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梓公式旅行 南都逍遥

梓編年

2007年2月9日 金曜日

早朝5時33分新井宿発の地下鉄に乗る。この時間、まだ外は真っ暗だが、出勤途上だったり、散歩後の整理体操をしていたりと人通りがある。がら空きの地下鉄に座って、時間つぶしに携帯のモバイルプレイヤーを起動した。ところがすげなくSDカードが挿入されていないとのメッセージ。このminiSDは2ギガで2000円しない。リスクは覚悟で購入したが、初期故障はこれで3回目。旅先でと、いやな予感はしていたが初っ端に的中した。音楽はがまんするとしても、カメラをメモ代わりに使う目論見がくずれた。

新幹線ひかり361号東京発6:36に乗車。以上は後藤さんが組んでくれたスケジュール通りであった。後藤さんは新横浜から、冨山さんは小田原から、カメちゃんは京都駅で合流する予定だ。JR東海の「はや特きっぷ」で指定席に座り、東京駅の地下で買ったサンドと缶ビールで朝食を済ませた。表は明るくなったが、 曇りでときどき雨がぱらつき、靄がかかっている。うとうとするうちに検札に起こされて、あともうとうと。睡眠時間が3時間少々だからこれも当然か。しばらくして、隣の席の若い男性から声を掛けられて目を覚ます。寝ぼけ眼で見上げると、通路に不機嫌そうな中年男が立っている。若いのが“切符を持ってますか?”と訊く。嫌な予感。ポケットから切符を取り出して見せると“これ席が違いますよ”のひと言。目も合わせない中年男に侘びの言葉をつぶやき、席を替わった。いま書いていて気づいたが、さっきの検札はなにを見ていたのか?それにしても、またやってしまった。去年の10月には、何十年かぶりの大学同期の旅行で、列車を間違えて同じ目にあっている。今回は席が違っただけだから被害はすくなかったけど、あのときは列車を間違えて、宇都宮で降りる予定が仙台まで持って行かれ、200キロ以上余分な旅をした。予定通り後藤さん、冨山さんは乗車しているはずと、こちらは終始うとうと状態で京都へ着いた。三人掛けの窓側の席で隣に声を掛けるのが面倒だったので、我慢をしていたトイレへ駆け込むと行列をなしている。では次のトイレへと歩きながら後藤さんの連絡すると、なにやらご機嫌の悪い声音。すっかり忘れていたが、ひかりに乗ったら自由席の先頭車両へ集合する約束だったのだ。湖西線の京都ホームで合流すると、冨山さんに、オジサンの顔を見たら急に腹がへったと、いわれてしまった。自由席に姿をみせなかったので、乗り損なったかと気にしてくれたらしい。いやいや、すみませんでした。カメちゃんも無事に合流。これで梓公式散歩「南都逍遥」の開始である。

比叡山延暦寺

南都ではないが行きがけの駄賃で今日は比叡山を中心に周辺の寺社を巡る。湖西線比叡山坂本駅(10:00)。晴れていれば琵琶湖の湖面や比叡山の山容が見えるはずだが、路面は昨日の雨で濡れ、時期はずれの春霞がかかったかのような天気で視界は悪い。しかし、これもまたしっとりと趣が醸されて気分が落ち着く。シーズン中は比叡山の上までバスがあるのだが、この時期ではタクシーか歩いてケーブル乗り場まで行くしかない。さほどの距離ではないので歩くことにする。駅からは比叡山に向かって一直線の登りだ。「坂本」とは比叡山へ向かう斜面の下部にあるからだろう。途中に京阪石坂線終点駅、伝教大師最澄の誕生寺、日吉大社、遮那王大杉など多くの寺社やスポットがあり、古くからの参道らしい雰囲気を残している。ただ、いまはもうバスが交通の主体だろうから、あまりにぎやかな感じはない。その遮那王大杉を左に、日吉大社入口を右にみて参道は左折し、比叡山高校の下を通る。高校の角で右折して少し上がったところがケーブルの乗り場坂本駅だ。いまは0分、30分の間隔で運行している。まだ出たばかりだったので、しばらくは国の登録文化財だという大正14年建設の洋風駅舎や駅周辺の看板を見たり、さびれて開店しているのかどうかさっだかでない売店を見て時間を過ごす。

11時5分前に改札が始まり車輌に乗り込むが、ほかに女性客(といっても山頂のどこかへ勤めているようだ)が1人いるばかり。運転席には係員が座ったが、解説によるとケーブルカーでは車輌に乗るのは車掌で、運転手は山頂駅でケーブルの操作をしているそうだ。日本一長いというケーブルは途中にいくつかのカーブがあるので、線路中央に斜めの滑車が埋め込まれていてケーブルはそれに食い込んで外れないようになっている。途中に紀貫之の墓所や信長叡山焼き討ちの犠牲者を慰霊した石仏群などがあり、あらかじめ希望すると途中駅で下車できる。改札で切符を買うとホカロンを渡してくれたが、それもそのはず、この車輌には暖房がなくしばらく座っているとしんしんと冷えてきた。

山頂の延暦寺駅はくすんだ黄色一色の洋風駅舎で、最近手入れがされたようで古びた感じはないが、これも同じ文化財指定を受けている。靄のかかった駅前広場に出ると、ヤマガラが2匹、枯れ枝を揺すって飛び去っていった。駅からは何の変哲もない狭い舗装道路をしばらく辿る。そのうち眼前の森から大きな鐘の音が響き、延暦寺序章の開幕を告げる。

駐車場を左手に見てやや広くなった道を進むと、まず視野に入ってくるのは土産物屋や案内所のある観光施設。その前の広場まできて左を見下ろすと、広い階段の先、左側にお目当ての根本中堂が見える。じつはこの印象がまるでいままで“根本中堂”に抱いていたイメージと違う。深い杉並木と、石灯籠の列に囲まれて、その奥に静かに鎮座しているという映像が頭にあったのだが、どうもあとで考えると高野山と勘違いしていたのかもしれない。

参道は登り道が普通で、坂を降って本堂へ向かうのは泉涌寺くらいしか知らない。階段を降りきって、意外に狭い前庭から見上げる伽藍は巨大である(11:28)。拝観料を払って唐破風の回廊入口をくぐると、櫛比した列柱に乗って広大な屋根が眼前に迫りますますその感が強い。最澄以来、3度消失している本堂は、寛永年間の竣工という。大きすぎる瓦屋根、両翼の一部に見える分厚い板葺き、胡粉の剥げたような正面の色彩など、寺院建築としての美しさを感じるより威圧感が強い。屋根の葺板で誤解していたことがあったので訂正しておく。屋根を葺く板の厚さで名称が異なる。薄い方から檜皮葺(ひわだ ヒノキの皮)、杮葺(こけら 2〜3o)、木賊葺(とくさ 4〜7o)、栩葺(とち 10〜30o)だ。ここの本堂脇からのぞいていたのは栩葺だろうか。寺社建築の構造の話はこれからも出てくるがこのサイトが非常に参考になった。

左脇から薄暗い本堂に入る。密教の本山だけにほとんど密閉された空間だ。正面に仕切りの柵があり、その先は深く掘り下げられている。柵の下を覗き込むと僧都の読経する席がある。その5mほど奥の正面に基壇がこちらの目の高さまで持ち上がっていて、その上に仏壇がある。だが、最澄自作といわれる薬師菩薩像は秘仏で開扉していない。その閉じた扉の前に3つの、銅の灯籠が置かれている。最初はよくわからなかったが、話しているうちに、どうやらそれらが「不滅の法灯」だとの結論に達した。3つあるのはリスク分散のためだろうが、ちょっとずるい気もする。大きなジョロのような油差しで油を注ぎ、この法灯に油の絶えぬように気を配るのだ。そこで、油断大敵などの“油断”の語源はここからくるのだとみなで納得したが、調べると語源は涅槃経であった。それにしてもこのお堂にはいい香の匂いが漂う。線香のように杉の香ではなく、沈香や白檀を使っているらしい。祖母がときどき白檀の扇子を使っていたが、香りが強すぎて好きになれなかった。おかげで白檀の香りだけはしっかり記憶に残っている。ここのは同系の香りだが、もっとしっとりと甘い香りがする。正倉院御物の蘭奢待を最高峰とする沈香が含まれるからだろう。この贅沢な香で参拝者は自由に焼香できる。あまりいい香りなのと、後藤さんに促されて焼香をさせてもらった。葬式以外の焼香は初めてであった。

