道草Web

梓日だまり 静岡探訪

梓編年

参加 冨山、後藤、鈴木、金谷、中村、亀村、橋元

2006年11月25日 土曜日

快晴。 7時ちょうどに家を出たが、25日のせいか渋滞して、15分ほど遅れて東京駅新丸ビル前に着。静岡直行の冨山さんを除き、すでに全員が集まっていた。高速もところどころで渋滞し、冨山さんは9時頃には静岡に着いてカメちゃんと合流しているというのに、こちらは足柄パーキングで休憩(9:46〜9:56)して真っ白な富士山を眼前にするころにはもはや10時に近かった。携帯で後藤さんと冨山さんが連絡を取り合って、どうやら今日の牛ヵ峰は無理そうだという判断。明日の予定を前送りにして、今日は静岡周辺の観光と決まる。静岡ICを出たところで連絡をして(10:58)、静岡駅から歩いてこちらへ向かっている冨山さんとカメちゃんを途中の歩道で拾う(11:05)。

昼食は、後藤さんがNGO関係で知っている「八兵衛」というそば屋。場所は駅近辺という以外わからないので、携帯で慣れない検索をもたもたしているうちに、後藤さんの104番の問い合わせの方が早かった。所在が小黒とわかったときには、すでのその近くにデリカはいた。

蕎麦屋「八兵衛」

八兵衛は、入口に掛けた芹沢珪輔の大きな暖簾がまず目を惹く。暖簾の作者を確認したわけではないが、彼は静岡の名誉市民だし、店の風格からして多分本物だろう。内装は質感のある木材を豊富に使っていて、窓外にはミニ和風庭園をしつらえてあり、なかなか立派な店だ。従業員は若いのでそれなりではあるが接客もまあまあ。テーブルに今日のソバを打った若い職人の写真が飾ってある。それだけそばに自信があるということだろう。

やりとりをしてすぐにわかったのは、東京とはすべてにテンポが違うということだ。何を注文しても時間がかかる。仙台のほうがここより東京から離れているが、あまり違いは感じなかった。さして混んでもいないし人手不足でもないのに、なぜビールを出すのに時間がかかるのかわからないが、遅れて注文した燗酒などは、料理よりあとに出てくる始末だった。それ以前に、"ぬる燗"とはどういうものであるか、従業員の若い女性を納得させるのにしばし時間を要したが、これは最近珍しくもない。いくらソバに自信があっても、料理の順番までは気が回らないらしい。冨山さんのぷっつん寸前で燗酒が間に合った。めいめい好みのソバを頼んだが、だれも文句をいわなかったので合格なのだろう。ぼくは鴨南蛮をたのんでみたが、よくもわるくも"きれいな"ソバとでもいおうか。上質なソバ粉を技術のある職人が打ったのだろうが、まとまりすぎてなにかもの足りない。それはツユについても、アイガモの調理についても同様だった。ひとことでいってしまうと"ゆるい"のである。

三保(御穂)神社と松原

海岸通りを三保松原へ向かう。道路沿いの売店で、これはお薦めと後藤さんのいうシラスを食べる。生のシラスに醤油を掛けてすするだけなのだが、これは美味かった。この手のものは鮮度が命だ。売店のオバサンは今朝採れたものだという。それぞれ黒はんぺんや酒盗などを購入していた。

