道草Web

梓公式旅行 美ヶ原・塩田平

梓編年

参加:冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、中村、橋元

2006年9月2日 土曜日

晴れ。

美ヶ原

少し余裕をもって家を出る(6:34)。今回は、赤羽、王子、本郷経由のルートではなく、近く開通する日暮里・舎人新交通システムの路線に沿って都内へ入り、西日暮里、道灌山下から不忍池をかすめて東京駅を目指した。地図で見る限りは、ほぼ直線的に東京駅へアクセスする素直なルートである。途中、セルフサービスのガソリンスタンドへそれとは知らずに入ってしまい、釣り銭のもらい方がわからず隣の客に尋ねたりしたが、さしたる渋滞はなく丸ビル前に到着(7:36)。地図で見たとおり、このルート、西日暮里の右折と道灌山下の左折以外、ほとんど直線コースで、そのまま丸ビルの前に着いた。いま丸ビルの周囲は工事中の柵で囲まれて車道が歩道に接する場所がほとんどないが、まだ早かったせいで、正面玄関前のわずかなスペースに停めることができた。

集合は8時なので30分ほどまがある。お茶とトイレを探して東京駅前の地下へ降りた。しかし、あのだだっぴろい地下にコンビニはあるがトイレがない。結局、地上階の南口改札横のチップ制の有料トイレを使う。処理に手間のかかる山小屋のトイレならわかるが、いまどきあんなトイレが有料などとは笑わせる。もちろんチップなど払わなかった。

東京駅はダメとわかったので、丸ビルの地下を探した。食堂街を一巡すると、一個所だけトイレがあり、それが都合よく梓の集合場所のすぐ近くにあった。目的を達して地上へ出ると、すでに冨山さんと尚やんが待ちあぐねていた。こちらが東京駅の南口を歩いている姿が見えたので、いったいどこへ消えたかといぶかしく思っていたらしい。尚やんは、闘病から復帰し、久々の梓である。まずは目出度い。

やや遅れた後藤さんを最後に全員集合し出発(8:12)。都心を出るまでは快調だったが、八王子を前に渋滞がはじまり、相模湖を過ぎるあたりまで続いた。双葉SAで休憩し(10:43〜)、松本ICで高速を降りる。

松本の町中へ入り、大名通りから鯛萬と桜屋のある小路へ入って、ホテル花月の裏の駐車場に停める(11:55)。そばの小林本店で昼食。昔から有名な店だし、何度か来たことはあるが、そばは新丸子の福屋と大差はない。福屋も裁ち方を工夫すればこの程度にはなろう。

食後は、美ヶ原を目指す。美ヶ原のふる里館着(14:02)。駐車場が一杯で空きを探すのに苦労するほどの混雑だ。記憶はさだかではないが、前回の美ヶ原では、このふる里館で雨中一杯やりつつ、谷内さんが車を取りに行くあいだ時間をつぶした。前回は視界が効かなかったので、美ヶ原は煙霧のイメージしかなかったが、この爽やかな晴天で見ると、広大な山頂の牧場である。大野山をぐんとスケールアップしたようなところだ。牧場の敷地は卜の字のヨコ点を延ばして、左へ傾けたような形で、ふる里館はそのヨコ点の突端に位置する。前回見ることのできなかった全貌を見ることができたのだが、観光地の雰囲気が優勢であまり感興はわかない。多くの観光客が普通の服装で散策している。ときどき完全装備の山屋もみかけるのだが、このあたりにそんな格好で出かける山があるのか ?(ここも深田久弥の百名山のひとつとあとで知った。いや、読んでるはずなんだがと、読み返してみると、日本におけるヨーロッパ風の高原の第一としてここを挙げていた。そのなかで「全く、桁が外れて広い。美ヶ原の範囲はどこまで指すのか知らないが…………」とあり、同じことを善さんも質問していたなあと微笑んでしまった。もちろん久弥の推奨は、観光地化する以前のここである)。