本堂と反対側の急な階段を登って、その上の文殊楼の楼上まで登ってみた。文殊菩薩を拝むと、その先にある根本中堂をも拝することになる。それから鐘楼や大講堂を訪ねた。鐘楼の鐘は1回50円で撞ける。後藤さんが撞いてみたが、ものすごい音量と残響だった。鐘を手で触るといつまでもビリビリと震動が伝わってくる。後藤さんに100円を入れたのでもう1回撞けるから撞いてみろと薦められ、おもしろがって撞いてみた。狂言では鐘の音を、後半を口中に含んで「じゃもふもうーーーー」とか「じゃもんもんーーーー」とか唱えるが、実にそのような響きがするのだ。延暦寺の全容はとても半日くらいで訪ねきれないが、本願の根本中堂はじっくり見られたので、今日のところはこれまでとした。

日吉大社

昼はとうに過ぎているがここは見逃せない。参道を少しはいると独特の形状の鳥居が目にはいる(12:47)。山王鳥居といって、普通の鳥居に屋根(破風)が乗っている。真似をする神社もあるらしいが、ここ独特の形式だそうだ。それに神社の檜皮葺きの屋根も日吉造といって独特の形状だ。一口で表現すると、屋根の後側が一段高くなっていて、横から見ると尻っぱしょりしているようなのだ。お社が一目散に駆け出しそう。全国の日枝、日吉、山王神社などの本宮で、正式には「山王総本宮日吉大社」だそうだ。後藤さんが氏子の丸子山王日枝神社もこの末社で、鎮座は都内の山王神社や日枝神社より古く格式も高いそうである。このお宮の参道に懸かる石橋の一つから、修理の際に外した石材の一部を頂戴して日枝神社にも飾ってあるとか。

後藤さんに何度か聞いていると思うのだが、日吉←→日枝(ひえ)は比叡の音からくるのだとあらためて知らされる。現在は正式にも“ひよし”と読ませるが本来は“ひえ”が正しい。それに「山王」が冠につくのは、最澄が開山するとき、以前から比叡山の鎮守であった日吉大神と、大師が修行した唐の天台山の守護である山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)とを習合させて山王権現としたことに由来する。これで長年うろ覚えであったことが、はっきりした。しかしまあ、いかにも大和民族らしい異文化の取り込みである。

静岡の浅間神社も左右に2つの本殿をもち、摂社、末社を連ねて大規模だったが、ここはそれをさらに上回る。西本宮、東本宮を筆頭にそれぞれ本殿、拝殿をもつ本格的な摂社とその末社が居並んでいる。由来からすると東本宮が古事記に記載があって古いらしいが、西本宮は天智天皇が大津に都するときに国家鎮護の神として三輪山から勧請したという。人麻呂の高市皇子の挽歌に惹かれて以来、年甲斐もなく乙巳の変(蘇我入鹿誅殺)、壬申の乱のあたりに興味をもってしまったので、天智・天武と聞くと耳がぴくぴくする。

総本家鶴喜そば

日吉大社から降って、参道に面した本家日吉そばの角を右折するとすぐにこのそば屋がある(13:42)。延暦寺、日吉大社の御利益かどちらも店の構えは立派だ。あとで気づいたが正面の店の看板より上に高々と東宮のお買い上げを賜ったと額が掲げてあった。東宮とはたそ、と訪ねてみたがまず東宮の意味から説明しなければならなかった。答えは昭和天皇だった。とりあえずのビールは当然だが冷えた身体を燗酒で温めたことはいうまでもない。冨山さんは、ことのほかこのときの燗酒が気に入ったようである。表の構えからすると、店内の道具立てもそれなり、料理もそれなり、接客もそれなり、料金もそれなりであった。料金1万100円なり。その百円を値切ったが、まけなかったのが冨山さんの不満であった。

天台宗総本山園城寺三井寺

阪急石坂(石山・坂本)線の終点坂本駅から2両編成の電車に乗る(14:35)。周囲は住宅と畑のいりまじったのどかな景色で、これなら毎日でも乗ってみたい。三井寺駅下車(14:51)。途中の皇子山の皇子は誰か気になったが地図で見ると弘文天皇墓所が近くにあるので、これは大友皇子からきているのだろう。(弘文天皇=天智の皇太子大友皇子。壬申の乱で大海人皇子=天武帝に破れて自害)。琵琶湖疎水を横切って仁王門から金堂へ。しかし、金堂は修復中で拝観料を払うとくれる解説書には、三井寺の由来は、天智、天武、持統の産湯をここの閼伽井から取ったというので「御井の寺」とあった。この寺は鐘が有名である。ここでも100円でその鐘が撞ける。こんどは自分で料金を払って撞いてみた。いやなかなか。音量こそ延暦寺に劣るが音質はこちらが勝ち。澄んだ余韻が心地よい。さすがに三井の晩鐘といわれるだけのことはある。能にも『三井寺』の曲があり、シテの狂女がこの鐘を撞きながら仏法の教理を謡うところが山場である(解説書にも書いてある)。この寺にはもうひとつ「弁慶の引き摺り鐘」という傷跡のある鐘があり、こちらが先代の鐘だそうだ。仁王門、三重塔もなかなかだが、なんといっても金堂が工事用の足場で覆われていたのが原因か、閼伽井のごぼごぼいう音と鐘を撞いたくらいで、あまりこれといった印象が残っていない。

東寺真言宗大本山石山寺

石山寺駅着(16:11)。もう午後も遅く参拝できるか微妙な時間だった。瀬田川にそって小走りで急ぐが、体力も相当なえてきている。かろうじて境内に滑り込む(16:24)。あと30分くらいしかいられない。解説書によると、石山寺は聖武天皇の勅願で良弁が開基したというから、東大寺と縁起を同じくすることを知った。名前の通り境内に奇石が多い。時間もないのでカメちゃんがぜひ見たいという多宝塔へ多くの階段を急いだ。カメちゃんによれば、多宝塔としては一番古く建築としての評価も高いそうだ。ほかにも蓮如や紫式部に縁のお堂などあるが、そちらまで見学する時間はない。多宝塔のすぐ近くに月見亭があり、眼下の瀬田川を望んで絶好の宴会場であることを確認して見納めとした。一巡して参道へ戻ると、鍵を持った従業員がついてきて、われわれが東大門をでるなり鍵を閉めたのだった。さすがに、いささか疲労を憶えて、帰り道にある藤村という茶店にはいり、茶菓子で一服した。

石山寺駅(17:27)から京阪石山駅へ戻りJRへ乗り換え、石山駅から京都駅へ。京都駅で近鉄へ乗り換える予定だったが、ちょうどJRのホームに快速奈良行きが到着したので、それに乗る。

JR奈良駅に到着したが、以前の雰囲気はまったくない。それもそのはず、旧駅舎は隣に保存されていて、現在の奈良駅はどこにでもあるような普通の駅になってしまった。奈良駅で尚やんと合流(19:25)。近鉄奈良駅まで登って金谷氏と合流。近鉄奈良近くの中華で夕食。食事中に善さんも合流。チャウは食事には間に合わなかったものの、食後に近鉄奈良駅改札でみなで出迎えて全員がそろった。いずれも携帯の連絡によるもので、こういったときは抜群の威力を発揮する。善さんだけは金谷氏の自転車で先行したが、あとは駅前からタクシーに分乗して、今回の宿である奈良県青少年会館YHへ向かう。われわれ7人は一部屋。やたらに照明が明るいのと引き戸の滑車がやかましいのを除けば文句はない。ユースホステルとあって室内での飲食・喫煙は禁止であったが、解禁されている食堂でプチ宴会が続いたのは言うまでもない。

ちょっと、脱線。

われらの部屋の床の間には拓本風の掛け軸もあって、これがまた壬申の乱縁の額田王と大海人皇子(天武天皇)の歌であった。万葉仮名は漢字の相当恣意的な当て読みだから、何を書いてあるかしばらくわからなかったが、翌日になってやっと判読できた。といっても、本歌を憶えていたからで、知らなければお手上げである。手元にある中西進の万葉集では、次のようになる。