三保松原の入口がわからずに半島を一巡して、まず三保神社に。安産のお願いに穴の開いたひしゃくを奉納するのが珍しかったが、あとはとくに印象に残るものはなかった。三保神社から松並木の参道が延々500mほど海岸まで続く。参道の行き止まり、土産物屋に取り囲まれた駐車場に車を停める(13:20〜14:01)。やはりこのあたりの気風なのだろうか、関東地方以北ならやかましい客引きの声がない。うっかり釣られるひとがいるから客引きには存在意義があるのだろうが、あれはうっとうしいものだ。静かでまことの心穏やかな気分で砂丘を登って海岸へ出る。砂浜へ出る手前に、石垣に囲まれた羽衣の松がある。もう何代目かとおもったら、そうではなかった。樹勢は衰えているが樹齢六百余年の初代の松だそうだ。もっとも、羽衣の天女自体が説話なのだから、なにをもって樹齢の起点としているのか不明ではあるが。羽衣の松の周囲にわずかに風格のある老松が何本か生えてはいるが、あとは養殖中の若松がほとんどだ。将来、どんな姿になるのかちょっと心配である。快晴の空のもと、はるかな伊豆の山並みを従えて、三保の松原から見る真っ白な富士山は絶景ではあるが、さすがに半日以上も車窓から見つづけてくるとさほどの感激はない。後藤さんは、山積みのテトラポッドが撮影の邪魔になると、はるか遠くまでロケハンする。それを片眼に、"写真は不便や、スケッチなら書かなければすむ"とは冨山さんの感想である。カメちゃんは、"梓には海岸は似合いませんね"と笑っている。

別格官弊社 久能山東照宮

東照宮参道前駐車場着(14:23)。蹴上げの浅い階段でゆるやかにジグザグを繰り返す参道をひたすら登る。東照宮の参道は、登山と思えばさしたる距離ではないが、観光地の階段となると相当なものだ。途中に武田の軍師山本勘助の掘ったという井戸がある。なぜ武田かと思ったが、久能山の案内によれば、はじめは久能寺という寺で、つぎに武田の城砦となり、それを徳川が引き継いで、最後に、家康の墓所となったという。それで勘助井戸があるわけだ。この井戸、帰りがけに立ち寄ってみたが、この高度から掘るのだから結構な工事になったろう。久能山は270m、井戸のあたりは少なくとも100mくらいの標高はあるはず。もっとも、地層の具合で海面高度まで掘らずとも水は出るという。料金箱があって、そこへ100円を入れると井戸の内部が照明される。もちろん見はしなかったが。

もとの門衛所が社務所・料金所になっていて、そこが日本平・久能山のロープウエイの終点になっている(14:36)。このあたりへ遠足できたのは中学のころだったろうか、それ以来きていないのでまさかここにロープウエイが懸かっているとは予想もしなかった。料金所で全員揃うのを待って境内へ入る。重文だという楼門は改修工事中で足場に覆われていたが、そこを抜けると東照宮の姿が見えてくる。このあたりの看板に参道の階段は1100段であると書いてあった。まだ完全に登り切っていないし、どこからどこまでが1段かわからない緩やかな階段をどうやって数えたのだろう。入場料を払ったときにもらったパンフには1159段とあった。

拝殿へ登る正面の階段は通行できないので、右側の日枝神社を迂回して拝殿へ向かう。説明に、相殿(あいどの)は秀吉と信長とある。なんのこっちゃと思えば、相殿とは複数の神を合祀する社殿、あるいは合祀した神のことだそうだ。いまごろ、いやー今日はいい天気だね。ヒデちゃん、イエちゃん、久しぶりに一杯やる?などとノブちゃんが誘っているかな。スケールにおいても装飾の華麗さにおいても、日光の東照宮には及ばないが、そのミニチュア版といった趣がある。家康の霊廟は、拝殿、本殿のさらに奥の高い場所にある。黒々とした石造の廟は、どっしりとして存在感がある。このとき、はたして家康は火葬だったか、土葬だったかとの疑問が湧いたが、同じことをチャウにも訊かれた。たしか、仏教の影響で火葬が導入されたのは天武帝のころで、本人は土葬だったが、その皇后である持統帝は火葬になったはず。してみると、家康も火葬かと推測したが、あとでパンフを読むと廟に"遺骸を埋葬"とあるので、土葬であったか。いくら400年以上経っているとはいえ、廟の前に立ってみれば、火葬より土葬の方が生々しい。家康廟に参拝すれば、あとはのんびり降るだけ。緩やかな階段から見下ろす駿河湾は、はや傾きかけた陽光を一面に反射してにぶく輝いていた(15:06)。鳥居帰着(15:20)。

