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梓公式散歩 鎌倉の切通を訪ねて

梓編年

2006年11月11日 土曜日

参加 冨山、後藤、鈴木、金谷、中村、橋元

今回は、冨山さんの計画で鎌倉の切通を訪ねる。

    バスで「十二社神社前」まで。徒歩→朝比奈切通→旧華頂邸前(昼食)→

  釈迦堂切通→鎌倉駅→寿福寺→(海蔵寺)→亀谷切通→北鎌倉駅

の予定だった。しかし、天気予報は悪い方へ悪い方へとずれている。朝7時のTVの気象図では、はっきりした前線が接近中、西日本側は降水マークでいっぱい。こんな天気でも、と気になり、掲示を見たがなにも出ていない。本当に実施するのか?と掲示を送信したが、ほんのわずかのちがいで「鎌倉・雨天決行」の掲示が出ていた。こちらがキーボードを叩いている間に、冨山さんと連絡をとった後藤さんが投稿したのだ。さっそく、こちらの掲示を削除し、出かける用意をする。7時半を少し回っていたろうか。玄関の戸を開けると、ちょうど雨が降り出したばかりのようだった。降りだした直後に特有の埃くさい風が吹く。

赤羽発8時27分。赤羽からは湘南ラインで鎌倉まで乗り換えはない。鎌倉着9時41分。その間、車窓の雨は絶えなかった。この天気だというのに、改札前は修学旅行の学生や観光客で 混雑していた。集合は10時だからまだ早いが、もうみんなの姿が見える。冨山、後藤、鈴木、姿の見えない金谷氏は、近くでコーヒーを飲んでいるという。ぼくが5人目、最後はチャウだった。

冨山さんと後藤さんが相談し、この天気では朝比奈切通は無理だという判断。午前中は、近場の鶴岡八幡宮、鎌倉宮、瑞泉寺を、午後は様子次第で予定通りに、ということになった。ほんらい昼食は、ビールを持参し、冨山さんお薦めの鯵の押し寿司を旧華頂邸前でというはずだったのだが、この天気ではそれもならじ。冨山さんが以前から気になっている駅近くのトンカツ屋が昼食の目標となった。

定番というので小町通を通って、鶴ヶ丘八幡へ向かう。小町通は、いろいろな制服の修学旅行生が目につく。若くて元気とはいえ、この雨では気の毒だ。冨山さんの掲示にもあったが、このあたりで食事をしてよかった記憶はない。冨山さん、後藤さんは、鎌倉はお手の ものだし、ぼくも小学校の遠足以来何度となくきているが、金谷氏は東京近辺に住んでいながら鎌倉が今回初めて、善さんも二度ほど来たことがあるだけという。これは意外だった。

のっけから脱線だが、仮名手本忠臣蔵は、ここ鶴ヶ丘八幡(「大序 兜改めの場」)からはじまる。それは、時代を江戸から鎌倉時代へ移しているからなのだが、はじめて文楽の通しで大序を見たときは、なんで鶴ヶ丘八幡かといぶかしかったものだ。参道には七五三の着飾った親子 連れが目につく。せっかくの晴れ着をこの雨に濡らして可哀想に思ったが、子供は元気だ。水たまりにわざと飛び込んでハネを揚げて喜んでいる兄弟がいて、微笑みをさそう(10:07)。

静御前の舞で有名な舞台は、つい最近修理が終わったそうで、葺いたばかりの赤い銅の屋根が目立つ。そこで、めずらしく結婚式が行われていた。参道のど真ん中だから、大勢の参拝のひとびとは珍しそうに眺めながら通る。それを晴れがましいと思うか、照れくさいと思うかは、趣味の問題だ。式次第は本格的で、普通は、神主が一人でやるところを、巫女さんまで弊をもって儀式らしきことをしていた。伴奏の雅楽も、録音テープではなく、3人の奏者が実演している。ア・カペラならぬア・シュラだなどと駄洒落を飛ばす。このなんだか小朝風の駄洒落は、説明しなければならないのが辛いところだが、a cappellaは“教会にて”ということで器楽なしのユニゾンの合唱だが、ここは神社で器楽のみの演奏だからa shrineのつもり。チャウには鼻先であしらわれたが、阿修羅にも通じて、結構、ひとりで気に入ってしまった。