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 1-20

紫草能 个保敵類妹乎 个苦久有者 人嬬故个 吾戀目八方 1-21

※个は嘘字で本当の字はフォントがなくて表示できない。正しくは、“人”の下は“|”でなく“小”である(読みは“に”)。

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

意訳してみると額田王が

     あら、そんな野原から手を振っちゃだめよ、野守が見てるじゃない

大海人皇子が

     だって匂い立つような君が人妻だから、なお恋しいんだもん

てなことで、天皇の妃と、次の天皇になる皇太子が、こんな歌をやり取りしている。この歌には前段があって、額田王はかって大海人皇子の妃で一女をなしていたのだが、兄の天智天皇に召し上げられたのだ。この歌を巡っていろいろな解釈があるが、これは戯れ歌だと池田彌三郎はいい、この人間関係が壬申の乱の遠因になったという学者もいる。万葉集では、これらの歌は相聞でなく雑歌に入っている。支配階級では伯(叔父)・姪、伯(叔)母・甥の結婚は、血族の結束を固める当然の手段だった時代(大海人皇子も兄である天智の皇女を4人も妃にしている)、この程度は恋愛関係とはみていなかったのかもね。

2007年2月10日 土曜日

曇りだが、青空も見える。 YHは佐保山あるいは奈良山と呼ばれる丘陵の中腹に位置する。昨夜は見えなかったが、われわれの泊まっている2階の部屋から見ると、あまり高層建築のない奈良盆地に、県庁と興福寺の五重塔が抜きんでている。この辺りは古くからの住宅街らしく、近所には敷地の広い邸宅が多い(広辞苑では、このあたりは奈良時代の高官の住宅地とあった)。

聖武天皇陵

サンドイッチの朝食をすませ宿を出る(8:22)。今日は東大寺を中心に奈良公園の辺りを散策する。最初は聖武天皇陵。今日の主眼である東大寺と大仏を建立した天皇だから、まずはご挨拶だ。宿の上手から急階段を鴻池へ降り、池辺を迂回してさらに降ると住宅街の真ん中の小山に行き当たる。それが聖武天皇陵だった。周囲に柵が巡らせてあって標識があるから分かるようなものの、それがなければ木立ばかりのただの丘である。入口を探してしばらく右往左往したがわからず。後藤さんが以前にきたときは、広い参道に蛇が横たわっていた記憶があるというが、そんな参道は見あたらない。先もあるので諦めて転害門を目指した。その方向へ歩きだすと、すぐに参道に行き当たった。参道は100mほどあって中へ入れるが、先を急ぐことになった。後藤さんの記憶はこの参道だったのだ。あとで知ったが、少し参道を進むと脇道があって東隣にある光明(仁正)皇后陵にも通じているのだった。

転害門、正倉院

聖武天皇陵の前の人家に囲まれた狭い道はそのまま一直線に転害門(てがいもん)に行き当たる(9:09)。あとで調べると車の通りの鬱陶しいこの道路が佐保路で、転害門を佐保門ともいうそうだ。転害門については、完全に思い違いをしていた。壊れかけた土塀に支えられるように建っている小さな門だとばかり記憶していたが、違った。東大寺の境内へ入る門なのだから、南大門にはかなわないとしても、ずいぶんと立派な門であった。周囲は柵で囲まれて迂回するしかないが、内側へ回り込んで目にしたのは、記憶にある崩れかけた築地塀だった。一部は正しかったわけだ。調べて分かったのだが、悪名高き平重衡の焼き討ちにもその後の戦乱にも消失を免れた最古の門だという。転害門は景清門ともいう。そんな能があるとは知らなかったが、『大仏供養』という能で景清が頼朝の命を狙ってこの門に潜んだことからくるという。それにしても古典芸能では景清は人気者だ。あちこちに顔を出す。転害門から入って正面に正倉院がある。といっても現在は工事用の塀が周囲に張り巡らされて正倉そのものは見えない。正倉院を北から迂回して裏側からわずかに正倉をかいま見て戒壇院へ向かう。

戒壇院

戒壇院(9:31)。東大寺といえば、大仏、二月堂にならんで、この戒壇院が頭に浮かぶ。解説書では、聖武天皇をはじめとする当時の高官らが東大寺大仏前に設置した戒壇で鑑真から戒律を受け、(多分それが機縁で)当時皇太子だった孝謙天皇がここに戒壇院を建立した。創建当時は、金堂、講堂などを備えた伽藍であったという。3度の火災で当初の建物はなくなり、現在の戒壇院は享保年間の建築。戒壇の中央に多宝塔、四方に四天王が祀られている。目玉はもちろん四天王。自分にとっては、東大寺に限らず、この旅の最大の目的でもある。

この四天王は塑像だ。塑像と木像は素人でもある程度区別はつく。表面の質感の違いにもよろうが、塑像はより自由に成形できるように見える。この四天王の形態の無碍なことはそれによるのだろう。なかんずく、塑像の可能性が最善に発揮された像群ではないか。躍動的な造形のなかに安定があって、しかも軽ろみがある。なんだか、脚の一本をちょっと掴めば持ちあげられるようだ(もちろん、踏みつけられている邪鬼がそうはさせじとしがみつくだろうが。あるいは喜んで逃げ出すかな)。姿態の柔軟さ、衣裳の軽快(これは鎧なのか?)、表情の豊かさ、どれをとっても胸のすく表現力だが、なかでも顔の表情がいい。何人かの著名人が広目天の表情をほめているようで、尻馬に乗るようで気が引けるが、ぼくもそう思う。以前から、大森氏に似ている(ほめすぎか?)と思っているのだが、近頃、大森氏は大相撲の時天空(アルタンガダス・フチットバータル)が似ているといいだした。それはさておき、今日はこの堂を訪ねた刻限がちょうどよかった。日差しが前庭の小砂利に反射して、とっときの間接照明となっている。さすがに後列の増長天と広目天には少し暗いが不満はいえまい。戒壇を数回も巡って四像を堪能した。戒壇院の由来からか、壇の正面に鑑真の小さな肖像画が飾ってあった。

二月堂

戒壇院から大仏殿の裏を迂回して二月堂へ。メジロがコナラの幹を突いている。蜜ではなく虫を探しているは珍しいと思ったが、どうやら樹液をせせっているのだった。二月堂へ上る途中に後藤さんが、その壊れかけた風情が好きだったという湯屋(坊さんの公衆浴場?)があるが、きれいに整備されてしまっていた。二月堂の回廊に上って内陣をのぞく。線香の煙で燻されて真っ黒け。だが、翻って奈良盆地を見晴らすと景色が素晴らしい。この急斜面に懸け造の建物を構築する苦労がそれなりにあったろうが、その苦労は十分報われたろう。高所から景色を見ることは、いまのわれわれには日常的であるが、昔の人はどんな気持でこの景色をみただろうか。お堂を一巡して降りようと思ったが、ふと茶屋の甘酒の暖簾が目にとまった。自分でも甘酒は作るが、うまくゆくと蜜のように甘いものができる。それを湯で解いたほのかな甘味と麹ともち米の発酵香がなんとも好きだ。甘酒というと試してみたくなるが、だいたい失望する。値段を見ると550円。こんなに高い甘酒は経験がない。やめようかと階段へ向かいかけて思い直した。二月堂の横の茶屋で、雑踏のないのどかな雰囲気で、甘酒を飲めることなど二度とあるだろうか?ってことで、毛氈を敷いた腰掛けに座り込み、“甘酒ください”と頼んだ。ここで商売をできるのはよほどの歴史があるはずで、出てきた女性も土産物屋の売り子とは思えない雰囲気があった。腰掛けて待つことしばし。まずは“時間がかかりますので”とお茶と味噌が出た。普通なら、もういいよといって席を立つほど待たされていたのだが、今日は時折通る参詣者を眺めながらここに座っていることが心地よかった。それでも、みんなはとうに先にいっていたし、冨山さんから催促の電話。多少のやましさはあったよ。そして、ついに“熱いからお気を付けて”とマグカップのように背の高い茶碗になみなみと熱湯の甘酒が出てきたのだ。これは猫舌にはたまらない。ふーふー吹きながら飲み終わらないうちに、カメちゃんが迎えにきた。やっと飲み終わって、二人で席を立つと、チャウまでも階段を上がってきていた。いやいや、ご迷惑をおかけしました。あの甘酒、さして美味くはなかったけど、あのくつろいだ気分は忘れられない。