静岡亀邸初見参

冨山さんが懐かしいだろうと旧日本紅茶の工場、現カメちゃんの仕事場前を通ってしずてつストアで夕食の材料を買いこむ(16:03)。まず魚をチェック。大都会とはいえ港がすぐ近くだから魚は新鮮。ただ魚種は少ない。後藤さんが丸物のタイ、アジ、スルメイカなど無難なところを選び、おろして盛り合わせにしてもらう。

亀邸着(16:56)。こんどの宿舎は、仙台のマンションと違い、路地の奥にある2階建て4室のアパートで、その正面1階左側が亀邸になる。仙台より一部屋分狭いので、まずは宴会場の設営で一考する。結局、DKを整理して人数分の椅子を並べた。四畳半ほどの中央に仙台で使っていた大きなテーブルが鎮座する。すぐ横にガス台と流し。それに冷蔵庫などがあるので、使えるのはちょっと広めのテントくらいになる。

恒例により梓の宴会開始。まずは、刺身の盛り合わせから。見立て通り鮮度よく合格。今日の口数から言って冨山さんが吼えそうだったのだが、さすがにマンションとは違って声が通るのでブレーキがかかったようである。"わしゃこの仲間と飲むのが一番楽しい"とご機嫌である。酒はすすんで、2升買ったが3合ほどしか残らなかった。近頃の梓にしては上々。タイをおろした残りのアラは、金谷氏がアラ煮を作った。手つきは危なっかしかったが、こまめにアクを掬い、塩、醤油を加える段取りはどうにいったもので、できあがりも好評であった。最後は後藤さんのペペロンチーノだが、待ちかねたか金谷氏、ディチェーコの封を切って台所に並べている。まるで、散歩に連れて行ってもらいたい子犬が玄関口に座って催促するかのようである。

2006年11月26日 日曜日

曇り、ときどき雨。 TBS.BのOB会が湯河原であるとかで、金谷氏は早朝に発っていった。もっとも、駅まで歩いて行って忘れ物を思いだし、タクシーで戻ってきたところで、こちらは目が覚めたのだが。

パン、オムレツ、サラダなどで朝食を済ませる。今日は天気が崩れそうだというので、登山は中止して、亀邸近辺を探索することになる。静岡市街の背後には南アルプスが控えているが、その隆起の末端が阿部川に沿って延々と静岡市内まで枝尾根を延ばしている。その尾根が亀邸のすぐ近くで終端となる。その最後の隆起を賤機(しずはた)山という。その山名が静岡の由来だそうだ。もっとも近辺に賤機という地名があるので、どちらが先かはわからない。その山の麓にある駿河総社の浅間神社から賤機山の稜線を通って、今川の人質だった家康が教育を受けた臨斎寺へ抜けようという計画だ。

浅間神社

亀邸発(10:12)。ぶらぶら市街を歩いて賤機山の麓まで行く。173mの小さな山だが、市街の中に屏風を立てように盛り上がっている。山の間際まで人家が迫っているが、道路を隔てて山側には急斜面崩壊危険区域の標識。その山際に巻雲山瑞龍寺がある。秀吉の妹で家康に嫁した朝日姫の墓があるそうだ。浅間神社着(10:34)。案内板をみると境内にはいくつもの神社が併設されている。今風にいうと、シネマコンプレックスならぬ神社コンプレックスである。最初に入った鳥居が大歳御祖(おおとしみおや)神社のものらしい。その奥に、浅間神社の本体とその摂社がいくつかある(昔は摂社、末社合わせて30社を超えていたようだ)。細かい説明は、この神社のサイトよりもよほど詳しい、こんなWebサイトがあったのでご覧ください。