公暁の大銀杏を横目に階段を上がる。小学校の遠足で、話でしか聞いたことのない実朝暗殺の現場に、自分がいまいるのだということに、不思議な気分をあじわったことを想い出す。本殿の中は、七五三の親子連れで混み合っている。細かな手順は柱の奥で見えないが、流れ作業のように、つぎつぎと祈祷が行われているのだろう。階段下の祈祷申込所でも長蛇の列をなし、本殿の祈祷でも延々と行列して、いやはやご苦労なことだ。でも、子供にとってはいい思い出になることだろう。

頼朝公墓所(10:36)。八幡宮の奥山と同じ連なりにあるだろうと思われる山の途中まで、急な階段を上ると、深々とした森に囲まれて、苔むした石塔がひとつ。あまり人が来ている形跡もない。廟の四隅に立てられた「頼朝会」という幟だけが新しい。振り返ると正面間近にも小さな山がある。この墓所とその山の間は、いまは低層の住宅街になっているが、そこに鎌倉幕府が置かれていたという。こんな狭いところに、当時の日本の軍事的な中枢があったのかとおもうと、意外である。このあと、あちこちと回って歩いて感じたのだが、京都、奈良を経験している目から見直すと、鎌倉はどこもこぢんまりとして、せせこましいくらいだ。それは鎌倉の立地のスケールからくるのだろうが、その条件を選んだ創設者頼朝の心理的なものもあるのかもしれない。守ることの固きに主眼があり、ここから発展することは彼の意識にはなかったか。

官弊中社鎌倉宮(10:42)。後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が祭神。(おおとうのみや or だいとうのみや、もりなが or もりよし 読みの変遷はWikiPediaなど参照)。このお宮の背景には明治親政があるようで、同じく後醍醐親政のときに活躍した皇子を顕彰するために明治天皇が建立したという。親王が幽閉された土牢は有料なのでパス。申し訳ないが『鎌倉宮 七五三セットプラン』には笑ってしまった。そのせいではないだろうが、雨が急に激しくなり、とても歩ける状態ではなくなった。しばらく、「厄割り石」の屋根の下で模様見をする。なんでも、初穂料を払って土器を買い、それを屋根の奥に配置してある2つの自然石に打ち付けて割り、厄を祓うのだという。雨宿りはさせてもらったが、だれも初穂料を払うものはいなかった。戦前は体制のバックアップがあったからいいようなものの、歴史が新しいだけに人寄せにはいろいろ苦労をしているようだ。境内の無料休憩所でいっぱいやるかの話も出たが、やがて小降りになり、瑞泉寺へ(11:00)。

金屏山瑞泉寺(11:15〜43))。臨済宗円覚寺派。関東十刹の第二座。夢想疎石の創草で五山文学発祥の地だそうだ。鎌倉五山にはいっていなくて、十刹の第二座はないだろうと思ったが、幕府による寺の格付として五山十刹(五山>十刹)があるのだという。そういえば、高校で習ったかもしれない。

もともとの参道はすでに車道になって、観光客相手の真新しいショップなどが点在する。まるで取り残されたような総門の手前にわずかに旧参道の面影を残す部分があり、期待が膨らむ。拝観料100円なりを払って入場。三門への上り坂の入口に 「夢想国師古道場」の石碑がある。ここまでは車の入るいまどきの風景だが、石段からさきは別世界。トンネルのようになった木の下道を上りきると三門がある。といっても、ちょっとした庄屋が構えるような屋根つきの門にすぎない。

三門をくぐって中へ入ると、正面に本堂、右手前に庫裡があるが、伽藍よりも庭一面を覆い尽くす草花、樹木の存在感が濃い。そのなかを、低く刈り込まれたサツキの垣根に限られた歩道が延びている。ここはウメの名所らしく、松島瑞巌寺の臥龍梅を思わせるような古木が多い。おしなべて樹高があり、樹皮に鱗のような緑青色の苔を置いている。地べたもほとんど苔に覆われて、そこに丈の低いセンリョウ、マンリョウが赤い実を見せ、スイセンやエゾリンドウの草むらが点在する。伽藍は自然の力に気押されて、押し黙っているかのようだ。近頃の観光名所の寺社は、隅々まで整然と庭園の手入れがされていることが多いが、ここは手入れ半分で、あとは自然に任せるといった風情。それはそれで、好ましい。

