道草Web

ふじさわ山荘(飯盛山・美ヶ原)

梓編年

2007年10月20日 土曜日 晴れ

参加:冨山、後藤、鈴木、高橋、大森、中村、橋元

8時半に東京駅丸ビル前集合。前日まで悪天の予報だったが、青空の見える秋らしいお天気。デリカなきいま、東京駅へはじめて電車でゆく。地下鉄経由で東京駅へ着いたとき、金谷氏から携帯に連絡が入り、風邪がひどく不参加とのこと。たしかに、電話でもそれとわかる風邪声であった。車は大森氏のテラノと善さんのノートである。冨山さん、後藤さん、チャウ、それに一般道できた善さん、尚やんはすでに到着していたが、高速で来た大森氏が渋滞に巻き込まれ到着が30分ほど遅れる。先行する大森車には冨山、後藤、高橋。鈴木車には、チャウとぼくが乗る。

中央高速の渋滞は相模湖まででさしたることはなく、須玉ICで高速を降りる。以前はICの近くにスーパーがあったのだが、見あたらないようで、セブンイレブンで今日の昼食を仕入れる。もちろんビールとワインも。

小海線に併走する国道141号を経て、清里の駅近くで西へそれて飯盛山方面へ入る。清里を中心に、このあたりの変貌はすさまじい。ただ、その実態は“コメントは差し控えたい”ような内容である。清里駅に近づくにつれて急に賑やかになり、広い駐車場は車であふれている。富むものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなる。繁盛するところはますます繁盛し、零落するところはますます零落する。金融にしても情報にしても、自由化・流動化によって利用が容易になるほど、偏在は顕著になるようだ。有名観光地ばかりに人が集まるのは、その情報があまりに容易に入手できるからだろうか。

飯盛山に10回は登っているという尚やんの案内で登山口を目指した。2個所、登山口をチェックして、最終的には3つめの、尚やんの登ったことがないという、平沢峠からの登山口を選んだ。この峠には広い駐車場があり、標高こそたいしたことはないが、八ヶ岳連峰を北から南まで一望できる絶好の位置にある。やや風はあるが天気は申し分なく、視界はきわめて良好である。すでに時間は12時半を回っていたので、昼をすませてから飯盛山を目指すことになった。峠の北側に獅子岩という大きな溶岩塊があり、すでにブルーのトレーナーを着た学生が大勢、そこかしこに座って昼食をとっていた。われわれもその一角に陣取って、卵焼き、ブタスライスのサラダ、サンドイッチなどをワインとビールで流し込む。仕上げはオムスビ。

食後は、冨山画伯を残して他は飯盛山へ向かった。画伯は最近同窓会でここを訪れたが、思うようなスケッチができなかったので再挑戦するという。どうやらブルトレの学生たちも飯盛山へ先行したらしい。このルートは峠から尾根通しなので標高差はないが、北側の灌木帯の中にあるので、水たまりが多くじめじめしている。立木を通して、眼下に野辺山の電波天文台が見え、われわれの歩く尾根の天文台側には野辺山スキー場がある。天文台OBに冨山さんの同級生がいて、その人が幹事でこの近辺での同窓会になったという。後藤さんは、樹冠に覆われて道が暗く、ときおり差し込む日差しが眼鏡の内側に反射するので、とても歩きにくいとご不満である。飯盛山の手前に平沢山があるが、そこは巻いた。それとともに、登山道が南側に抜けて灌木帯もなくなり、明るい見通しのよい道となる。このあたり、山全体が牧場となっていて、登山コースは牧場の柵を出たり入ったりする。踏み荒らされて裸地となった登山道周辺には、植生回復のためにネットが敷かれていた。

飯盛山(1643m)には2時半ころ到着。すでに頂上にいた学生たちは、われわれが着くころに下山しはじめた。大森氏が訊いたところ大森十中の課外授業とのこと。大勢いるので喧しいのもいたが、全体に素直な様子の子供たちだった。子供たちのいなくなった静かな山頂で展望をほしいままにする。といっても、すでに平沢峠で八ッの全貌を見てしまっているので、新たな感激はない。下りは、善さんと大森氏に車を取りに行ってもらって、残りは尚やんの勧める別コースを降りた。こちらは明るくて広くて後藤さんも快適そうである。登山道周囲の明るい草原には、オヤマリンドウ、シロウマアサツキ(??)、ゴマナ、ヤクシソウ、オヤマボクチ、ボタンヅルなどが霜枯れた花や果穂を残し、1株だけだったがテンナンショウ属の派手な実が目立った。