珍しいのは浅間神社自体が、憶えたての言葉を早速使えば、二神の相殿で、拝殿も本殿も、右側が神部神社(駿河国総社:大己貴命=大国主命)、左側が浅間神社(冨士新宮:木之花開耶姫命)となって、造りが左右対称になっている。カメちゃんがすぐに気づいたが、拝殿は切妻の下層階に入母屋の上層階を載せた重層楼閣造り。これは非常に珍しいそうで、カメちゃんも初見参。コノハナサクヤはニニギの奥さんで、大黒さんは天孫ニニギに国譲りをしたのだが、大黒さんがニニギと養子縁組をしたのなら、この神社は義理の親子の相殿になるわけか。まあ、これは冗談。ついでに調べたら、大歳御祖命は、此花咲耶姫の姉神でスサノオの后だそうだ。

後藤さんが、ボランティアのガイドを見つけて解説をお願いした。名前は渥美祐二さん。訥々として、ときに固有名詞を思い出せずに絶句したりするのだが、話のはこびがゆったりしているので気にならない。そういえばこの喋りどことなく圓生に似ている。声が少し鼻へ抜けるからか。もっとも圓生はこれほど大らかでも明るくもないが。彼の案内で拝殿と境内の周囲に点在する、少彦名神社(屋根下の屋外に十二支、ただし家康の干支の子と、あと丑の二支は屋内。山川静夫奉納の石碑)、玉鉾神社(国学者を祀り、伊勢神宮遷宮後の木材を使った白木造り)、八千戈神社(扉と彫刻の一木造り、左右の扉にそれぞれ麒麟の透かし彫りがあり、これは見事)などを巡る。渥美さんの話で驚いたのは、観阿弥がこの地で没しているということ。楼門の脇にその石碑があったが、墓は見つかっていないそうだ。それと、NHKの元アナ山川静夫がこの宮司の息子で、本来はこの神社の神主になるはずだったという。継がないでごめんちゃいと、奉納した石碑が、少彦名神社の脇にある。

麓山神社、賤機山古墳

渥美さんの懇切なガイドに謝し(11:15?)、約104段の階段を上って麓山(はやま)神社へ。この祭神は大山祇(オオヤマツミ)命で、コノハナサクヤのおとっつあんである。だから、摂社というより、別社といったほうがふさわしい。この境内へはいったときに、急に大粒の雨が降りだした。決断は早い。この先の山道は中止とする。カメちゃんの提案で、近くの公園で雨宿りがてらのお昼とすることで、さっそく下山。帰りは女坂を通ったが、さきほどの男坂の階段と女坂の階段の間に小さな丘があって、そこが国指定史跡の賤機山古墳だった(11:29)。墳丘に掘った横穴から石窟の内部が見え、中央に石棺が置かれている。鉄格子があってなかには入れないが墓内の様子はよくわかる。6世紀ころの当地の豪族の墓だという。石窟入口に装身具、馬具、土器、鏡など出土した副葬品の写真が展示してある。駿府城の近くで見晴らし絶景だから、家康もここに墓所を定めてもよかったろうに、先客がいたので遠慮したか。

城北公園で昼食

女坂から降ると大歳御祖神社に戻る。そこから表へ出て社前の車道(麻機街道)を行く。亀邸から見ると、浅間神社でUターンして、賤機山の亀邸とは反対側の山麓を北上することになる。浅間神社の北側に境を接して東雲神社という小さな社があった。浅間神社をこの地に勧請したときに、このあたりの地主神に敬意をはらって祀ったのではなかろうか。城北公園着(11:48)。もとは旧制静岡高校だったところで、冨山さんが以前きたときにはまだ校舎が残っていたそうだ。公園内を一巡して、やや高いところにある広い亭を昼食場と決める。ベンチが3つあるだけでテーブルがない。ベンチを移動できたので、2つを向かいあわせて真ん中にシートを敷き、テーブル代わりにする。残りのもうひとつのベンチには、まず地元のオジサンがネコ連れでやってきた。しばらく話したあとネコだけのこして立ち去り、つぎには女学生たちが食べ物を持ち寄って宴会?をはじめた。朝たっぷり食べているので、たいして腹も空いていなかったが、昨日しずてつストアでチャウが仕込んだフランスパン、マスカルポーネ、ロング缶5本、ワイン赤白各1本、サラミ、ソーセージなどで昼食とする。白はシャルドネ系ミックス、赤はメルローだったが、どちらもよかった。カメちゃんが、メルローは800円台のワインだといっていたが、少しスモーキーな香りがあり面白かった。マスカルポーネは、名前だけはつとに有名だが初見参。口当たりはよいが、マーガリンをホイップしたような、これがチーズといえるか微妙な風味である。食事中は降ったり止んだりしていた雨も、終わる頃には上がった。