はるか遠く、卜の字の頭辺りにひときわ高い小山が見え、ホテルらしき大きな建物がある。そこが美ヶ原最高地点の王ヶ頭で、今日の目的地だ。しかし、どうも雰囲気がよくない。ホテルの背後にアンテナが林立していて、魔界の王ヶ城のように、まがまがしい毒気を吹きおろしているかのようだ。ふる里館から奥へは一般車は入れない。とりあえず歩こうということで、支度をして王ヶ頭を目指す。牧柵に仕切られた広い未舗装の車道を歩く。さすがに標高は2000m近いので、高山植物が豊富だ。普通の御花畑と違って、牧草として播種された外来種の草花が何種類かある。

タカネマツムシソウ、ハクサンフウロ、ミヤマアキノキリンソウ、エゾリンドウ、ハナイカリ、ヤマハハコ、ヤナギラン、ゴマナ、ワレモコウ、ノアザミ、ツリガネニンジン、ミゾソバ

残念ながらミゾソバ以外はすでに最盛期は過ぎていたが、とくにハクサンフウロとタカネマツムシソウの数が多いようだ。すでに花はなかったがタテヤマウツボグサも少なくない。

しばらく歩くと石積の高い塔がある(美の塔)。塔の先頭に鐘が吊してあり、曲線と直線をシンプルに組み合わせた塔のプロフィールは美しい。尾崎喜八の『美ヶ原熔岩台地』の詩の一節がレリーフになっている。

この碑文を読むと、たしかに車道も車もなかった時代に、脚で一歩一歩高度をかせいで、この地に立てば、なるほど、こんな感慨に浸ったかもしれないと思う。前回のふじさわ山荘のときは、山荘から直接美ヶ原へハイキングしているが、そのときこの塔の横を通った覚えがある。

そこからまたしばらく行くと塩くれ場がある(14:44〜15:39)。あとで調べると塩くれ場の少し先の辺りに、ふじさわ山荘からの登山道が接続しているようだ。ここが牧場の中央でもあり、ヨコ点の付け根だ。石碑に明治42年牧場創始、昭和46年に第二牧場開設とある。写真を撮りながら なので大分遅れていた後藤さんと善さんを待つうちに、もうそろそろこの辺でいいのではないかという話しがでた。さいわい、休憩に格好の椅子とテーブルがあり、金谷氏がワインもパンも、バターすらザックに潜ませているとわかった。ちょっと一休みして区切りをつける条件は満たしている。すぐに追いついてきた後藤さん、善さんも異議なし。さして腹がへっているわけではないから、まあ句読点といったところだ。

冨山さんはさっそく絵筆を出してスケッチに余念がない。カメラ持参のひとはめいめい気に入ったショットをねらって周囲を歩きまわる。テーブルの中央にワインとパンとバターがあることはいうまでもない。気が向くとテーブルに戻り、ちょこっとbread and butterをつまんではワインをすすり、また撮影を続ける。青空を背景に、アカトンボの大群が遊弋する。風上に向かってホバリングしているのが基本で、風速・風向の変化と戯れるように位置や速度を変え、またある瞬間、意志があるかの如く決然と風と無関係な方に突き進んだりする。しばらく経つと飛んでいる蜻蛉の数がぱたっと減る。地べたを見やると、岩や草にたくさんの蜻蛉が止まって羽根を休めている。どういう行動パターンをとるのか個体の動きを追跡してみたが、どうもよくわからない。ダーウインのように執拗に法則性を探求する根気も知能もなく、ぼんやり蜻蛉の群舞を眺めて時間をつぶした。

同じ道を戻ってふる里館へ戻り(16:08)、ふじさわ山荘へ。山荘着(16:35)。正式には、藤沢市民美ヶ原休暇村ふじさわ山荘という。美ヶ原の西麓の三城(さんじろ)地区に位置し、周囲に企業や自治体の休暇施設がいくつかあるようだ。ふじさわ山荘は茶色を主調とした木造の建物で、実質は三階建て相当だが、斜面に沿っているので平屋のように周囲の森林に埋没して見える。手入れよく長い年月を経た人工物が、違和感なく自然にとけ込んでいて、一見して好ましい印象を受ける。その広いエントランスの階段が、これから過ごす時間の心地よさを予感させるようである。

