道草Web

梓公式散歩 小田急沿線 武相荘、川崎市民家園

梓編年

2006年9月23日 土曜日

雲の多い晴れで気温高く、台風の余波の風がある。

参加 冨山、後藤、中村、橋元(宴会参加 金谷)

今回は小田急沿線の散歩だ。ほぼ時間通りに鶴川駅の北口改札に集合。まず武相荘へ向かう(10:02)。知る人ぞ知る白州次郎、正子夫妻だったが、最近は急に有名になった感がある。夫妻の死後、遺族が旧住宅を公開したのだ。お二人ともとうに他界しているが、まあハイソ、ハイカラ、ハイテイストのサンプルのような夫妻で、わざわざ説明するのもためらうところがある。興味があればWebででも覧ていただきたい。武相荘の名は、武蔵の国と相模の国の境にあるからだが、“ぶそうそう”でなく“ぶあいそう”と読ませる。そ の意図は説明するまでもなかろう。

駅からは余り快適とはいえない車道沿いの道を20分ほど歩く。小田急線沿いに津久井道を少しもどり、左側から合流する鶴川街道 へ入ってしばらく歩くと、左側に武相荘の大きな看板がある。指示に従って左側の丘へ登るとすぐに武相荘がある(10:19)。当時 、鶴川辺りではごく普通だったほどの農家を買い取って整備し、昭和18年、ちょうどぼくの生まれた年に引っ越してきたという。 ぼくも子供の頃は登戸で育ったからおよその見当はつくが、そのころのこのあたりは、結構な山奥だったろうとおもう(現在は完全な住宅街)。ひとの懐は知らないが、当時とすれば彼らのポケットマネー程度で、周辺の山ごと買えたのではないか。次郎は、いまでいえばDIYが趣味のひとで、自宅として住まいしている間にも、絶え間なく庭や造作に手を加えていたようだ。

敷地の手前にちょっとしたスペースがあり、その左に受付がある。なんと入場料1000円。普段ならぼくはパスするところだが、今回はここが目玉なのでそうもいかない。しぶしぶ料金を払ってはいる。まず長屋門があって、その奥に庭がひろがり、北側(右手)に家屋が配置されている。左手は竹藪の斜面だ。長屋門はあとから移築したのか前からあったのかしらないが、前からあったのなら庄屋クラスの農家だったろう。

一見して、近頃どこにでもある、農家改造風ギャラリーだ。南に向かって三間が並んでいて、その中央の間が入口。そこで、下足を脱いで袋に入れて携行する。入ってすぐ右手に遺愛の食器類、左手に同衣類が整然と並べてある。使ってみれば、 あるいは、着用してみれば、味わいのあるものかもしれないが、陳列されて いるだけでは、どうこういうほどのものではない。全体に民芸風の趣味で、朝鮮の民具が好みなのか。バーナード・リーチが日本に紹介したスリップウエアもある が、これは次郎の英国留学のノスタルジーか、あるいは、正子の趣味の延長かとも思った。

母屋の北側の旧隠居部屋が次郎の書斎になっていて、その手前の間の周囲が書架になっている。蔵書を見ると夫妻の生きた時代の知識層としては普通のもので、とりわけ目だった傾向もないように思う。四畳半ほどの書斎は、周囲が本棚にとられて狭く感じるが、奥 の壁に広めの窓が開けてあり、北側の緑の斜面の反照が部屋を満たして心地よい。北側にあってほどほど明るいというのは書斎には理想的だ。掘りごたつの上に重厚な机を掛けて、そこで思索と執筆に明け暮れたのだろう。彼の本は読んだことはないが、この屋敷のあちこちに掛けてある断簡を 瞥見しても、衒いのないさらさらと流れるよな文章を書く人だったようだ。 一番印象に残ったのは、彼の遺書で、毛筆で二行「葬式無用 戒名無用」とだけあり、あとに家族の名前を列挙して落款がある。その墨痕の暢びやかで躊躇のないこと。遺書にこんな字が書けるとは。百万言を費やして回想録を綴るより明白に、かれの過ごした人生の充実を語っているように思えた。かえりみて、ワープロでしか文字が書けないとは、とほほの人生である。 記録を書き終わって、後から思いついたのだが、奥の座敷の床の間に掛けてあった熊谷守一の書と、この遺言にはなにか共通する雰囲気がある。次郎と守一とでは似ても似つかぬ境涯だったはずだが。

