道草Web

佐久川喜多農場援農隊(デリカ終焉のこと)

梓編年

参加 冨山、後藤、大森、中村、亀村、橋元

2007年08月24日(金曜日) 雲の多い晴れ、猛暑

7時半過ぎに、テラノで大森氏、亀村ちゃんが到着。デリカに乗り換えて出発。このところ気になっていたデリカ後輪の雑音がしない。加重のせいだろうか。南浦和にはすでにみんないて、全員揃う。冨山、後藤、大森、亀村、中村、橋元。すぐに出発。戸田西ICから外環に入るが渋滞ぎみ。デリカの廃車の話しなどしながら、しばらく走行しているうちに時計の表示が暗いことに気づく。そのうちだんだんすべての計器の照明が暗くなってきて、同時に、エンジンの調子がおかしくなった。アクセルが思うように効かず、速度が下がってくる。左に寄って走行車線へ入るが、それでも流れのじゃまになるくらいの速度しかでない。さらに左に寄って、ハザードを着けながら路側帯を低速で走行。高速道を走るのは危険な状態に陥った。そのままエンジンが停止してしまうかと心配したが、まもなく和光ICの標識が見えたので外環を出ることにする。間の悪いことに出口は登り坂である。デリカはややもするとあえぐようにして止まりそうになる。だましだましなんとか一般道に出て路側に寄せて止めた。状況からして、これ以上通常走行は無理。大森氏にらくだ坂までテラノを取りに戻ってもらうことにし、カメちゃんも同道した。

JAFに電話をして救援を依頼する。50分ほどかかるというが、いやだからデリカを担いで帰るというわけにもいかず、頼む以外に手はない。手配が終わって、もう少し安全な場所へデリカを移動しようとしたが、キーを回してもうんともすんともいわない。デリカ終焉である。チャウにハンドルを持ってもらって、皆で押そうとしたがハンドルが動かない。エンジンが動いていないとハンドルがやたらに重くなってチャウの力ではまわらない。ぼくが代わってハンドルを取って、その状況下でもっとも安全そうな位置までデリカを動かした。

トラブルの原因は、四駆のランプが薄く点灯して、エンジンがおかしくなったので、てっきり四駆の駆動系だと思っていた。帰宅してから、このあとで出てくる中古車店の町会仲間に聞いたのだが、本当の原因は発電機がへたったためだった。発電機がいかれると、ガソリンエンジンの点火が不調になり、回転不安定から停止へ至る。なお、バッテリは健在なので、なぜ使われないのか不思議で調べてみた。結論は、バッテリはエンジン停止中の電源でエンジン始動が最大の役目、エンジンが始動したら電源は発電機に切り替わるということ。走行中に発電機がおかしくなっても、バッテリが交代することはない。例え交代しても、充電されないから長くはもたない。また、四駆のランプは、電源が怪しくなったので自動的にテストモードになり点灯したらしい。

やがてテラノが到着したが、JAFはしばらく到着しなかった。JAFが来たとしても、問題はデリカをどこへ搬送するかだ。家へ戻してもその先どうなる。動かない車以上のじゃまものはない。まだ8時台だったので、すでに廃車の手配を頼んであった町会仲間の経営する中古車店へ直接送れるか試すことにした。携帯の114で電話番号を調べ、店へ電話をしたがもう誰もでない。次に、仲間の自宅へ電話をすると、当人が出て、事情を了承し、店の駐車場は常時開放してあるので搬入してよいと了解を得た。