法華堂(三月堂)

このお堂は天平時代の建物(東大寺最古)に、鎌倉時代に礼堂を建て増ししたのだとのカメちゃんの話しを聞きながら法華堂に入る。ここだけではないだろうが、以前と内装が違う。昔はただの三和土から仏像を見上げたような気がするが、いまは絨毯など敷き詰めてあって、靴を脱いで上がるのだ。礼堂の正面に腰掛があって、じっくり座って拝観できる。冷たい三和土から見上げた不空絹索観音は恐ろしいほど厳しい表情で、一番怖い仏様という印象があったが、靴を脱いでぬくとい敷物に立って見る観音はなんだか表情がやさしい。ここも本尊をはじめとして、脇侍の日光・月光、金剛力士、四天王と国宝だらけだ。後藤さんは月光菩薩の表情がお気に入りとか。ここの四天王は、戒壇院のそれとは対比的にどっしりした重量感に溢れている(10:49)。

春日大社、若宮

三月堂のすぐ脇の手向山八幡を通過して春日大社へ向かう。春日大社の本殿(11:19)。藤原の氏神を祀る神社として不比等が建立したことは知っていたが、その氏神がまさか鹿島神宮の祭神とは知らなかった。それに香取神社の祭神も祀られているそうだ。それも奈良・平城の昔から。歴史は関西から関東へ流れるという定説がこの場合は成立しない。本殿は春日造の元祖で国宝だそうだが、二十年で建て替えるので建物自体に年月の醸す味わいはない。万灯籠の回廊が斜面に沿っているので、その斜度に合わせて垂木が菱形になっているのが印象に残ったことくらいか。それと樹齢千年といわれる本社の大杉の存在感。その根本からビャクシンが伸びて檜皮葺の屋根を貫通しているのが面白かった。建物のほうが新しいはずだから、きっと最初から屋根に穴を開けて建てたんだろう。大社を出てみなは食事に向かうというが、ぼく(とチャウとカメちゃん)はすぐ脇の若宮も訪ねた。ぼくは春日大社より若宮に興味がある。というのは、能がはじめて現在のような内容で演じられたという記録が初出するのが『貞和五年若宮臨時際能記』(1349年)なのだ。この“若宮”は春日若宮で、この祭とは平成19年で第872回途絶えることなく続いているという現在の若宮おん祭のことだろう。貞和五年に“臨時”とあるのは諒闇で延期されたからだ。つまり記録としての能の原点がここ春日若宮にある。というわけで、一度はその若宮を見てみたかった。おん祭の体験はないが、絵巻や現在の番組からしても相当に大規模な催事だ。さして広くない若宮の参道にいくつかの摂社が連なってはいるが、それほどの祭はできそうにない。大社の参道を使うのだろうか、一度見てみたいものだ。

レストラン「能」

昼食は奈良県新公会堂のレストラン「能」。冨山さん曰く“ある人は旨いといい、ある人はダメだ” という店である。梓の昼食にしてはめずらしく、まともなレストランで、サービスはホテルのレストラン級。席に着いてから聞けば、奈良ホテルの経営だというから当然か。だが、最初からそれを言ってくれれば味の見当はつく。ぼくはビーフカレーを頼んだ。まともな素材できちんと作ってある。それなのに1000円もしないのだからとても良心的だと思う。だがこれほどの材料と手間をかけるなら、もっと別な調理方法もあろうかとの印象は残る。でもまあ、心地よいサービスと窓外に拡がる広大な芝生の開放感を味わうだけでも気分はよい。アルコールも少し入った食後ののんびり気分で東大寺へ向かう。途中、コートのポケットからはみ出していた春日神社の解説書を鹿に引き抜かれ、食べられてしまった(13:10)。まあ、神社の神鹿だからもとに戻したことになるか。しかし、最近の紙は素材になにを使っているか分からないから、鹿にもよくないかな。

華厳宗大本山東大寺大仏殿

東大寺といえば、今日これまで訪れた転害門から法華堂まではすべて東大寺なのだが、タイトルとして大仏殿に代表してもらおう。 南大門には『大華厳寺』の額がかかっている(13:10)。さすがにこの時間になると観光客の数も増えてきた。門の間口を行き来して運慶・快慶の巨大な仁王像柱を見上げる。まこと大仏のスケールにふさわしい力感のある仁王たちである。ところで、柱を支点に屋根を支える構造を斗栱(ときょう)といってカメちゃんの話によくでてくる。ここで整理しておくと、斗はマスで立方形の構造物、栱は肘木でまさに肘のように直角に曲がった構造物。複数の肘木を束ねて屋根の重量を受ける。肘木と屋根の接続に小斗、肘木と柱の接続に大斗が配置される。小斗が2つなら二斗(ふたつど)、3つなら三斗(みつど)になる。つまり、2あるいは3個所で受けた屋根の重量を各肘木に伝え、それを大斗で束ねてさらに柱へ伝えている。小規模な建築では、斗栱は壁と平行な平面的な構造だが、大規模になると屋根の張り出し部分にも支えが必要になり、立体的に壁から張り出す構造が付加される。これが出組(でぐみ)で張り出す階層によって、一手先(ひとてさき)、二手先(ふた…)、三手先(み…)となる。ここ南大門ではそれが六手先(む…)まで張り出している。それだけ屋根がでかいということだ。

大仏殿(金堂)を目の当たりにして、カメちゃんから伽藍形式の変転について解説がある(参考サイト)。骨子は、仏教の崇拝対象が仏舎利(塔)から仏像へ移行するにつれて、それを反映して伽藍配置が変わるということ。釈迦自身は偶像崇拝を廃したが、具体的なものを欲する後世の信者が、まずは仏舎利を崇拝の対象とし、それがより具体的な仏像へ移行した。当然、主要な崇拝対象が伽藍の中央へくる。その見方によれば、伽藍の中心に塔がある飛鳥寺、四天王寺はもっとも古い形式。塔と金堂が左右に並ぶ法隆寺、法輪寺、法起寺は新旧の過渡的な形式となる。ここ東大寺(および南都一般の伽藍)は、南大門、中門、大仏殿(金堂)、講堂跡が軸線上にあり、その左右に東西の塔を配置している。完全に崇拝の中心が金堂(仏像を安置する)に移行してからの新しい形式になる。それはさておき、仏像や曼荼羅などの図像だらけの寺をみたら釈迦はなんというだろうか(回教徒はいまだにムハンマドの教えに忠実である)。

あらためて大仏殿を仰ぎ見る。いや、でかい。これが木を組み上げただけで自立しているとは、飛行機が空を飛ぶように信じがたい。そのなかに鎮座する盧舎那大仏もでかい。寺社を訪れたときのしみじみとした情感にはほど遠いが、なにかにつけてせこせこと細部にこだわる日本人が、これだけ巨大な仏像をでっち上げたとは痛快だ。Viva! 聖武。でっちあげたは失礼かもしれないが、建立後の像の修復歴や当時の国力を考えれば暴挙でもあったろう。自重に絶えきれずに傾斜・歪曲したり、戦火にあって融解したりと災厄はつぎつぎと襲ってきたが、いまだに建立当時の部分が相当残っているというのは驚きだった。拝観終了(13:56)。

法相宗大本山興福寺

いわずと知れた不比等の建てた藤原氏の氏寺である。といっても、いまは広い奈良公園のなかに埋没して伽藍としての一体感はない。ここはなんといっても国宝館だ。若いころはご多分に漏れず中性的な美しさのある阿修羅(乾漆八部衆立像の一つ)が好きだった。今回、じっくり見てみると、唇が右にややつり上がっている。こやつ結構意地が悪かったのではないか(まあ、こういう見方は邪道だね)。愛着をもって見られるのは、天灯鬼、龍灯鬼。作者は康弁(運慶の三男)。四天王の足台から仏壇の照明係に出世した邪鬼だ。天灯鬼は肩に灯籠を担ぎ、龍灯鬼は頭に載せている。龍灯鬼は龍を襟巻代わりにしているが、龍が逃げないように尻尾をしっかと掴んで離さない。おかげで龍はなさけないような泣き笑いの表情だ。後ろ姿は展示では見られないが、どちらの像もゆる褌が愛嬌がある。カメちゃんが見たかった無着・世親菩薩像はここにはなく、北円堂の仏様で特別展の時期以外は非公開だった。拝観終了(15:11)。