大龍山臨斎寺 妙心寺派専門道場

まだ時間はたっぷりあるので、山越えで行くはずだった臨斎寺へ向かう。公園前の道路をさらに北上する。しばらく行って、後藤さんがおかしいと思ったのか、通りすがりの布団屋さんに入って道を訊いた。なんと、とっくに通りすぎていた。カメちゃんは、臨斎寺は賤機山の稜線にあると思っていたのだが、なんのことはない市街の、それも城北公園の筋向かいにあったのだ。

同じ道を戻るといやでもわかる場所に臨斎寺はあった。町中の寺だが森閑としている。道路からすぐに重層の三門があり、その左右には、廃仏毀釈で浅間神社から引っ越してきたという仁王像が睥睨している。見上げる扁額『大龍山』は慶喜の筆。三門をくぐると、幅広の階段が本堂へ続いている。階段の両側にはたっぷり遊びがあって、大和塀(瓦葺き、白の漆喰塗、黒の腰板)に限られている。階段を上がって本堂の前庭に入ると、通路以外、花崗岩を細かく砕いた白い礫が全面に敷き詰められている。おもわず枯山水かと思ったが、そのような遊びはない。ただひたすら平面である。本堂前の庭の両側に礫を寄せ集めて積んだ小さな三角錐があって、それが唯一のアクセントだ。

境内に入ってすぐに、普通のお寺とはちょっと違う雰囲気を感じる。それは"厳しさ"だった。近頃流行の「ゆとり」とか「あそび」とか「いやし」などといった甘さがない。礫が真新しいのは最近入れ替えたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。とにかくどこからどこまでゴミはおろかチリひとつ落ちていない。参道の周辺が掃き清めてあるのは当然としても、庭の隅、壁の際まで、いま掃除をしたばかりのようにきれいだった。広い境内をかくも清浄に保つのは並たいての覚悟ではない。まさに修行の場なのであろう。われわれは幸運だったのかもしれない。あとでWebでいろいろ調べていたら、時期によっては結構な人出があり、しかも座禅の時間には階段から先へは入れないらしい。今回の最後に思いがけず、こんなにいい寺に巡り会えて、みな満足したようである。地理的には臨済寺と亀邸は、賤機山の稜線を挟んで真反対の位置にある。道路を通ると浅間神社まで戻って大回りになるが、山越えすれば短距離だ。どこかに山越えの道があるか近所のに人に訊いてみた。以前はあったらしいが、ミカンの運搬にモノラック(一本レールの下に刻みがあり、それに歯車をかけて駆動する)を使うようになって廃道になったらしい。

帰路

亀邸へ戻って一休みする。亀邸発(15:59)。静岡駅で冨山さんを降ろして、東名へ。帰りは善さんに運転を頼んだが、東名の渋滞がすごかった。最近は、東名は滅多に乗らないのでわからないのだが、いつもこれほど混むのだろうか。それなら静岡行きは東海道線の鈍行にしようかとチャウがいっていたほどだ。SAも混んでトイレもままならず、首都高用賀の休憩所でやっと用が足せた(20:13)。霞ヶ関で後藤さんを降ろし、東京駅帰着(20:30?)。あとで掲示を見ると、冨山さんは新幹線で帰ってとうに自宅でいっぱいやっているころだった。

掲示にも出したが静岡もなかなかいいところだ。伊達60万石より徳川800万石のほうがはるかに稼ぎはあったのだから、それなりの見どころがあってもおかしくない。次回は是非、賤機山の縦走を果たしたいものである。酒の肴はあのシラスがよろしいようで。

では次回もカメちゃん、よろしくね。

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