その間にようやくJAFの車載車が到着。降りてきた作業員は、あまり感じのよくない男で、JAF の下請けの工場からでも派遣されたのだろう。そういえば、JAFの窓口が現金で支払えるか聞いていたのは、そういうことらしい。彼は手慣れた手順でリモコンを操作しながらひとりで車載車にデリカを載せ終わった。中古車店の名前と電話番号を知らせて、搬送してもらおうとしたが、だれか同行してくれという。それでは、佐久へ行けなくなるではないか。とにかくデリカを下ろすときに立ち会う人がいないとダメだというのだ。要は即金で搬送料を支払って欲しいらしい。そこで、もう一度仲間の家に電話をして頼んでみると、こころよく立ち会いを引き受けてくれた。彼の自宅から店までは2キロほどである。やれ嬉やと、その旨作業員に告げると、今度はその店の住所が必要だという。店名、電話番号、およその場所は、手渡すべくメモしておいたが住所までは抜かった。もういちど、仲間に電話をしたが、もう家を出てしまって誰も出ない。彼の携帯の番号は知らない。はて、住所、住所……と思案をしていると、じれた作業員は、ここでは危ないので車載車を安全な場所へ移動するという。これで時間が稼げたので、さらに思案。ダメ元でもう一度114へ電話をして、この店の住所も教えてもらえるかと頼んだ。あっけないほどあっさりと、では番号のあとに住所をお知らせしますとの返事。通常は、機械音声のアナウンスだが、このときは案内嬢がみずから番号に続いて住所を教えてくれた。プライバシイ保護云々で危惧したのだが、考えたら住所は電話帳に載っているわけで、その情報は公開されているとみなすのだろう。

戻ってきた作業員に住所が分かったと告げると、手続きがあるので、車へ来てくれと言う。少し離れた側道に止めてある車まで行って助手席に座り、住所氏名を書類に記入し、JAF会員証の提示などをすませる。その間、作業員は、カーナビに住所を入力してルートを検索していた。なるほど、住所を要求するわけである。搬送代金は、5キロ以内はJAFの規定で無料だが、その先がキロ600円必要になる。この代金は仲間が立て替えておくといってくれたが、とりあえず作業員に現金1万円を渡し、釣り銭は立ち会い人に預けてくれるように頼んだ。

これで、なんとか解決。5人定員のテラノに6人が乗り、相当窮屈ではあったが旅を続けることができた。ロスした時間は、後藤さんの計測で、1時間50分ほど。佐久の西友で食料と酒を仕入れて、川喜多農場へ着いたのは12時半ころだったか。

いくら時間が遅くなっても、宴会の省略というオプションは梓にはない。とくに事件があると、なおさら盛り上がるものである。後藤さんも、冨山さんも、デリカが気息奄々となって最後の坂道を登る様は、まさに涙をさそうものであったなどと、話題にことかかない。普通、こんな事故があるとオーナーとしては気分が乗らないのかもしれないが、今回は、この旅行を最後に廃車と決めてあったわけだし、デリカの奴め最後に少しいやがらせで自己主張したかなどと、こちらも苦笑いの心境であった。そのうち、川喜多さんまで起き出してきて、3時過ぎまで楽しい宴会がつづいたことはいうまでもない。

2007年8月25日 (土曜日)快晴

朝霧が立ちこめていたが、やがて快晴になる。涼しくて快適。農作業は大森さんの報告があるので引用しよう。

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24日はデリカの壮絶な最期もあって現地到着が大幅に遅れ、恒例の小宴会が3:00に及んだため、 25日の午前中は作業なし。午睡の後、15:00から畑に出ました。 26日まで作業は残るだろうと思っていましたが、冨山、後藤の両長老をはじめ全員の驚異的な働きにより、17:30に完了。過去10年で例を見ない(川喜多農場長)ほどの、見事な仕上がりでした。その夜の宴会が大いに盛り上がったのは言うまでもありません。

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“その夜の宴会が大いに盛り上がった”のをちょっと補足させてもらうと、珍しく川喜多さんがテーブルの端に起立し、清楚な歌声を聞かせてくれた。それをきっかけに、冨山さんがプチ爆発の大音声を発し、大森氏が朗々たる声を聞かせ、昔の梓テント宴会を彷彿とさせる歌唱大会になったのである。

2007年8月26日 (日曜日) 晴れ

朝一番で川喜多さんが用意してくださったお茶とコーヒーを表のテラスで頂く。梓単独ではありえない上品な朝の行事である。今回知ったのだが、このあたりの農地は川喜多さんの親戚が開拓したのだそうで、周囲を森に囲まれたこの広大な丘陵地帯を切り開いた労力は、こちとら都会人には想像もつかない。しかし、今こうして朝のテラスから眺めれば、ゆったりとした傾斜で展開する耕作地の伸びやかな光景は、こちらの気持ちを限りなく豊かにしてくれる。しかし、すぐにカメちゃんがブクブクにしますか、シャワシャワにしますかと誘う。もちろんビールのことだ。異論のあろうわけがない。そのくせ、本日ドライバーのつもりなのでカメちゃんは一滴も口にしなかった。川喜多さんも同様である。せっかく川喜多さんの心遣いのお茶であるから、それだけは仕舞いまで頂いて、ビールに移行したのはいうまでもない。

