバーユースを避けるために入場人数を制限している。入場時に赤いリボンを受け取って着用する。出るときに返却するので、手間なく現在の入園者数をカウントできることになる。

後藤さんの紹介にもあったように、この時期は花も少なく、蒸し暑い夏期の散策はだれにでも勧められるわけではないが、植物好きには結構面白い。入園そうそうから、路傍植物園があって、本来ならわれわれの身近に見られるはずの多様な草本植物群を観察することができる。この時期、目だって咲いているのはキツネノカミソリ、ウバユリ、ダイコンソウ、キンミズヒキくらいか。

以前はここへ来ると、知らない植物があまりに多くて、あれを憶えなくては、これをあとで調べなくてはと、帰る頃には頭が飽和状態になったものだ。最近はなんでも詰め込もうという野望もなくなったのでのんびり見ることができる。とはいえ、現在でもわからないことの多いことに違いはないが。

一番面白かったのは水性植物園だった。詳細は、写真レポートのほうが楽しいから、そちらにまかせるが、目だったものはヌマトラノオ、イヌヌマトラノオ、ミソハギ、タカトウダイ、アサザなど。それと、森の小道と呼ばれるところにコブシの巨樹があったことだ。樹高が10mを超すだろうか。周囲の高木と競って背伸びをしたのだろうが、この高さまで伸びる可能性のあることに驚かされた。

自然教育園をあとにして(10:34)、鬱蒼たる都内の森林から、そろそろ本格的な夏日となった街路へ出る。次ぎに向かうは行人坂の天台宗松林山大圓寺。行人坂は、目黒駅の南側で道玄坂と別れて、目黒川へ下降する急坂だ。 権之助坂が迂回するように距離を伸ばして斜度を緩くしているのに対して、こちらは直線的に川を目指すのでその分、急斜度になる。その坂の途中、左手に大圓寺がある。目玉は五百羅漢。上手の急斜面を段々に埋め尽くして羅漢像が整列している。江戸三大火事の一つで、この寺が出火元となった明和九年(1772年)の行人坂火事の罹災者を弔って奉納されたという。大半の制作年は比較的新しいようで、ところどころに、いかにも古そうな羅漢さんが散見される。表情の豊かなことが特徴というが、なるほどそうである。ただし、おなじ石工の手になるものが多いのか、変化を付けるのに苦労をしているようにも見受ける。そのほかにも、いったい何かと訝しく思うような「とろけ地蔵」(水に溶けやすい岩に彫ったのか原型もおぼろげになっている。品川沖で漁師の網にかかったというので、浅草寺の観音様と同じ運命だが、金属製と石像の違いか?)とか、振り袖火事の八百屋お七を、小姓の吉三が出家して供養したときに使った(?)という鉦とかみものに事欠かない。熱心な老婆が扉を閉ざした釈迦堂の前で、しきりに念仏を唱えていたが、あとで寺の建物へ入っていったところを見ると、大黒さんかなんぞのようだ。

大圓寺を出て行人坂を下ると、見慣れた尾山台の仙人の姿があって、出迎えてくれた。示し合わせてはあるが、存外、早い御出座であった。これで、4人揃った。目黒川沿いに道玄坂下へ少し上って、次は大鳥神社へ向かう。この近くには旧TBS.Bの社屋があり、現在もニューズウイークはここにあるという。大鳥神社は、今年が鎮座1200年祭だそうで、案内板に都内最古の神社と書いてあった。これは後藤さんがHPの面倒を見ている新丸子の日枝神社と同じらしい。1200年前といえば平安初期、最澄、空海の活躍した時代。このあたり、どんな風景だったろう。いまの目黒駅あたりの白金台地と武蔵小山の丘陵に囲まれて、緑の深い谷底だったのではなかろうか。少し昔に思いを馳せすぎたが、OJはこの近辺の産である。神社とは山手通りを隔てて数百メートル恵比寿寄り、現在ではマンションになってしまったが、数年前まで生家の敷地や塀がそのまま工場として残っていた。記憶にはないが、だれかの背に負ぶわれて、この神社には何度も来ているはずである。