華厳宗別格本山新薬師寺

県庁前からバスで破石(わりいし)町へ。春日神社の境内を南へ抜けるとすぐのところだ。そこからだらだらと高円山方面への登りが続く。町並みを抜けると急に畑の拡がる場所へ出て、そのかたわらに新薬師寺がある(15:45?)。ここの宿坊にチャウは泊まったことがあり、宿から見た畑が印象にあるそうだが、現在は宿泊できない。創建当初は食堂(じきどう)であったといわれる本堂(奈良時代)を左手から入る。気がつけば寺の拝観入口はだいたい左手にある。舞台でいえば下手で、芝居でも役者の出入りはだいたい下手から。なにか共通した意識があるのだろうか。ここの塑像十二神将は写真ではなんどもお目にかかっているが、実物ははじめて。十二像のうち一像が欠けていて、それを昭和になって補作したが、それ以外は全部が国宝。本尊の薬師如来を中心に円形に十二神将が配置されている。なかでもバサラ大将の横顔はポスターでよく見る。十二神将は方角・干支の神様でもあるので、自分の年の神将にお参りする人が多いとか。尚やんが、羊のアニラ大将にカメちゃんとぼくの分までお参りしてくれたそうだ。ここのマコラ大将こそ時天空に似ているとは、チャウの評である。同感。塑像の表面に残った建立当時の染料からオリジナルの色彩を復元したというけばけばしい写真があったが、あまり興味はわかない。われわれが仏像に暗黙に求めているのは、生身の人間が何回生まれ変わっても足りない年月を経過してきた時間の堆積である。それを無視して、生まれたばかりの姿だと目の前に突きつけられてもしかたない。まあ、研究としては何かの意味があるのだろうが。瑠璃光と称するステンドグラスも同断だ。十二神将だけ見ていると分からないかもしれないが、同じ塑像の戒壇院の四天王に比べると動きがかたく輪郭の切れが鈍く感じた。

真言律宗高円山白毫寺

もう相当脚に疲労が来ているが、最後に白毫寺まで足をのばした。新薬師寺からはさらに高円山の裾野を登ることになる。どんどん坂が急になって、最後の直角に曲がった階段で止めをさされる(16:18)。時間的にはだめもとで来たので拝観できて幸運だった。寺のパンフにも「ながめのよい花の寺」とあるが、標高があるのでそれももっとも。境内を取り囲む木立の葉群と、その下の垣根とのあいだから奈良平野が一望できる。ここの本尊は阿弥陀、脇侍が勢至と観音だ。珍しいのは脇侍の両観音が背筋を倒すように前傾していること。カメちゃんによれば、衆生を浄土へ迎える姿勢を表現し、ほかの寺にも例があるそうだ。仏壇を挟んで、左の壁際に閻魔王、反対に太山王の坐像がある。閻魔の両脇に司命、司録の像がある。どれも恐ろしげな表情で眼前の相手を威嚇しているが、現代でいえば、裁判所の光景となるか。同じ寄木造でも本尊三像の磨いたような滑らかさと違って、目を見開いてゴツゴツと武張った表情を見せている。造形としては裁判所のほうが面白かった。

この寺は志貴皇子の山荘跡を寺にしたのだそうだ。志貴皇子は、天智の第三皇子とも第七皇子ともいわれる。壬申の乱で聖武系の天皇が何代か続いたあと、志貴の子の白壁が光仁天皇となって天智系が復活する。そのために志貴皇子は天皇の諡をもつ。ここだけ妙に詳しくなるのは、万葉集の中でも、皇子の歌は現代に通じるような若々しさと清々しさをもっていると感じるからだ。

采女(うねめ)の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く 1-51

石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 8-1418

“石ばしる”などという語感は鮮烈である。拝観終了(16:41)。

まんぎょくろう

奈良佐保短期大学前の停留所からバスで県庁前まで戻る。冨山さんの知っている店を予約したのだが、開店の6時でまだ間がある。興福寺の北円堂、南円堂、三重塔などをまわって時間をつぶした。その店は、猿沢の池からひとつ通りを奈良駅寄りに入った元林院町にある。元芸者置屋「万玉楼」をそのまま店名「まんぎょく」にしたといい、建物は江戸時代まで遡るらしい。冨山さんが予約の旨を告げると女将が迎えに出て席まで案内してくれた。玄関から入ったところが少し広くなっていて、右奥に手洗い、左手にギャラリーに使えそうな待合室らしきものがある。さらに入ると中央に仕切りがあり、両側に客席があるが、右側奥は調理場兼カウンターと客席になっている。われわれは左側の手前の席に案内された。ザックや上着やらを置く場所を訊ねると、置けるところに置いていいが、額や飾り物を隠さないようにしてくれとのこと。これは、きちんとした装飾意識のある店なら当然だろう。この店は二階屋だったと思うが、吹き抜けになっているので天井が相当高く思える。自転車で別行動の金谷氏も、途中でどこかえへ消えてしまった善さんも無事に到着。当然、ビールの乾杯で宴が始まる。最初に、野菜の上にイクラを飾った突き出しがでた。薄味の品の良いダシの取り具合だ。関東のダシは鰹節でガンガンとるが、こちらは昆布ダシで薄めにとるようだ。出だしは良かったのだが、やがてテンポが一拍遅れることが気になってきた。関東の忙しないやりとりをこのあたりで望むのが無理とはわかっていても、こちらの気分が殺がれてしまう。やがて、もうこの辺で切り上げようということになり、店を出た。そのあとは、駅近くのスーパーで買い出しをして、YH食堂で宴会が盛り上がったのはいうまでもない。あまりの笑い声にホストから注意の声がかかった。昨夜のホストは食堂なら明日の朝まで飲んでも構いませんといっていたが、今夜の別人はそろそろ消灯ですと宴会の打ち切りをうながされた。規定では10時だが、11時を過ぎていたのは配慮か。それでちょうどよかったのかもしれない。

2007年2月11日 日曜日

晴れ。 今日は法隆寺を中心に斑鳩を訪ねる。金谷氏は仕事で、天理だが桜井だかの筆者と打ち合わせで、自転車でひとっ走り(結構あるそうだが)だという。春日大社と法隆寺を結ぶバスもあるが時間がかかるので電車がいいと後藤さんが提案。まずバスで近鉄奈良へでた(8:51)。近鉄奈良から西大寺を経由し、紆余曲折があって筒井駅に着いた(9:47)。そこからまたバスに乗り換えるのだが、バス停が道路の向かい側にあり、赤信号で横断できないところへ法隆寺行きのバスがきてしまった。バス停には長い列ができているので、これなら間に合うかと思ったが、奈良近辺の信号はものすごーく間隔が長い。そのうち列はなくなってしまった。後藤さんがバスのバックミラーに映るように盛んに両手を振って乗車の意図を表示すると、それに応えてバスは待っていてくれた。関東なら絶対に出発してしまうはずだが、信号が長いのは人の気も長いからなのだ。