本堂の裏に池があり、その奥は水成岩の垂崖になっている。鎌倉の寺は、このように谷の奥にあって、背後に崖をひかえているところが多いようだ。その崖には浅い横穴がいくつか掘ってある。後藤さんの話では、鎌倉辺りでは、それをやぐら(平仮名表記)というそうだ。矢倉から来ているのだろうが、寺だから武器庫というより墓所に使われるという。この寺の案内板では、座禅に 使われたやぐらもあった。境内図によると、その池に懸かる石橋を超えて、崖を左からジグザグに登る山道があり、頂上に徧界一覧亭がある。 あまねく世界をいっぺんに見渡せる亭というのだろうか、いかにも禅僧らしい発想だ。その道が古来の面影をよく残しているとあったが、残念ながら垣根があって池から先は入れない。しかし、登れなくてよかったのかも知れない。多分、この崖の上の稜線へでると、その先にはおよそここの雰囲気とは相容れない、鎌倉霊園の大規模墓団地が展開しているはずだからだ。拝観を終わって、豚カツ屋へ向かう。駅へ戻る途中に清水さんという大きな屋敷があり、その勝手口にホウロウの表札で「電話鎌倉八〇三番」とあるのが珍しい。電話の表札は、以前にも、栃木市の散策で見かけたことがある。

勝烈庵。同じ道を戻るのもという後藤さんの提案で、別の道を通って駅方面へ。途中、少し迷ったのも愛嬌で、無事に鎌倉駅西側の勝烈庵に到着(12:36〜13:41)。4人掛けのテーブルが5〜6つくらいのこぢんまりとした店。戦前の住宅の様式を要所要所に再現した風で、格天井の中は白塗り、そこから磨りガラスの大きなホヤの電灯が下がっている。といっても、近頃のとってつけたようなレトロではない落ち着いた感じがある。つまみの種類はないので、アスパラの盛り合わせと鶏のサラダを頼み、まずはビール(キリンである)から始まる。半日も雨に降られて歩きまわっ てきたから、肩の辺りは湿って冷たくなっている。つぎにぬる燗へ移るのは当然の成り行きだ。従業員の接客も、ごく自然なところがいい。マニュアル通りの空疎な愛想など、われわれのような年を経たジジイどもには胸くそ悪い。昼時で混雑を心配したが、終始満席にはならなかったのでのんびりできた。店の人も、われわれが酒の本数を決めているのを聞いて、夕方までいっぱいやりますか、などと世辞をいってくれる。チャウは牡蠣フライにしたが、残りはむろんトンカツ。これが上々の部類。肉よし、衣よし、揚げ油よしで、いうことがない。衣はサクッと軽く砕けて、ブタの旨みたっぷりの肉は柔らかで、芳ばしいラードの香りが鼻腔に拡がる。トンカツの醍醐味である。金谷氏は量が不満だったようで、最後まで手をつけなかったぼくの一切れを、はるか離れた席から狙ってきたが、どっこいそうはいかない。酒の最後の一杯に合わせて いるだけだ。どのトンカツにも“大判”があったのだが、金谷氏は気がつかなかったらしい。全員満足。冨山さんの狙い、大正解であった。