大森氏報にもあったように、冨山さんと後藤さんが川喜多さんの車で、残り4人はテラノで帰途についた。テラノ組は、このまま残暑の東京へ戻るのも芸がないので、佐久周辺の名所をドライブすることにした。しばらくは、コスモス街道を目指すといっていた川喜多さんの車を追った。近頃、コスモス街道という名称は珍しくないようだが、この場合、国道254号の内山峠手前の上り坂沿道のこと。後藤さんの掲示にあったように、黒姫のスキー帰りによく通ったところだ。

園城寺、内山城趾やがて川喜多さんの車の姿は見失った。大森氏が中込近辺で、昔から気になっている寺があるというので街道沿いを探したが見つからなかった。正安寺という曹洞宗の寺はあったが、それではないという。この寺は諦めて、次に内山城趾を目指した。こちらは、街道北側(左手)に看板がありすぐに見つかった。手前に萩寺と呼ばれる照曜山園城寺がある。因みに園城寺とは、琵琶湖畔の三井寺の正式名称と同じだ。まずはこのお寺を拝観。萩寺の名の通り境内を埋め尽くすように萩が群生しているが、花期にはまだ早すぎた。ほかにもサクラ、アジサイ、サツキ、モミジなど見頃にはさぞかしを思わせる。いまが一番見所のない時期かもしれない。寺は街道北側の屈曲する山襞の奥へ入ったところにあり、高い位置にはあるが、境内中心部からの見晴らしはさほどよくない。偶然に境内から少し東に離れたトイレを借用したのだが、この男子トイレからの眺望が抜群である。山襞の下部に隠されていた街道が見え、さらに街道の向こうにある南側の山稜までが一望できる。トイレが最高の展望台とは皮肉である。

寺の参道を下った途中にある内山城趾の看板に従って、山腹を左(東)へしばらくトラバースすると、城趾への登り道にぶつかる。ここを左折して登り道をしばらく行くと、若い男女の二人連れが降りてきた。カメちゃんが声をかけて、上までどのくらいですかと訊ねると、10分か 15分だろうとの返事。彼らもごく軽装であったので、では登ってみるかという気になった。しかし、どっこい。結構、この登りにはしごかれた。林に守られているので直射日光には悩まされなかったが、たっぷり20分くらいはかかったのではないか。最初から分かっていれば決して登ろうとは思わなかっただろう。あの2人連れの風体から甘く見すぎたようだ。このあたり、東西に走る254号に沿って南側、北側に山並みが対峙しているが、この内山城趾は、北側の一帯で一番高いピークを占めている。大森氏も推測していたが、ここは、大井(内山)氏という岩村田に居城をもつ佐久の有力氏族の出城であったという。なお、街道を挟んで対面するように平賀城があり、この城とあわせて、街道の往来を監視する役割を持っていたようだ。最後は信玄の軍門にくだるものの、地の利を得て内山城は最後まで抵抗したようである。

本丸趾である山頂はちょっと開けた草地が広がっていて、城趾の表示と小さな祠があるだけだった。真夏とはいえ渡る風は心地よい。いろいろな蝶が飛んでくるので、カメちゃんは解説に忙しい。なかでも国蝶オオムラサキのメスにはカメちゃんの声もひときわ大きくなった。遠目で逆光なので、模様までは分からなかったが、オオムラサキ独特の太い頭部と翅の曲線が印象的だった。 数群の胡蝶空に乱れ飛び 雑色紛々たり花樹の中もとより弦管の響きによらず 無心にして処々春風に舞う嵯峨天皇(いくつもの珍しい蝶の群れが空に乱れ飛んで、花樹の間に様々な色がちりばめられたようだ もとより音楽に誘われて舞っているわけではなく ただ無心であちこち春風と戯れている) まあ春風でも花樹でもないが、そんな風情である。 頂上の少し手前から発破のような音が断続的に聞こえてきて、なんだろうと気にかかっていたが、あとで調べると近くに射撃場があった。人家は少ないとはいえ、周囲に相当影響があるのではないか。