聖徳宗大本山法隆寺

西伽藍

法隆寺バスターミナル着(10:34)。なぜかターミナルにはオホーツク海からやってきた流氷がブルーシートを被っていた。ターミナルから斜めに入った方が近道だが、並木の参道を通って正面から向かうべきだと後藤さんがいう。今日は、町制60周年聖徳太子マラソンが開催されていて、えらくにぎやかである。修学旅行できたはずだが憶えていないという善さんは、並木のはじに南大門が見えてきたときに不思議な感動を覚えたそうである。南大門からさらに進んで中門へ至る。そこから先は中門を正面にして回廊で囲まれた西伽藍の有料区域である。まずはその西側にある三教院、西室、西円堂を一巡する。ここも中門の左手の、回廊の一部が入口になっている。普通の寺社では拝観料は500円以下だが、ここは1000円。記録的な高さだがやがてこれが高くないことが分かる。有料区域は西伽藍、大宝蔵院、夢殿と3分されているのだが、そのそれぞれに十分な拝観価値があるからだ。法隆寺の伽藍形式は中門から入って左に塔、右に金堂、奥に講堂を配する。カメちゃんによると、崇拝対象が仏舎利から仏像へ移行する端境期の形式に相当する。建築の特徴としては雲形斗栱(くもがたときょう)が使われていること、高欄が卍崩しで擬宝珠がないことなどがあるという。パンフには蛙股の原型ともいわれる人字形割束(じんじけいわりつか)も特徴とあった。これらは、斗栱と斗栱の中間にあって、屋根の重量を梁に分散するものだ。五重塔を見上げると五層と四層のあいだ、また一層と裳階(もこし)のあいだ、四隅に支柱の彫刻がある。前者は龍、後者は邪鬼だ。これらは後補によるものだそうで、見慣れてくると無粋である。ただ、補強が必要だったということは、自重で屋根が垂れてくるなどの現象があったのだろう。金堂の屋根と一層の間にも龍形の支柱による補強がある。門やお堂の柱はエンタシス風に見えるが、ちょっと違うらしい。エンタシスの柱は先細になるのに対し、法隆寺の柱は下から1/3の辺りが最も太くなる徳利型だそうだ。

五重塔の基壇に上がると、四方から最下層の内陣が見られる。仏教の説話を表す塑像群だそうだが造形としては面白くない。金堂の聖徳宗本尊釈迦三尊、法隆寺根本本尊薬師如来、阿弥陀三尊、四天王も違う意味で面白くない。狭い回廊で行列をなして、常備の懐中電灯で照らさなければ見えないような薄暗いなかで、埃だらけのくすんだ仏像を見たところで、有り難いかもしれないが面白いわけはない。博物館の仏像はしらけるものだが、いくら寺の中でも、見せるなら見せるように仕組みを考えるべきだろう。三尊の作者止利仏師は帰化人の孫で、北魏の仏像形式を取り入れながら日本式に洗練された様式を完成させたとあるが、ここの諸像は和風の容貌には見えない。作者は違うが、四天王像はとくに異風だ。今回、多聞天が見あたらなかったが、係の人の話しでは“奈良国博へ単身赴任中”とのことだった。この多聞天は今回の旅の最終日にお目にかかることになる。大講堂には薬師三尊像と、やはり四天王像があるが印象に残っていない。ただ、前回ここを訪れたときに、四天王の名を「地蔵さん買うた」→「持増さん広多」と憶えるのだと教えられたことを思いだした。今回は、これを昨日、戒壇院の説明で聞いた。西院伽藍終了(11:13)。

西伽藍の外へ出て東隣の聖霊院にあがる。ここの本尊は聖徳太子像で秘仏。以前、東京の法隆寺展の出開帳で見たことがある。理知的で強い眼差しが印象に残っているが、拝見できないのではしかたなし。

大宝蔵院

この建物は百済観音を中心に著名な寺宝を展示している。興福寺の国宝館の法隆寺版だ。平成10年落慶だから朱塗も鮮やかで法隆寺で一番新しい建物だろう(11:25)。全体はコの字形の構成で、コの空いた部分が中門、それをくぐると正面が百済観音堂、東西に宝蔵が並んでいる。正面観音堂の壁面に『補陀落』(ふだらく 観音の住む山)の額が見える。あまりにお宝が多くて眩暈のしそうなところだ。

まず目に着いたのは金堂天蓋の天人(クスノキの彩色透彫)。これは琵琶を手にしているが、YHの写真は縦笛を吹いていた。それと似た表情をもつ六観音は童子形で仏様というより可愛い子供。スケートの村主章枝の子供の頃はこのような面立ちであったろうか。村主(すぐり)というのも、この像が造られた時代に朝鮮から移民してきた人たちの姓だ。天人と六観音は同じ工房の作ではないかとは、カメちゃんの意見。玉虫厨子には昔タマムシの翅 が見える個所があったとカメちゃんがいうが、はて?

橘夫人(ぶにん)稔侍仏。池から伸びた3つの蓮の台(うてな)に阿弥陀三尊を配すこの像は文句なく好きである。夢違観音もいいけど、すぐそばで比較してしまうと影が薄い(脱線だが、金堂阿弥陀三尊の脇侍は夢違とよく似ていることに今回気づいた)。数多ある三尊像だが、トータルな完成度としてはダントツではないか。暗くて表情がよく見えないのだが、その表情は穏やかさの化身。橘夫人は、不比等の妻、光明皇后の母で、名前は橘三千代(たちばなみちよ)。まるで芸者のような名前だが、自分が身近においてお祈りするために、当時の技術、芸術の粋を集めたこの仏様を作らせる力があったのだ。ただのオバサンではない。

百済観音。正式名称は木像観世音菩薩立像。この異様なプロポーションは一度見たら忘れない。“八頭身で均整の取れた”などとガイドがわめいていたが、均整という言葉の意味を知っているかと訊きたくなる。普通はこういう体躯を“ひょろ長い”という。表面の彩色は退色して剥落し、塗料はひび割れている。教科書の写真でみたときは“変なの”と思ったし、最初に実物を見たときも似たような印象だったと思う。いまでこそ、遠い昔の人びとの願望がこの容姿を生み出したのであり、長い年月を耐えてきた像の傷みは味わいとなっていると思えるが。

東院伽藍(上宮王院)

大宝蔵院から両側を土塀に囲まれた広い道をしばらく東へゆく。この道の右(南)側に若草伽藍(焼失したオリジナル法隆寺)があったそうだ。東伽藍の四脚門から回廊に囲まれた境内に入る(12:09)。上宮王とは聖徳太子のこと。若い頃の太子の住居を上宮(かみつみや)と呼んだことによる。ただし、上宮王は“じょうぐうおう”と読む。ここは太子の斑鳩宮跡。100年ほどあとの僧行信が荒れ果てているのを悲しんで、太子をお祭りするために建てた伽藍という。絵殿、舎利殿、礼堂などが回廊で結ばれて、中庭の中央に夢殿がある。お堂としては珍しい八角のプランで、本尊救世観音は聖徳太子に似せたといわれるが秘仏。玉砂利を敷き詰めた中庭を一巡して往時を偲ぶのみだ。

聖徳宗中宮寺

この寺は東院伽藍に付属するかのようにある(12:22)。パンフの沿革を読むと、太子の母、孝謙天皇の皇后の発願で斑鳩宮を挟んで、法隆寺と対をなすように尼寺を建てたとあるので、なるほどと思う。この寺は、弥勒菩薩(正式には如意輪観世音菩薩半跏像)だけでもっているようなものだ。池の真ん中に新本堂があって、下足を脱いで階段を上がる。畳敷きの礼堂に座らされ、録音テープを聴かされる。仏をじっくり見てみたいが、そういう雰囲気ではない。テープが回り終わると、“はい次のグループ” となる(そうはいわれないが、そうせざるをえない)。立ちあがってしげしげ仏を覗き込んだら叱られそう。興福寺の阿修羅に似た中性的な魅力をもった仏様。パンフにはモナリザやスフィンクスの微笑と比べているが、ダントツこちらの微笑の方が魅力的。モナリザは気持ち悪いし、フィンクスは笑ってるっていれても。昔からこれが寄木造だということが不思議でならなかった。磨き込まれた金銅仏のように黒光りしているから。今回、尼寺だけに、そうとうこまめに御身拭しているのだろうと考えて納得した。埃だらけの釈迦三尊を見たあとだからからかもしれないけどね。新本堂が吉田五十八の設計(昭和43年落慶)とは知らなかったが、新しいお堂をはじめて見たとき、以前見たお堂の印象が残っていて軽く失望した記憶がある。(12:32)

中宮寺バス停から少し戻った国道脇のうどん屋「さガみ」で昼食(12:50〜14:50)。変な名前の由来はメニューにあったが書く気もない。山掛けうどんという、これも変なうどんを食べた。