亀谷山寿福金剛禅寺(13:55〜14:51)。臨済宗建長寺派。建長寺、円覚寺についで鎌倉五山の第三座。昼食後もあいかわらず雨は止まないが、ほろ酔いでさして気にならない。この寺は駅のすぐ近くにあり、道路の間際に駐車スペースと総門がある。白い花崗岩の外縁に黒い玄武岩のような岩をはめ込んだ参道の石組みが美しい。参道をやや上り気味に100メートルほど進むと三門があって、奥に本堂がある。しかし、三門から先は観光客の立ち入り禁止。さして広くない前庭にビャクシンの古木が数本あり、本堂内では法事が執り行われているのか、雨音 を通して、読経と木魚の音が聞こえる。冨山さんは奥の墓所に見どころがあるというので、寺の裏側にまわる。古色蒼然とした墓石の立ち並び、なかには歴史上の登場人物の墓も少なくないだろう。墓所の行き当たりは、ここでも垂崖が立ちふさがりやぐらが掘られている。やぐら内には、武家の頭領格だったのであろう、主立った埋葬者の墓がある。その一画に、北条政子と実朝の墓があるのだ。お経の代わりに「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」と唱えておいた。政治より和歌の好きだった実朝のことだ、お経より功徳になったかもしれない。総門へ戻るとまたひとしきり雨が強くなった。撮影で遅れている後藤さんを待って、しばし雨宿りをして出発。すぐ近くに太田道灌の屋敷跡、東光山英勝寺がある(14:53)。鎌倉に道灌の屋敷があったとは知らなかった。有料で入れるようだが、もちろんパス。

景清窟(景清牢、景清籠)。景清窟を見ることは、ぼくの希望だった。能、文楽、歌舞伎などの古典で「景清物」は数多い。能の「景清」は好きな曲だし、最近は吉右衛門の改作で「日向嶋景清」を見た。「壇浦兜軍記」は、歌舞伎でも文楽でも頻繁にやっている。見たことはないが歌舞伎十八番にも「景清」がある。この雨では探してまでと、諦めていた。しかし、海蔵寺へ向かう途中で、冨山さんが景清窟はこちらの見当だと、化粧坂(けわいざか)への脇道へずんずん入っていった。道の左側は崖でふさがり、右側が少し開けて人家が並んでいる。ちょうど帰宅した車がガレージに入ったので 訊ねてみた。若い人だったが、たしかこの下にと、われわれが来た方向を指し、右側に何かあったような気がするという。その間にも善さんたちはどんどん先へいってしまったので、礼をいってあとを追った。すぐに斜度がきつくなって道がジグザグに刻みはじめると、もうその先は化粧坂の 切通だった。諦めて引き返す途中、先ほどの“右側”の言葉が気になって、崖膚がむき出しているところがあったので、よじ登ってみた。が、ただの土砂崩れのあとだった。おかげで、ズボンの裾はどろんこになってしまった。分岐のところまで戻ってみると、あったあったと声がする。見れば、分岐を入ってすぐの岩の窪みに「銭洗弁財天」の赤字の看板がある。さきほどは、それに目を奪われて通過したが、そのすぐ上に「水鑑景清大居士」の石柱が、路傍には細かな字がびっしり彫られた石碑があった(15:19)。気づけば、なんだ、探すまでもなかったのである。景清が自ら籠もって命を絶ったといわれる岩屋の跡だが、いまはその一部らしき窪みがある程度で、真偽のほどはさだかでない。岩屋の上部には大きな割れ目が走っていて、そこから水平にケヤキの古木が突き出している。もしや、もしや、景清さまをご覧になったか、 ケヤキ殿である。チャウにも訊かれたが、水鑑の意味は わからない。手習鑑、大内鑑など“鑑”のつく外題はあるが、水鑑は聞いたことがない。でもまあ、これで気が済んだ。さいわいなことに、この頃から雨が止んで、少し空が明るくなってきた。

扇谷山海蔵寺(15:26〜16:00)。臨済宗建長寺派。整然とした二段の石垣に挟まれた階段の上に、かわいい三門が立っている。瑞泉寺、寿福寺に比べると人の手がよく入っている印象。本堂はとくに面白い建物ではないが、脇の庫裡がいまだに藁葺きというのが珍しい。いまは時期が悪いが花木の多い花の寺として有名だそうだ。本堂の周囲にはここでも垂崖が迫っていて、そこにいくつかのやぐらが穿たれている。やぐら内の墓石は、その形からして住職の墓らしい。やぐらの天井には、短いクジャクシダのようなシダが密生して垂れ下がっている。なかに白蛇が神体のやぐらがあり、よく見ると奥で湧き出した泉を頭として流路が蛇体のようにくねらせてある。本堂裏の庭園は遠望するだけで入れないが、奥の小高い丘の上にミニ桂離宮風の茶室(?)が建っている。木造のたたずまいには趣があるのだが、屋根が分厚い瓦で 重すぎ。これがこけら葺きだったらと惜しまれる。