内山牧場ドライバーのカメちゃんは、ミルクが飲みたいという。内山峠のトンネルの上には神津牧場と内山牧場がある。内山牧場は、以前、冨山さんの快気祝山行で荒船山に登ったときに幕営したところだ。日誌では、1997年10月10〜11日。参加は冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、池田、大森、田中、亀村、中村、橋元。10日に荒船山、11日に御座(おぐら)山に登っている。御座山は、小振りながら精悍な岩峰。ピリッと締まった登高。見事な紅葉。山頂直前の小屋裏で宴会。ビール6本、ワイン3本、日本酒4合がまたたくまに空く、とある。そのときは、佐久のそば屋でコイのアライで締めている。この思い出をたどって、内山牧場へ向かうことにした。現在では、内山牧場とは名ばかりで牧畜はいず、高原の遊歩場といった趣き。なだらかな山域に、山荘あら船を中心として、我々が泊まったオートキャンプ場、バンガロウ、人工湖などが展開している。とりあえずこのエリア最大の目玉であるコスモス園へ向かった。このあたりのピークの一つに位置する広大なコスモス園は、まだ花期を迎えておらず、コスモスの背丈も低く花をわずかに着けているのみだった。コスモス園の一角にある四阿で休憩して展望を楽しむ。なんといっても南に見える荒船山の独特な山容が印象的だ。あのときは、あの山稜を歩きながら、後藤さん、金谷さんと釈迦の話に及び、ゴータマ・シッダールタがどうのこうのと喋った覚えがあるが、はて何のことであったやら。また、途中の案内板に「艫岩へ」とあり、あれ“艫” の字なんて読むんだったかと考えていると、大森氏が“船尾に見立てて「ともいわ」か”(正確な文言ではない)といったのを憶えている。この山をクジラと見立てることもあるそうで、ならばマッコウクジラであろう。となると、前後が逆になり、艫岩は頭岩となるか。艫岩はわれらが休憩した場所である。

コスモス園は一巡するまでもないので、そのまま売店へ下って休息する。残念ながら、現在は牛がいないので、カメちゃんの飲みたかったミルクはない。ただ、神津牧場直送のソフトクリームがあったので、カメちゃんとチャウはそれにして、大森氏とぼくは選択肢のないアサヒビールとした。ただ、適度に乾燥していたせいか、いつもほどは抵抗なく飲むことができた。

帰りは旧道のくねくね道を下ったので、あやうく車酔いするところだったが、寸前に245号へ合流して事なきを得た。大森氏が群馬はうどんだというので、道ばたのうどん屋へ入る。時間は 3時を過ぎていたろうか。先客はなく、ぬるい冷房に空気はよどんでいる。そこへ木で鼻括ったような上州女が出てきて注文を取る。ここまでは、予想を外れない。カメちゃんには申し訳ないが、今回の〆の一杯。また選択の余地なくアサヒビール一本に、味噌田楽と手羽の明太詰め?というわけのわからないつまみをたのむ。ビールのあとは酒が二合。出てきた無地の白い徳利が、下ぶくれの菱形を回転させたような面白い形で、チョコも御神酒を注ぐような白の無地。お燗はめちゃくちゃ熱かったが酒は悪くない。それで収まるわけもなく、さらに二合追加すると、今度はまともなお燗。要は温度など気にしていないのだ。今時?とはおもったが、カモ南のようなうどんをたのんだ。うどんは別にザルに盛って、カモ南のつゆだけが鉢でつく。つけうどん風か。意外にも、つゆもうどんもまあまあ。梓データベースに登録するまでもないが、これならまた来てもいい。最後に勘定をすると、途中で交代した女性店員が1万なんぼなどといったとたんに大森カンピュータが作動して、それは計算が違うのではないかという。彼女性、すぐに計算し直して6千なんぼに修正。わたしだったら、だまって払ってしまうところであった。

帰途はカメちゃんに運転をまかせ白河夜船。大森氏の掲示にあったように、渋滞の大半も寝こけて、関越を出るころに目を覚まし、途中、新井宿でチャウを下ろして、19:00ごろ鳩ヶ谷到着。今回の援農山行、無事?終了でありました。

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