屋内を一巡して前庭へ戻る。少し離れて母屋を覧ると、茅葺きの屋根はもう大分傷んでいる。その三分の一ほどをツユクサの叢が覆って風情を添えている。これが、外来のムラサキツユクサでないのが、またいい。庭の奥に鈴鹿峠の碑があり、そこからちいさな丘を一巡する散策路が延びている。散策路といっても、すべて歩いてもほんの十数分しか要さないが、執筆に疲れたときに気分転換には格好だったろう。気まぐれに地方で買ってきた石仏のようなものが道端であくびをしている。

武相荘。ちょっと気になっていたので行ってみたが、予想した以上でもなし、以下でもなしといったところか(11:08)。ほぼ同じ道をたどって鶴川駅に戻った。

鶴川から小田急線で向丘遊園へ戻る(11:50)。まず昼食をしたため、午後は民家園と岡本太郎美術館を訪ねる。このあたりはぼくが子供の頃のテリトリーで目をつぶっても歩けるくらいのものだが、めぼしい食い物屋など記憶にない。懐かしいといいたいところだが、あまりに変貌してしまって何かを想いだそうにも、そのよすがもほとんどない。後藤さんの提案で、民家園の中のソバ屋にすることになった。民家園は、駅南口の広場から南下する道をそのまま進めば15分ほどでいやでも行き当たる。

民家園と岡本太郎美術館のある一帯は、生田丘陵が多摩川へせり出すあたりで、その突端の枡形山の南麓を拓いたものだ。枡形山の周辺は、ぼくの小学校の頃の遊び場で、山頂の広場でキャンプをしたり、沢の湧き水でカニを採ったり、丘陵の上に拓かれた畑の周辺で土器や石器を探した。いまでは信じられないかもしれないが、耕作の邪魔になる土器や石器が、石くれのように畑の周辺に投げ捨てられていた。その頃、民家園の辺りはちいさな沢にそって田圃の散在する湿地帯だったように思う。

川崎市立日本民家園(12:10?)。ここは入園料500円。川崎のような金持ち自治体は、もうすこし安くしてもよかろうとおもうが。まず、入ってすぐに日本の民家の構造と建築方法に関する展示室がある。ここで基礎知識を得て園内を見て回るという配慮なのだろうが、たくさんの知識がそう簡単に頭に入るものではない。ざっと見て園内へ入る。斜面をゆるやかに登る見学路にそって、テーマごとに古民家が点在する。最初に宿場エリアがあって、いろいろな商売を営んでいた民家が並んでいる。そのさきは地方別になり、まずは信越の村だ。最初はあれやこれや目移りがするが、そのうちにだんだん間取りに共通する要素がわかってくる。南面する玄関(農家の場合、玄関という用語が適当か?)を入ると、まず屋内作業場としての土間(北国ではニワともいうらしい)があり、土間には竈や水場のある台所と板敷きの食堂部分とがある。また、土間の周囲には厩と味噌の保存場所がある。座敷は用途別のランクがあって、台所近くから、家族が日常に使う居間、客をもてなす客間、仏壇のある奥の間の順に展開し、仏間はおおむね最奥にある。座敷をデイと呼んでいるところが多かったがその語源は分からない 。

信越地方エリアの最後に様式の異なる合掌造りが四軒ある。合掌造りのトリは、白川村で料亭に使われていた旧家で、そこがソバ屋になっていた。これでやっと昼にありつける(12:51〜13:25)。入口の食券売り場で、全員とろろソバと決めて、それにビール2本、冷酒2本の食券(色とりどりのプラスチック板)を買う。ビールはキリンクラシックだったのでやれやれ。合掌造りの天井の高い座敷に上がると、ボランティアらしき白髪の媼がたった一人で立ち働いている。表廊下の一番見晴らしの席が空いていたので、そこに陣取る。障子は開け放たれたれていて風が爽やかも吹きすぎ、眼下の公園に展示してあるブルートレインが木の間がくれに見える。まずビールと酒だが、ビール二本、酒二本頼んだからといってコップ二個、お猪口二個はないとおもうが、悪気はなく単に気づかないだけらしい。コップと猪口の追加を頼むと、ピーナッツと柿の種の入った小さな袋が人数分がついてきた。時間からして、そうとう空腹だったせいか、この酒は相当効いた。