適当に二部屋に分かれ、めいめい風呂へ入ったり部屋でくつろいだりして、食事までの時間を過ごす。そのうちに、待ちきれなくなって、まずビールから始まった。広いダイニングの一段下に格好のスペースがあって、そこでプレ宴会が始まる。ほどほどの時間で夕食になったが、これが素晴らしかった。和風、洋風という区別はなく混然としたスタイルなのだが、一品一品に手が掛かっていて、どれをとっても酒の肴に申し分ない。あとで、勘定書を見ると、これが1600円であった。酒の持ち込みは自由。後藤さん寄贈の一升瓶がおおっぴらにテーブルを行き交う。回復途上の尚やんも、厳しく自制しつつコップ一杯の美酒を楽しんでいる。

夕食後は、また一室に集まって、わいわいと騒いだことはいうまでもない。近頃の山行では、歳には勝てず宴会もそこそこに寝込んでしまうが、今日はそうではない。大した歩きではなかったし、車中で寝たいだけ寝ている。 てぐすねひいての梓風大宴会である。例によって談論風発であるが、もちろん盛り上がりの中心は重鎮である。テーマは何であれ、結論は“けしからん”のだ。とくに、佐藤栄作が、こともあろうに無辜の一般人を無数に巻き込んだアメリカ軍空爆の責任者たる男に勲章を与えたという段に及ぶや、テーブルを叩いての“けしからん”の嵐となった。そのすさまじさに、支配人が顔を出して、もう少し静かにするように懇願されたが、これこそ想定内で、ドアのノックの音で成り行きは見えていた。しかし、支配人の笑を絶やさない嫌みのない要請に快く従ったのはいうまでもない。珍しく靖国問題では意見が分かれたが、お兄さんが祀られている善さんと、縁もゆかりもない梓の大方の意見が違ったのもいたしかたのないこと。理屈を押して靖国の存在を否定しても、心情の根底に流れるものは変えようもないし、他者のとやこう容喙すべき質のものでもない。翌朝、冨山さんは開口一番、昨日は盛り上がった、みんなも二日酔いやろうとおっしゃったが、多分、二日酔いは重鎮一人ではなかったろうか。なにはともあれ、 ひさびさに梓らしい一晩であった。

2006年9月3日 日曜日

快晴。

塩田平

気持のよい思い出を残してふじさわ山荘を立つ(8:58)。今日の目的地は、大森氏も推奨という塩田平だ。といっても、こちらはまるで予備知識がない(あとで調べると、この地域の最盛期は、鎌倉幕府の直轄地の時代であり北条の末裔塩田北条氏が治めていたとあった。そこから信州の鎌倉というとか)。場所も見当がつかないから、これから先は、あとで地図と首っ引きの説明だ。ナビの後藤さんの指示通り、まずは松本へ戻って給油し、市街を北上して県道254へ出る。この道はほぼ女鳥羽川沿いに西行している。途中に三才山トンネルという有料区間がある。ここが分水嶺で、女鳥羽川は終わり、トンネルを出ると依田川という千曲川支流に沿って下ることになる。途中の荻窪で左折して県道65を北上。またも平井寺トンネルという有料区間がある。その名の平井寺を過ぎた辺り(東塩田か?)で、左折して県道82号へ入り東行する。この県道は地図で見ると幹線道路のようだが、実態はあぜ道に毛の生えたようなもので、普通車さえすれ違えないところが何ヶ所もある。この82号を行き詰めると別所温泉なのだが、その途中に本日の目的地、塩田平があるのだ。ここまで書いてくると分かるようにルートはコの字に後戻りしている。要するに独鈷山という独立峰を中心に、そのはるか南西からアクセスし、東側を大きく迂回して北側へ回り込んでいるのである(逆に西側を回ると距離は短いようだが、相当な山道らしい)。本日のスポットは、すべて82号から南側、独鈷山の北麓へ入り込んだ山道沿いに点在する。