大鳥神社はほとんど通過し(11:19)、山手通りを下って目黒不動(天台宗泰叡山龍泉寺)へ向かう。以前きたときは横道から入ったが、今回は表参道から接近。途中にある羅漢寺は有名だが拝金主義も露わというのでパス。いくら都内とはいえ末寺や商店など門前町らしい風情を残している。目黒不動の正面は広い駐車スペースになっていて、その先の丘の上に本堂がある。丘の麓には泉が湧き、丘の斜面から独鈷滝が掛かっている。案内板は、例によって空海伝説で、独鈷を投げたら泉が湧いたという由来が書かれている。記録を書いていて、気づいたのだが、蔵王スキー場の上部にドッコ沼がある。あちらはカタカナ表記なので気づかなかったが、多分、独鈷(剣菱みたいな形の密教の呪術具)のことで、由来も似たようなものではないか。滝の脇から男坂の階段を上って内陣へ入る(11:32)。朱塗りの大本堂は新しくて趣はない。つい最近、塩竈神社を見た眼にはさしたる感興も湧かない。本殿の真裏に小さな祠があり、地主神大行事権現とある。これが1200年以前の目黒近辺の土着の神様で、その地を拝借してこの大伽藍(当時はどうか?)を建立するというので、ここにお祀りしたのだろう。ここはサツマイモの栽培で有名な青木昆陽の墓所でもある。少し離れているので、今回は訪れなかったが、前回見たときは、いまにも倒れそうな質素で小さな墓であった。

目黒不動の南西の裏山といった位置に林試の森公園がある(11:53)。都心の広大な公園で、もとは都の林業試験場ということで以前から興味があった。たしかに、普通の都市公園と違って外国産のさまざまな樹種があり名札も着いてはいるが、いかんせん、これだけの人口稠密地帯の公園では大自然の気配は希薄である。そろそろ昼時ということもあって、東門から入って西門へ通過するといった感じでこの公園をあとにした。最前から、昼飯はどこでなにをと話が飛び交っていたのだが、結局、空腹には勝てず、手近な武蔵小山商店街でということになった。商店街入口(12:23)。あまり期待もなかったので、入口からぶらぶらはいって手近なそば屋へ入る。ここの食事に関しては、コメントすべき内容はまったくない。

食後は東横線で移動する。武蔵小山から大岡山乗換で久品仏へ(14:03)。久品仏の駅前は、そのまま通称久品仏、浄土宗久品山唯在念仏院浄真寺の参道の入口になっている。交番の脇を通って静かな参道を進む。だがこれは、電車利用の参拝客のためのバイパスだったようで、やがて本来の参道に交差した。そこから左折して本堂方向を見ると立派な山門(仁王門)が見え、その扁額に『般舟場(はんじゅうじょう)』とある。解説によると、般舟とは専心念仏して諸仏を眼前に彷彿とすることらしい。ま、そのための念仏道場を般舟場と名付けたわけだ。去年の連休の帰りに黒羽町の雲厳寺を訪ねたが、あそこは禅宗だから三門に「碧巌録提唱」、「雲厳寺専門道場」とあった。浄真寺は、浄土宗で同じような位置づけにあるわけだ。こちらは、般舟三昧、あちらは、只管打座ということになるか。

境内は手入れが行きとどいて気持がよい。山門の左脇に鐘楼があり、右少し進んだところに本堂がある。まず目立つのは、いかにも健康優良児といったイチョウの巨木で、樹高はあまりないが、緑の葉に覆われた枝先に銀杏をたわわに実らせ、根本の龍の髭の草むらに青い実をたくさん落としている。金谷氏はしきりに拾っていたが、無事食することができるだろうか。通路以外は柵があって入ることはできないが、おしなべて枯れ葉を細かく砕いて敷き詰め養生十分な感じである。現在、姿は見えないが、寺域はサギソウの自生地でもあるらしい。ひとが入れないことをいいことに、猫がのんびり寝そべって体を左右に捻転し、それをカラスが物珍しげに覗き込んでいる。あまりに注目された猫は、いい加減にしろとばかりに反撃に出てカラスを追い回していた。

山門から本堂を脇に見て一直線の道を進むと一番奥に3つのお堂(三仏堂)がならんでいる。そのお堂にそれぞれ三体の阿弥陀如来像がある。右から上品の上生、中生、下生、中品の上生、中生、下生、下品の上生、中生、下生とそれぞれ三体、合計で九品仏となる。寺域全体の構成が浄土思想を具現する意味をもっているようだが、ここで書き留めることもなかろう。ガラス越しに諸仏を拝見する。この寺が江戸時代の建立というから、仏像もそう古いものではない。平等院の鳳凰堂や浄瑠璃寺に見られるような平安様式風の稚拙な阿弥陀仏が見える(信心は形ではない、心だ!?)。