食後、ほろ酔いで二階の展示室を見て表へ出る。表の広場にみたらし団子屋があり、みんなでおはぎをほおばった。いや、満足じゃ。ここで、信越古民家の解説ツアーが2時から開かれるとアナウンスがあったので、後藤、中村、橋元はさっそくそれに参加。重鎮は、その間、心おきなくスケッチとあいなった。

解説は、三内丸山のような素人のボランティアではなく、古民家の研究家らしい。もう、少しおつむはぼんやりしているようだったが、解説は楽しかった。前提となる知識もなく漫然と見ているだけでは、ほとんど見ていないようなものである。積雪と柱の太さの関係、天井裏の木組みの構造(とくに西欧建築のアーチ構造にも通じる、梁のチョウナ造り)、日常や冠婚葬祭で異なる出入り口の区分(戸外から仏間へ直接出入りする個所を“猫馬鹿坊主”と呼ぶとは、気に入った。これも説明はいらないだろう)などの解説がある。ときおり質問をすると、うっすらと靄のかかったような返事が返ってくるのが、また楽しかった。彼の解説によると、関東地方に移転されている合掌造りは五軒しかなく、そのうち四軒がここにあり、残りは三溪園のものだという。それなら、梓の横浜散策で見ているので、われわれは、そのすべてを知ったことになる。

ツアーが終わって(15:05)、冨山さんと合流し、後半の展示を見学する。残るは関東の村、神奈川の村(神奈川は関東だが、ここは、それ川崎の施設だからね)、東北の村となるのだが、まあこのあたりはほろ酔いということもあって、適当にのぞいて歩いたという程度だ。惜しむらくは、関東の村の印象がいささか貧しかったこと。それは経済的にではなく、内面的なものの反映かもしれない。一見したときにゆとりが感じられない。座敷も板敷きではなく、竹竿をざっくりと渡して、座る部分に茣蓙を敷いただけ。竹竿の隙間から地べたが直接見えている。これでは、夏は涼しいだろうが、冬ともなればおちおち寛いでもいられまい。なにか理由があったはずだが、そのあたりは次回の課題としよう。武相荘はもう行くことはあるまいが、こちらは何度か訪ねることもあろう。民家園を奥門から出る(15:52)。

あまり興味はなかったが、ついでだし、時間もあるので岡本太郎美術館まで足を伸ばす。以前に一度通過したことはあるので概要は知っている。万博の太陽の塔は大いに評価するが、あとは特に見たくもない。この美術館にも、面長のマッシュルームにいくつか人形が生えたような巨大モニュメントがあるが、彼の作品にしては妙に神経質で好きになれない。冨山さん、後藤さんが無料パスの特権を利用して一巡しているあいだ、チャウと二人でベンチに座って酔いをさました。池の中にしわくちゃの梅干しからオリックス・バッファローズの角が生えたような造形、むろん太郎作、が置かれている。もっともらしい作品名や解説があるのだろうが、われわれは、やれ“いちぼ角”だの、いや“きれじ角”だの無責任な冗談で時間をつぶしたのだった。

金谷氏とは、新丸子の福屋で5時半に待ち合わせである。時間調整に登戸まで歩いた。いまは無惨なビルとなってしまったわが小鳥屋の前を通り、思い出という言葉のやすらぎを完膚無きまで粉砕する登戸駅のメカニカルな駅舎に驚嘆し、なぜか昔と変わらないシャビーなアスファルトのプラットホームを踏んで南武線の電車に乗った。

まだ5時少し過ぎだったと思うが、福屋は満員で、すでに到着していた金谷氏がご機嫌でわれらを迎えてくれた。前回の目黒散策同様、楽しい宴会がくり広げられたのはいうまでもない。最後は、決して揚げ方がお上手とはいえないトンカツの美味に舌鼓を打ち、前回より数等うまく打たれていたソバで〆とした。そして、次回は11月11日の鎌倉散策、担当は冨山さんということまで決まって、目出度く散会したのでありました。


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