2番目の候補であった登山口で車が待っていた。車は清里を抜けて八ヶ岳高原ラインで小淵沢ICへ出た。そこから高速に乗って、前回のふじさわ山荘と同じにコースをたどる。岡谷ICで下りて、国道142号(旧中山道)、ビーナスライン、アザレアライン(よもぎこば林道)を経由してふじさわ山荘へ。山荘着(17:15)。

まだ明るかったが5時を回っていたから、一風呂浴びるとすぐに夕食がはじまった。夕食後は食堂下のテーブルで歓談。例によって、“もうそろそろと”管理人がいってくるまで粘って、さらには、部屋へ戻って宴会はつづいた。今回は、冨山さんの怪しからんコールはなかったが、わいわいがやがやの楽しい宴会であったことは言うまでもない。

そうそう、サブプライム騒動も話題にあがった。酔眼ならぬ酔頭でなにを喋ったか、聞いたかさだかではない。しかしあの問題、先進の経済理論が背景にあって、それを根拠にできた金融商品が原因で大事に至ったのかと錯覚していた。が、全然、そんな高度なもんではないということがわかった。要するにリスクの高い(=金利の高い)融資を証券化して、市場に流通させ、それがある規模を越えれば、当然発生する確率の高い現象なのだ。ましてデリバティブで影響範囲は何倍にも拡大される。証券化でリスクは分散できても、ベースになる信用が失墜すれば、証券はただの紙切れである。なんでそんなことが、頭のよさそうな経済人に見えなかったのか。あるいは、それが見えていた本当に賢いやつは、とっくに食い逃げしていて、凡庸な金融機関と一般消費者だけが損をしたのか。どうも後者のような気がする。

帰って20日の朝日新聞を見たら、「ゲーデルの定理と金融」“サブプライムの本質は”“バブルが繰り返す必然”(小林慶一郎)とあったので、読んでみた。ゲーデルは“論理”(“数学”と言い換えてもいい)が不可避に包含する不完全性を証明した。それを、サブプライム問題における経済商品の不完全性に例えている。このぼんくら頭で、ゲーデルの定理が理解できているわけではないが、それにしても相当に見当違いな議論だと思う。前者は人知が証明した抜き差しならない真理である。しかし、金融商品の問題は“論理”ではなく、論理を適用した現実世界の“仕組み”の問題である。予見すれば制御することも避けることもできる。不完全なのは、仕組みのほうであって論理ではない。不完全性という用語は共通でも、その意味するところはまったく違う。

2007年10月21日 日曜日 快晴

善さんが朝風呂に行ったことは薄々気づいていたが、6時半ころに自然に目覚めた。数年に及ぶ早朝散歩が多少は覚醒リズムを変えているのか、最近は朝の目覚めが早い(すぐに歳のせいだというヤジが入りそうだが)。はじめて朝風呂なるものを経験してみた。ここの風呂が快適で気に入っているせいもあるが、顔を洗うより、風呂にどぶんとつかったほうが、すっきり目覚めるのではないかと思ったのだ。風呂場への通路は屋外になるが、そこからみると、庭の枯れ草には白く霜が降りていた。尚やんといっしょにでかけ、まさにどぶんで出てきたが、顔を洗うよりは確かに効果的であった。

7時半、宿の朝食のアナウンスと同時に食堂へ出る。広い窓から見ると、秋の透明な陽光が紅葉した周囲の木々を照らし出し、視野は清澄で明晰である。思考もこのようであればと、昨夜の酒の残ったどんよりした頭で思いつつ飲む今朝のビールは美味。ただし、ドライバーの善さんも大森氏も飲まないので、少し飲み過ぎたことは否めない。

9時前には山荘をあとにした。だれも歩いて登るとはいわず、すんなりと車で美ヶ原へ向かう。山荘は美ヶ原の直下にあるが、車道は延々と迂回して標高差500mほどを登る。山本小屋の駐車場着(9:15)。前回は満杯で駐車に苦労したが、今朝は時間が早いので簡単に止めることができた。しかし、この時間にすでに駐車スペースはおおかたうまっていた。最短距離の牛伏山に登ることにする。名前から想像はつくが、山というより牧場の一部が盛り上がった地ぶくれである。飯盛山と同じように美ヶ原も全体が牧場で、檻に入っているのは牛よりむしろ人間である。巨石の敷き詰められた人檻を登って展望台へ立つ。この展望は、長い登山経験のなかでも、初めてではないかと思われるほどの絶景だった。大空は紺碧。視界は透明。関東・甲信越の山という山がほとんど指呼できる。ここはくだくだ書くより、写真の出番である。わが携帯でも、試みに最高の解像度3.2Mで撮ってはみたが、しょせんこの程度のレンズの守備範囲ではない。よいスナップを期待しよう。東からざっというと、浅間山、菅平、白馬・鹿島槍、剣・立山、槍・穂高連峰、乗鞍岳、御岳、中央アルプス、南アルプス、富士山、八ヶ岳連峰、秩父連山などなどである。