中央の上品のお堂の手前、左右にボダイジュの古木が植わっている。樹齢は何年くらいか、ゴツゴツとした樹皮は深くひび割れて盛り上がっている。普通に見る樹皮で一番ゴツゴツしているのはクヌギだろうが、それよりさらに深く厳しい亀裂だ。大樹はまだある。カヤだ。それも二本。大きい方のカヤの木又からアジサイの仲間のような木が生えている。この木も健康そうだ。たくさん実を着けるだろう。ここで、後藤さんとチャウが3つのお堂をいったり来たり。九品浄土を象徴する各阿弥陀仏は印相(手と指の組み方)によって区別できるという。その分類基準についてチャウがついに統一理論?を発見したという。ふむ、女性にもそういった論理性があるのかと感心。

歴史は新しいとはいえ都内にこれだけのお寺があるとは知らなかった。しかも、妙に観光名所風でもなく、きちんと信仰が生きている様子に清々しさを憶えて、九品仏を後にする(14:41)。奥沢の住宅街を抜けて等々力渓谷まで歩く。この道は環八、大井町線にほぼ平行している。目黒通りの陸橋をくぐるとすぐに等々力駅、そして渓谷入口だ(15:02)。この渓谷を流れる川は、谷沢川(やざわがわ)と標示がある。“谷”、“沢”、“川”?、地理的には似たような構造物である。どれかひとつにせい、といいたいところだ。ゴルフ橋という興ざめな橋のたもとから渓谷へ降りる。20mくらいは降りただろうか。渓谷の両岸の高木が空を覆い隠してしまうので、谷底は薄暗く、気温も心なしか低い。U字状に深く切れ込んだ谷の底を、清流とはいいがたいが、結構な水量の川が流れている。あとで調べると、東京都世田谷区桜丘五丁目付近の湧水が源流で、上用賀地内の複数の湧水を合流して等々力付近の国分寺崖線を流下する川だそうだ。都内の湧き水だけを水源としているとは驚きだった。

川縁の少し高くなった湿地に歩道が付けられていて、そこをしばらく散歩する。多くの沢登りを経験しているわれわれには、どぶ川渓谷とでもいいたくなるような沢だが、これが都心の環八の真下を通っているところに価値があるのだろう。登山などあまりしたことのないひとには新鮮なのかしらん。等々力不動尊の下の茶屋雪月花(15:28)で、自転車で移動している金谷氏を待って、かき氷(500円はいささか高い)を食べて渓谷散策を切り上げることにする。もうそろそろ一杯の時間である。目指すは新丸子の居酒屋。三ちゃん食堂と福屋である。いまや後藤さん金谷氏共通の知己となった、ご近所の谷内さんに連絡をとり合流を約す。

自転車で直行する金谷氏と別れて、崖の階段を上がって等々力不動尊へ出る(15:50)。目黒通りの延長で工事中の道を逆に戻って等々力駅へ。自由が丘で乗り換えようとして、後藤さんたちに遅れて階段を上っていると、前をのんびり歩いているひとがいる。後藤さんたちは、もう電車に乗ってドアを押さえんばかりにしているので気がせいたが、その悠長なひとはなんと谷内さん。こういう偶然もある。

新丸子(16:24)。三ちゃん食堂と福屋は、以前から、後藤さんと金谷氏の話に何度か出てきた店である。二軒が並んでいて、どちらにするかしばしやりとりがあったが、福屋に落ち着く。入って右にトンカツの調理場とカウンタが、左手前にソバ打ち場があり、奥が座敷になっている。妙にちぐはぐな店だと思ったが、後藤さんの話では、以前は別々に営業していたソバ屋とトンカツ屋が合体したのだそうだ。両店の主人は仲が良く、そば屋のほうの商売が難しくなったので、それを買い取って、ソバ打ちだけをもとのソバ屋の主人が続けているという。珍しいケースである。

このお店、後藤さんがわざわざ紹介するだけあって、料理はいずれも満足できるものだった。枝豆、刺身の盛り合わせ、牛スジの煮込み、柳川などを頼んだ。昼にカツ丼だった金谷氏は、ここでも最初からカツ丼だという。彼の食欲と嗜好には 意表を突く一貫性があって、常人のよく解するところではない。最後はトンカツとソバで締めた。その場でソバを打っていたので期待したがダメ。固いだけが打ち立ての証拠のようなソバだった。ここのロースカツのほうは予想外の上物。なかなかこれだけのトンカツにはお目にかかれない。打ち止めの時間を憶えていなかったが、チャウの話では、延々3時間も飲み、食い、かつダベっていたようである。

人数は少なかったが、今回もなかなか面白い散歩だった。もうすでに、後藤さんには次回の計画があるとか。乞う、ご期待である。

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