メモ:塩田平

塩田平についてはWebにいろいろなサイトがあるが、塩田文化財研究所というところの塩田平の文化と歴史が一番本格的かつ網羅的だった。

戦没画学生慰霊美術館無言館(10:16〜46)。あまり興味はなかったので、みんなが中に入っている間、館の周囲を回ってみた。外周はコンクリートの打ちっ放しで、プランは東西に長い十字形。もちろん十字架のメタファーだろう。東西を主軸として短軸の南側が入口で、主軸の左肩に点を打つように、時の庫という絵の修復作業をする別棟がある。全体の印象は、ロマネスク教会の現代版。ここは西欧ではないし、戦没画学生がクリスチャンとは限るまい。特定の宗教が鎮魂になるのだろうか。安易に不自然な宗教性を匂わせる設計手法は違和感がある。しかし、お山の大将ぼく独りのような、いい立地の美術館ではあった。

真言宗智山派独股山前山寺(ぜんさんじ) (10:55〜11:33) まず黒門と称する木戸のようなものがあって、そこから上り坂の参道がしばらく続く。その両側には樹齢700年と標示のあるケヤキなどの古木が点在している。しかし、いずれも樹高はさほどないので日光の杉並木のように薄暗くはならず、参道の左右には明るい畑が拡がっている。参道の最後はわずかな階段で、その上に茅葺きのちいさな山門(正しくは医薬門というそうだ)がある。階段を上って門をくぐると参観料100円の標示がある。まあ、許せる範囲だ。左手に本堂があるが、まず目にはいるのが正面の一段高いところにある檜皮葺の三重の塔。これはいい。整斉たる古色といおうか、こぶりだが均整がとれて弛緩するところがない。正面の階段を上がって塔を目の当たりにする。風雨にさらされる外壁にもよごれは見えず、浮き立った木目がすがすがしい。説明板によると、禅宗様式と鎌倉期の和様の折衷で、二、三層が未完だ(その痕跡もある)そうだ。が、そのような印象はまったくない。塔の二層正面にこの寺の本尊大日如来の額、一層正面に釈迦如来、左右と裏にも各方面の如来の額が懸かっている。突如、境内に拡声器の音が響き渡り、この寺の解説が始まる。これはいささか無粋であったが、その一節に、未完成の完成の塔だとの言及があった。周囲の木立が近接しているので写真は撮りにくそうだったが、北西の方向がやや開けている。冨山画伯はそこへどっかと腰掛け、スケッチを開始した。塔の正面に向かって階段の左に銀杏の古木、右に名前の分からない樹高5mほどの木が植わっている。ホウズキをスリムにしたような袋状の実がたくさん樹冠を飾っていて人目を引く。落ちている実を拾ってみると、袋は三室に別れていて、各室にジュズダマのようなちいさな実が1〜2個入っている。みんな気になったのだが誰も知らない。善さんが庭木の手入れをしていたひと(話し方からして坊さんだったかも)に訊ねると、モクゲンジだそうだ。漢字名と意味は辞書に相談されたし。パソコンにはフォントがない。

塔が圧巻だったので、手前の本堂を観るのがあとになったが、これも厚い茅葺きの屋根を頂いた存在感のある建物。とにかくこの茅の厚さは尋常ではない。優に2mほどもあったろうか。正面に大きく突きだした唐破風の曲線まで茅葺き細工で、切りそろえた下面に“水”の字が刈り込まれている。左右の屋根は、中央が凹状に大きく沈んでいる。水はけが悪そうだが、なにか意味があるのだろうか。