法輪寺

まだ続いている太子マラソンの交通整理係に道を尋ねたりして法輪寺まで歩く。三重の塔があるから目指しやすい(14:33)。パンフを読んでいて気になったのだが、この寺は聖徳宗のはずで、聖徳宗のHPに「1950年法相宗から離脱し、門跡寺院中宮寺、本山法輪寺、法起寺など聖徳太子ゆかりの寺々とともに太子の教えを根本として開いた」とあるのだが、宗派に属する寺の一覧に法輪寺の名前はないし、パンフにも聖徳宗の記載がいっさいない。それに寺の催しが、講堂裏に祭ってある妙見さま(妙見菩薩が北辰=北極星の仏格化とは知らなかった)関係のものばかり目立つ。なにかあったのかと、勘ぐってしまう。

それはさておき、このお寺はスケールは小さいが、法隆寺のように塔と金堂を並置する伽藍形式で、山背大兄王が父聖徳太子の病気平癒を願って建立したそうだ。国宝だった三重塔は昭和19年の落雷で焼失。幸田文らの支援であらたに建てたのが現在のもの。同じ姿で再建したとあるが、これはあまりいただけない。塔全体の印象がずんぐりしていて軽快さがない。垂木が太すぎるようにも見える。この火事にこりてか、主な仏像は収蔵庫兼用の講堂に安置してある。講堂本尊の薬師如来坐像は止利仏師、虚空蔵菩薩立像は止利系仏師の手になるとあり、法隆寺の釈迦三尊と容貌が似ている。とくに薬師坐像の前面に垂れた衣紋などはそっくり。後藤さんは虚空蔵がお気に入りで、以前見たときとより、今日は、顔色が優れないという。日差しの加減であろうか。ここは法隆寺とは違って、手に触れるほどのところにケースにも入らずに仏像がある(寺だから当たり前と思いたいが)ので親しく拝観できる。講堂の本尊という十一面観音菩薩立像は、ここではひときわ大きい仏様だが平安期のものだから雰囲気が違う。大きなお目々が、芸能レポーター梨本氏に似ている。のちほど宿でカメちゃんが持参した和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだが、やはり目の大きさが印象的だったようだ。

聖徳宗本山法起寺

法輪寺から法起寺へ向かう車道の右手に、畑を隔ててこんもりした丘がある(15:00)。これが山背大兄王の陵墓参考地と碑があった。蘇我入鹿に自殺に追いやられ聖徳太子の係累はほぼ絶えたと憶えているが、ではだれがこの墓を作ったのか。

法起寺は、畑に張り出した敷地の南面に小さな門がまず見えるので、そこへいってしまったが閉ざされていた(南大門とパンフにはあるが本来の中門の位置だろう)。拝観の入口は西門だった(15:14)。窓口の人が、今日は三重の塔も十一面観音も開扉しているからご覧くださいと愛想よくいう。ここは聖徳太子が遺言で自身の岡本宮を寺としたとパンフにある。法隆寺、法輪寺と同じで塔と金堂が並置されるが、東西の位置が逆になる。カメちゃんによると、法起寺式伽藍というそうだ。法隆寺と並んで日本ではじめて世界遺産に登録されたというが、706年建立の三重塔こそ最古の三重塔だが、それ以外は創建当時の建物はない。講堂の本尊で収蔵庫に安置されている十一面観音も平安時代。

今日も寺と仏像を堪能した。近くの国道の法起寺バス停からバスで近鉄奈良へ戻る。電車のほうが早いが乗換が面倒である。今日の最後はならまちの元興寺。尚やんが近鉄奈良へ戻るより手前の三条本町辺りで降りた方が近道だという。なるほどバスで近鉄奈良までいってしまうと、ならまちへはコの字に戻ることになる。車中、地図と首っ引きの尚やんの“ここだ”の合図で、三条川崎町でバスを降りる(16:51)。こちらは狭い小路をわけもわからずついて行くだけでだったが、あとで地図をみると、JR奈良駅の少し南でバスを降りて真東にゆくと元興寺がある。途中、後藤さんがモーツアルトの交響曲40番を小林秀雄が「疾走する悲しみ」と評したという話しをしていたのだが、そのとき後藤さんの携帯から突然交響曲40番が鳴りはじめたのには驚いた。もちろん着メロで、金谷氏の電話だったのだが、後藤さんも驚いているので、よけいわけがわからない。しばらくして、後藤さん自身が、公衆電話からの着信音をこの曲にしていたことを思いだした。金谷氏が携帯の電源が切れて、公衆から電話をしてきたのだ。それにしても、こんな偶然があるのだね。それで思いだしたが(受け売りですが)、正確には小林秀雄は交響曲40番でなく弦楽五重奏4番を「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない…………」といっている。調性が同じト短調なので混同されたらしい。しかも、“疾走する悲しみ”は彼自身の言葉でなく、フランスの詩人アンリ・ゲオンが、この弦楽五重奏の第1楽章第1主題を「走る悲しみtristesse allante」と表現したのを下敷きにしたというのが定説だ。また脱線でした。ならまち界隈の細い路地をうろうろして元興寺になんとかたどり着いたが、拝観時間は終わっていた。

梁山泊

さてあとはどこで本日の〆の宴会をするかだ。だいぶ迷って、餅飯殿(もちいどの)商店街、下御門町などうろうろし、結局、後藤さんの知っている梁山泊に落ち着いた。ここは梓向き。みんな満足。ただ、どこにいても怪人二十面相のように的確に姿を現す金谷氏がなかなか到着せずに気をもんだ。携帯で西城土町(ニシジョウドチョウ)と場所を知らせたのだが、音だけでは西浄土町と思ってしまう。自転車で走りまわって、飽きるほど訊ね回ったというが、奈良は町名が細かく別れていて少し離れるとお互いわからないらしい。それでもなんとか合流。古典派右翼の筆者とバリバリ?の左翼の金谷氏のやりとりなどを聞きながら酒がすすんだ。戦後の歴史学では「神武東征」などは史実ではないとする説が一般的だが、この著者はそれは誤りだと主張しているのだそうだ。資料としては古事記と日本書紀しかない(補足的に万葉集と風土記もある)し、その記述をそのまま真実とみとめることは、現代人には到底できないから諸説百出なのである。梁山泊終了(20:51)。帰りは善さんが自転車で、あとはタクシーに分乗。一台はYHでの宴会のために酒などを仕込む。YH帰着(21:03)。ところが買い出しの酒が少ない、ビールはない。そこでまた自転車を駆って近所のローソンまで買い出しに行くことになった。たっぷりの酒を目の前に、話しが弾んだことはいうまでもない。

2007年2月12日 月曜日

快晴。 最終日だ。金谷氏は別件の仕事ができて朝食後に帰京。われわれはYHの近くを通っている歴史の道を辿って西大寺方面へ(8:41)。宿の前の車道を少しくだって右折。住宅街の細い路地を「歴史の道」の標識を目当てに進む。元正天皇陵、興福院、狭岡(さおか)神社などをやりすごして不退寺へ出る(9:10)。真言律宗西大寺直末金龍山不退転法輪寺、在原業平が開基したので別名業平寺だそうだ。周囲を森に囲まれ庭に草木の茂ったひっそりとした寺だ。やはり寺は金ぴかよりこうした風情がいいなあと思って山門を入りかけたが、そのあとがいけなかった。最初に入っていった善さんが不満げな顔で戻ってきた。掃除をしていた坊さんだか庭師だかしらないが、“拝観しないなら入らないでくれ”と言われたのだ。しばらく門前で説明版を見たり写真を撮ったりうろうろしていたせいかもしれないが、早い話、金払わないなら出て行けということだ。これが坊主の吐く言葉か!。衆生を教導する最低限の意識があれば、こんな言葉は出てこないだろう。よし庭師であったとしても、身の回りの人間を感化もできない坊主など似たようなもの。拝観の気持など失せ、不退寺ならぬ尻の帆かけて退散寺であった。