このお寺、花の寺のほかに、水の寺とも呼ばれるそうで、三門の脇に「底脱(そこぬけ)の井」や「十六の井」がある。なぜか十六の井だけは拝観料100円の掲示があって、その下のプラスチックの蓋を開けると、先客の入れた百円玉が数枚、無造作に置いてある。毎日回収しているのか、こちらが心配になるほどだ。お寺本体に十分その価値ありと認めたので、迷わず100円を払って、少し離れたその井戸へ向かった。笑ってしまったのだが、途中に脇道があって、そこには普通の人家が建っている。つまり、十六の井へは拝観料を払わずとも、別の道 から入ってこられるのだ。この手の大らかさはとても好きだ。十六の井は、いずこもおなじ弘法大師伝説で、洞窟内に湧き出した泉である。奥正面に仏像が安置してある。清水をたたえた穴が16個、真田の6文銭の旗印のように並んでいるので十六の井というらしい。詳し説明があったのかどうか気づかなかったが、お大師さまが呪文でも唱えたら、忽然と湧き出したというのであろう。

亀ヶ谷坂(かめがやつざか)の切通。横須賀線のガードまで戻って、それをくぐり、亀ヶ谷坂の切通へ向かう (後藤さんが調べてくれたのだが、鎌倉の“谷”は“やつ”と読むらしい。読みを漢字にすれば“谷津”にもなる)。この切通は、横須賀線の鎌倉、北鎌倉間のトンネルの東側を歩いて越えることになる。車止めがあるので車の通行はないが、 切通の古道ではなくただの車道であった。途中で古道らしきものが合流してはいたが。切通を越えて降り切ったところで国道へでる。建長寺の少し下手だ。国道へ出る角に見覚えのある食堂があった。「流しそうめん 茶屋角」とある。大分前の大晦日だったか、ぶらりとこの辺りを歩いたときに、 ほかに開いている食堂がなく、選択の余地なく昼食に入った店だ。北鎌倉駅着(16:24)。

はらぺこ。大船で乗り換えて京浜東北線、港南台駅へ。後藤さんがホームページを作成しているというイタリア料理屋が、この散歩の〆だ。はらぺこ着(17:14)。少し早すぎて、表で少々時間をつぶす。まずビールから始まって、料理は適当におまかせで見つくろってもらう。前菜に牛のカルパッチョ、マッシュルームのオリーブ漬け、貝柱のトマトソースなどが出る。一口で合格。まっとうな素材が、きちんと活かされて調理され、味付け も自然だ。ワインはお勧めのサンジョベーゼを1本とる。フランスの赤ではカベルネ・ソービニヨンが有名だが、イタリアの赤ではサンジョベーゼがそれに匹敵する。本来、コクのあるタイプの赤のはずだが、この店のものは、酸味の勝った軽いワインだった。つぎは赤のハウスワインへ移行したが、こちらは軽いが軽すぎない適当なボディーのあるいいワインだった。あとはこれのお代わりに決定。メインはピザとパスタだ。これも文句はない。

今回の散歩は、八幡宮、鎌倉宮は別としても、訪れたどの寺も個性的でそれぞれに味わいがあった。景清窟も見られた。昼飯のトンカツも夜のイタリアンも、梓の水準を十分クリアして満足のいくものだった。ザンザン降りの雨の中、何をものずきに観光地の散歩 ?などとはいうまい。雨以外は、なにからなにまで、このようにうまくゆくこともある。 世の中「一寸先は闇」の逆で「一寸先に光明あり」だ。梓にとっては、混み合った晴天の鎌倉より、人気の少ない雨の鎌倉のほうが好ましかったのは、いうまでもあるまい (もちろん空いていて好天ならいうことはないが)。それにしても古都鎌倉、ただの観光地と見過ごしてしまうには惜しい見どころが、まだまだあるように見受けた。


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