牛伏山から美術館方面を迂回して駐車場へ戻った。あれだけの絶景を見てしまうと、もうこれ以上期待する観光スポットはない。次の目標は、小諸の藤舟で鰻の昼食と決まった。ぼくのFOMAはアンテナが立っているのに通じない。尚やんに藤舟の番号を伝えて、auで試すとつながった。11時半の予約を入れる。ビーナスラインを途中まで下りて、和田宿へ抜け142号へ合流する。途中11時半は間に合いそうにないと後藤さんから連絡が入り、予約を12時に直す。あとは、以前、川喜多農場から遊びに来たことのある笠取峠を通過、立科から国道40号へ入り千曲川へ。千曲川左岸に沿って、これも以前に梓で来た布引観音を通って小諸へ出た。この辺り、大森氏が熟知しているのだろうが、交通量の少ない山間の快適なルートだった。

勝手知ったる藤舟の駐車場に到着したのは11時半。予約をし直す必要もなかったわけだ。店にはいって、当然のごとく、予約したものですがといったが、そんな予約は受けていないという。満席ではなかったので、係のオバサンが機転を利かせて、一人でビールをやっていた男性に席を移ってもらい、ちょうどわれわれが入れる広さの座敷を空けてくれた。鰻にありつけるのはいいが、ではいったいどこへ予約の電話を入れたのか? 原因はぼくが言い間違ったか、尚やんが打ち間違ったかである。ぼくの携帯は、電話帳に各地の食堂を登録するとき、地名を頭に入れてある。この店は、“小諸藤舟”だ。再ダイヤルの記録を確認すると“小諸ふじやそば”となっていた。電話帳では一行違いだから、最初に指先がすべってふじやへかけていたことになる。前回、藤舟へ川喜多農場から行こうとしたときは携帯に登録した電話番号が1番違いでかからなかった。どうも、藤舟は向きが悪いのか。ふじやへは2度も電話をしているので、そのままでは義理が悪い。途中で事故があったと言い訳してキャンセルした。

キモ焼きや焼き鳥などを頼んで軽く一杯となったが、冨山さんがやけに静かである。拝見するところ顔色も優れない。昨日の酒が残っているところへ、美ヶ原からの下りの蛇行で、気分が悪くなったらしい。その状況は、ぼくは察するにあまりある。切実な体験からして、酒を飲むことをお勧めする。この場合、ビールはあまり勧められない。燗酒をゆるゆるとやるのが一番。酔いをもって酔いを制するである。これが覿面。たちまち顔色が戻り、鰻重を平らげるとともに、快活な会話が戻ったことはいうまでもない。

藤舟の駐車場をしばらく借りて、懐古園を散策する。後藤さんは見飽きたというので車に残って一寝入り。一方、冨山さんは、懐古園ははじめてだという。梓の前回の懐古園は、1999年10月11日。前日、戸隠の高妻山へ登って、その帰りだ。懐古園を散策してから藤舟へ。さらに、いまでは考えられないが、今回間違って電話したふじやへハシゴしてそばを食っている。

前回は混んでいた憶えがあるが、今回はさほど人出はなく、秋の明るい日差しに、紅葉した樹木があちこちに見られ、気持ちのいい散策だ。菊人形展も始まったばかりのようだった。おおむね右回りに城内を一周し、前回は気づかなかった動物園も見物した。なんてったって、ライオンの咆哮が遠くまで聞こえたのだから、行かざるを得ない。今回、大森氏にいわれてはじめて知ったが、懐古園の元となった城郭は、いま大河ドラマでやっている山本勘助らが築城したという。てっきり真田の城とばかり思っていた。あまりのんびりしても渋滞に巻き込まれるので、早めに切り上げて車へ戻る。

まだ3時台だというのにもうそろそろ渋滞が始まっていたが、ひどいのろのろというわけでもなく、5時前に南浦和に着いた。そこから冨山さんとチャウはJR。大森氏は一人でテラノ。善さんの車は、新井宿で後藤さんを、らくだ坂でぼくを降ろして、無事帰途についた。

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