寶珠山龍光禅寺(11:44〜49)。塩田北条氏の菩提寺だそうだが、この境内は見るべきものはなかった。

塩野神社(11:54〜12:00)。 後藤さん期待のスポットだったが、古色蒼然を通りこして荒廃の極みにいったっている。かつて流鏑馬が催されたという面影はない。神域の結界として沢があって屋根付きの神橋(太鼓橋)が架かっている。その奥に、こぢんまりした神社がある。手前に拝殿と御輿倉(?)があり、奥に本殿のあるシンプルな構成。目を引くのは拝殿が二層の櫓造りで、本殿に負けないほどの風格があることだ。まったく手入れのされていない木造建築は破損し、苔やカビに覆われて痛々しかった。神域の右上手に大岩が散在し、各岩の上に石造りのちいさな社がある。中央のひときわ大きな岩には、木造のやや大きな社があって、左右にちいさな石の社を従えている。これらは依り代であることは明らかで、こうした構造を岩座(いわくら)というのだそうだが、尾瀬の岩鞍、立山の岩峅も同義だろうか。これほど多くの依り代があるからには、独鈷山には大勢神様がいて、ときには御神酒をきこしめして梓のようにどんちゃん騒ぎをするかもしれない。

真言宗智山派竜王山中禅寺(12:05〜31) 塩野神社のすぐ先の小道を左へ入って少しゆくと左に駐車場、右に茶屋があり、ここも参拝料100円とあった。中央に一直線の登坂の参道があり、まず左手に作りかけのような枯山水があ るが、これはご愛敬。右手が本堂(延命地蔵が本尊だそうだ)で、これは茅葺きをブリキで覆った今風のお寺。さらに奥の右手に薬師堂がある。これが目玉だ。薬師堂には参道に交る向きに山門があって、QPベイビーのようなかわいらしい仁王が迎えてくれる。ここも手入れのよい茅葺きのお堂で素朴だが品位がある。屋根の頂上に四角い台座があり、その上に宝珠を置く形式を宝形(ほうぎょう)造りというのだそうで、中尊寺の金色堂やカメちゃんが梓ギャラリーに投稿した国宝白水阿弥陀堂も同じ形式だそうだ。もっとも白水阿弥陀堂は金色堂を真似たというので当然といえば当然か。お堂の中の薬師如来は、はっきり姿を見ることはできなかったが、おっとりと上品な雰囲気を漂わせていた。あとでWebの写真を見てもこの印象は正しかったようだ。帰り際、入口の茶屋でしきりに勧めるので無料のそば茶と漬け物を馳走になる。ついでに、好物の甘酒も頼んでみたが、ほんのりと生姜の風味が効いて美味かった。みんなも漬け物が気に入ったのかいろいろ土産を買っている。この無料、したたかである。

本日のお昼は、小諸の鰻屋藤舟(ふじふね)に決まった。2004年6月の水ノ塔山・篭ノ塔山・布引観音のとき川喜多山荘から藤舟へ電話を入れたが、携帯に登録した番号が1番違っていて連絡がとれなかった。今回は、2時半まで営業中と確認済みだ。県道82号を来たとおりに戻って県道62号を横切り、さらに西行する。あとは小諸方面の標識を頼りに千曲ビューラインをたどって18号に出れば小諸はまぢかだ。小諸の手前で、市街方面への案内に従って進むと、JRでなく、いまや、しなの鉄道小諸駅の手前に懐古園入口の信号がある。今回は、行きすぎて懐古園の先までいってしまったが、ここで左折して鉄道をくぐる。そのまま200mほど坂道を上がると、右手に藤舟がある(13:17〜)。昼時で混んでいたが、奥の座敷へ上がり、4人用のテーブル席を7人で座って、ビールに酒、前菜に柳川などを頼む。この辺の客はあがりが早く、すぐに隣の席も空いて、2つのテーブルをつなげてゆったり飲むことができた。後半のドライバー善さんには申し訳ないが、酒がほどほどにまわったところで、特上鰻重が運ばれる。ここの鰻は、東京でも通じる、なかなかのものだ(シャリは今一だが)。今回もまた期待通りで、この旅の仕上げとして文句はなかった。

中央高速でなく関越へ出たのは正解で、ほろ酔いでうとうとするうちに、さしたる渋滞もなく外環へ抜け、途中で給油をして、南浦和へ帰り着いた(17:15?)。あとは後藤さんを新井宿でおろして旅は終わった。いまや山岳会ならぬ仲良し倶楽部の梓であるが、この旅もまたみんなで楽しく過ごすことができた。さて、次回はどこに決まるだろうか。

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