退散寺のすぐ西にJRと国道24号が平行している。これらを架橋と横断歩道で超える。この国道は高速道路なみの交通量があって、われわれが歩行者用信号のボタンを押して横断するあいだに、たちまち数十メートルの車列ができていた。横断歩道を渡ったところに池に浮かんだ丘陵、宇和奈辺陵墓がある(9:22)。まったく無知だったが、このあたり、つまり佐紀丘陵の南斜面に4、5世紀の巨大前方後円墳が集まっていて、佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん→Wikipedia)というのだそうだ。われわれは宇和奈辺陵墓の南を通って法華寺方向へ向かう。この墓の主はわかっていないが、スケールからすると天皇級の権力者だろうね。

真言律宗海竜王寺

法華寺のついでに寄ったのだが(9:38)、これが予想外によかった。光明皇后の創建で、中国の寺のような名前だが、海竜王経というお経があるそうだ。遣唐使の帰途、嵐に遭遇したが、このお経を唱えて難を逃れたことが寺名の由来だという。車道から少し階段を上がって、海竜王寺の額が懸かった四脚門をくぐり、両側を背の高い塀(右手は築地塀、左手はありふれた塀で隣の神社との境界になっている)に囲まれた狭い参道を進む。突き当たりの、寺の門というより勝手口のような門の左脇に小さな料金小屋があって、まだ若い(われわれよりという意味で)坊さんが拝観券を売っている。これまでの寺で坊さんが切符売りをしていることはなかった。参拝客も少ないのだろうか。東の四脚門から入ったので、正面に西金堂、右手に金堂、左手前に高床式の一切経藏がある。発掘調査で、奈良時代の伽藍形式をもった大きなお寺だったことがわかっているが、現在はこれだけしか残っていない。ここのお寺の面白いのは、西金堂の中に五重小塔が収まっていることだ。室内に安置されていたおかげで奈良時代の塔の構造がそのまま保存されていて、国宝になっている。金堂には残存する仏像が集められている。開放的で正面の扉がすべて開け放たれている。開けっ放しはいまどき不用心に見えるが、さきほどの坊さん以外人もいないようなので、どこからでも見えた方がかえってよいのかもしれない。残念ながら本堂内は開放的というより放置されているに近い。密教系の寺では、坊さんがお祈りをする席の前に法具を置く壇があるが、その結界となる紐の支柱は欠けて、壇上にはゴミが散らかっている。とくに印象に残る仏像はなかったが、お堂内に塔があることが不思議だったので、帰りがけに件の坊さんに訊ねてみた。実は、東金堂にも同様に塔が収めてあったらしいという。なぜ、そうなったかというと、奈良時代の三金堂の伽藍形式では塔が東西の金堂の外側に配置されるはずだが、それだけの敷地がなかったために金堂の本尊の代わりに塔が収められたという。カメちゃんの説明にあったように、本来塔には仏舎利が収まるのだから、それを本尊にすることは、当時の感覚ではごく自然ではなかったかと、納得した。だから、あの五重小塔は模型ではなく、本当に塔のつもりで作ったものなのだ。

光明宗法華滅罪寺(法華寺)

あとで地図をみると、海竜王寺と南隣の春日神社、それに法華寺はほとんど地続きであるが、普通にゆくかぎり車道を辿って外周をおおまわりするしかない。法華寺は不比等の邸宅跡を、光明皇后が寺にしたもので、東大寺の総国分寺に対する尼寺のそれであるという。庭園は整然として手入れがよく行き届き清々しい。海竜王寺とは対照的だ。だか、そこまでだった。本堂に入ると妙に愛想のいい検札のオバサンがいて、堂内に解説の音声が流れている。本尊の光明皇后がモデルという白檀一木造の十一面観音像は秘仏で、隣に複製が置いてあるが、この観音の顔が光明皇后に似ているといわれても…………(10:27)。

奈良国立博物館

西大寺は興味がないので、善さんの発見した裏道を通って海竜王寺前のバス停へ戻り、そこからバスで奈良公園へ戻った(11:08)。西の京へ行ってみたいが、帰りのことを考えると時間の余裕がない。近場の奈良博で、お水取りをテーマにした特別展示があるので、これを今回の南都逍遥の最後にすることになった。奈良公園の中にある旧館から入る。中央のホールで「大和の仏達」の展示がある。西側から入って一番手前の左手に、頭上の飾りものがなくなってしまっている十一面観音立像(地福寺、奈良市北椿尾町)があった。塗料が剥げ落ちて木質が露わになり、ところどころに補填材が黒く付着している。しかし、なんともいえない優しさが放射していて好きになった。よい仏像だ。ここで単身赴任の法隆寺の多聞天にお目にかかる。このフロアー全体で、さまざまな仏像のタイプが紹介されていた。釈迦、薬師、阿弥陀、地蔵、弥勒、大日、明王、神将、天部、太子、神、狛犬、獅子。識別のポイントくらいは憶えたいが、はや頭がいっぱいである。

旧館の隣に中国古代青銅器の特別室があったので見てみた。大きな建物ではないが2階建ての新しい建物に、坂本五郎というコレクターの寄贈品を展示してある。だいぶ疲れてはいたが、青銅器は好きなのでざっと見てみる。こちらも爵、尊、鼎、鬲(れき)など見覚えのあるもののほかにも、様々な様式があって、またもや生体メモリがパンク。紀元前2000年まで遡る青銅器だから多様な発達をしたはずで、そう簡単に憶えられるものではない。昔から青銅器の表面を飾る饕餮文(とうてつもん、獣面紋)が好きである。子供の頃、正月の屠蘇は爵(名前は知らなかったが、銅でなく錫製で内側が金メッキの模造だと思う)から盃に注いで飲んでいた。屠蘇は不味いとおもったが、爵はきれいで面白い形だなあと思っていたので、そんな記憶が尾を引いているのかもしれない。

旧館を出て新館へ向かう。新旧館の連絡路は外部からも直接入れる独立した地下構造になっていて仏像の制作過程の展示や、書店、ミュジアムショップ、食堂などがある広大なスペースだ。後藤さんは昔からこうだというが、ぼくの記憶では連絡通路はただの通路だった。最初で最後にここへ来たのは仕事で西宮へ行っていたころで、もちろん新館もいまの新館ではないと思う(手帳を見ると1983年6月5日だった)。いまの新館と同時にこの地下施設ができたのだろう。外に出て食堂を探すのも億劫なので、ハーフタイムというそこの食堂で昼にした。ビールがあるからだれも異存はない。店の名物だという「中華菜(カーツァイ)」をビールのつまみに頼んでみた。お麩の揚げ物をあんかけにして、饅頭の外側のようなもので挟んで食べる。食べ応えのない妙な食い物だった。食べ物は最初から期待していないが、従業員の対応は合格。チャウの頼んだ椎茸麵は麵がダマになっていたそうで、それを勘定のときに係に告げたところ、責任者らしきが飛んできてその料金をまけてくれたそうだ。冨山さんの麵も同様だったのだが、さすがのチャウもそれ以上言い出せなかったそうである。

食後は、新館のお水取りの展示を見る。お水取りばかりに注目が集まるが、実際は修二会(しゅにえ)といって3月1日から15日間も行われる二月堂の法会の一部がお水取りなわけだ。その次第が写真で克明に説明され、さまざまな関係資料が展示されたていた。とくに嬉しかったのは、二月堂(昔からうちにあった脚の畳める黒塗の机で天板の周囲に朱色の筋が入っている)の由来がわかったこと。展示の一画にケースに入った机があり、修二会のときに修行僧が食事をとる机を「二月堂」というとあった。ただし、脚は折り畳み式ではなかった。昔から、なんであの机を二月堂というのか不思議で、多分、東大寺の二月堂と関係があるとは思っていたが、正しかったわけだ。奈良博終了(14:05)。

帰途

予定した時間より2時間ほど早いが、わざわざ時間をつぶす意味もないので、近鉄奈良(14:30)→難波→新大阪と乗り継いでひかりでのんびり帰ることにした。途中で降りるカメちゃん、冨山さん、後藤さんの降りたい駅すべてに止まるひかりはなく、かといってこだまでは悠長すぎる。そこで静岡、熱海、品川に停車する16:19のひかりに乗ることになった。新大阪で多少の仕入れをして乗車。冨山さんの読みは正解だった。京都までは空き席があったが、それ以降は静岡を過ぎるまで満席で立つ人もいた。われわれはのんびりといっぱいやりながら帰ることができた。いやいや、ナントも充実して楽しい南都逍遥でありました。


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