道草Web

不動寺と黒瀧山

梓編年

2009年10月25日

参加 後藤、金谷、大森、中村、橋元

今年の川喜多農園のソバは不作で実りが少なく、参加者も多数だったので、梓が加勢するまでもなかったが、落ち穂拾いを徹底してトオミを何度も通す起死回生の回収作戦で収量30キロ超を達成した。まずまずの成果のようだ。

最終日は、朝食、掃除を済ませ、温顔、川喜多さんの見送りを受けて農園を出発(10時半ころ)。今日の行程は大森氏からいくつかの提案があったが、寺があり山もあるという南牧村の黒瀧山不動寺が選ばれた。寺からは1時間余の歩程で山頂に達するのがほどよい。

高速は使わず、黒姫通いで懐かしい内山峠を越えて下仁田に下り、下仁田駅をかすめて南牧川に沿ってUターンする。地図を見ると、不動寺へは中込→内山峠のほかに、中込からさらに南下して龍岡から田口峠を越えるルートがある。前者は荒船山の北を、後者は南を東行する。田口峠の方が自然なアクセスのようだが、地図では峠越えの道がおそろしく迂曲しているので時間的に(気分的にも?)は内山峠越えが正解かも知れない。

内山峠付近は雨模様だったので先行き不安だったが、下るにつれて雨は止んだ。しかし、下仁田からは後戻りすることになるので標高が回復するにつれて霧雨状態となった。不動寺へ近づくにつれて傾斜が増し、対向車とすれ違いできないほど道幅は狭い。間遠に待避所はあるが、ばったり行き当たってバックで曲がりくねった道を戻るのはゾッとしない。幸い下りの車と出遭うことなく不動寺の駐車場に着いた(11:28)。車は一台も止まっていない。車道は先に延びているが一般車は入れない。雨は、ときおり頬に触れる程度。傘をだすほどではない。

駐車場から車道をしばらく行くと旧道が分岐していたので、そちらをとった。相当な急登だが、車道のアスファルトより歩きよい。寺までの距離はさほどなく、旧道に入って行く手を仰ぎ見ると木立の間から寺らしき屋根がかいま見られる。それに、レストランのような建物もある。不動寺は黄檗宗、それなら普茶料理の淡い期待もあったが、日曜にわれわれだけしかいないようでは、それは無理というもの(予約すれば黄檗普茶が供されるという)。

旧道を登りきると、もとの車道の上部に出るが、そこからすぐに境内。境内といっても急峻な山腹に位置しているから奥行きはなく、岩壁のテラス状態の地形に、西(おそらく)から順に、鐘楼、宿坊、庫裏(レストランのように見えた建屋)があり、大杉のある短い参道を経て、三門(楼門)、禅堂、大雄寳殿が並び、さらに最奥の一段高所に開山堂がある。

不動寺という名前は禅宗らしくないが、あとで調べて納得。不動寺は、嵯峨天皇以来というから1200年以上の歴史があり、はじめは真言宗の寺だった。元禄時代に潮音禅師が黄檗宗として再興したが、寺号はそのまま残ったということらしい。禅堂のうしろに光背のようにそびえる広大な岩壁はしたたる水で黒ぐろと光り、その下部に細々とした滝を落としている。これが黒瀧の由来だろう。その滝に打たれて不動明王の立像があった。これなら歌舞伎十八番『鳴神』の舞台にそのまま使えそう。釈迦、普賢、文殊を祀る大雄寳殿には「潮音大学」の看板がかかり、現在でも、毎月、学者や研究者を呼んで講演会が開かれているという。もっとも、Webを眺めていると、この建物は子供たちに武道の道場としても開放されているようである。開山堂は、扉が開いていたので中へ入ることができた。ここには潮音禅師のほか、帰依した大名達の位牌もあるという。

こうして境内を一巡してみると、よくもこのような場所を見つけて寺を開いたものだと感心する。車で乗り付けてさえ、えらい山奥へ分け入ったと思うのに…。不動寺は山奥の禅寺としては理想的な立地である。碧空から垂れ込めたような岩壁の足下に、掌のように開けた平地があり、そこに伽藍が立ち並ぶ。さらに、黄檗宗以前には寺域を囲繞する岩峰(これからわれわれもその一部を辿る)を巡り、修験者の回峰行が営まれたことを思えば、なおさらである。元禄時代には末寺200余を数えたというが、いまはいささか寂寞として境内の整備もままならないように見受ける。お寺とすれば、参拝者の列、引きも切らずが理想だろうが、無責任な鑑賞者として、こうした寺は好きである。

良い寺に巡り会えて満足して元来た参道を戻ると、庫裏の横手で大森氏らが墨衣の坊さんと話している。ツヤのよい剃髪の頭、よく通る声、闊達な話し振り、このひとが当代の山主であろう。ひさびさに、お坊さんらしいお坊さんに出遭った気がした。登山道は宿坊と庫裏の間から始まるが、山主がその先の様子を詳しく説明してくれる。この辺りの山域全体を指して黒瀧山と呼び、これといって個別に名前のあるピークはないそうだ。最近クマが出たので“気をつけて”という山主の声を背に、われわれは山道を登り始めた。同行は、金谷、大森、中村、橋元の4名。後藤さんは車へ戻って休憩。

ものの10分も登ると林道と出会う。左が下底瀬、右が荒船山とある。まずは荒船方向へ数100m行くと路傍右手に“山頂”の矢印がある。林道をそれてわずかに登った頂きに小さな祠があって、その先は断崖絶壁。寺の堂宇は足元直下で見えないが、少し離れた場所にある東司(とうす、トイレ)の屋根が小さく見える。多分、この“山頂”は先ほどの黒瀧の上部になるはず。確かに山頂には違いないが、あまりにあっけない。いくら中古の山屋でも、これでは山登りにならない。

林道を下底瀬方面へ引き返して、さきの出会いから少しで、すぐに左へ岩尾根が派生している。この辺りの痩せ尾根は「馬の背」と呼ばれるらしい。これを辿るとがぜん山道らしくなる。この辺りは11月が紅葉の最盛期というが、木々の葉を見る限りすでに終わったかのように思える。夏が不順だったせいだろうか。海辺の常緑樹帯に住むものにはこれが今年初めての秋山。左手はるか下方に不動寺の境内を望みながらの急登。雨交じりの冷たい風が横様に吹き付ける。難しいルートではないが両側が切り立っているので高度感がある。いまでこそハシゴやクサリが完備しているが、往時の回峰行は困難を極めたろう。西上州の山は小粒だが味がある。

ハシゴ場いくつかをしのいだが、斜めに振れた鎖場へ至って金谷氏ギブアップ。そこに居残ることになり3名が前進。その先もハシゴ場に続くハシゴ場。極めつけの垂直に近い20mほどのハシゴが最後であとは緩やかな尾根道になる。すぐに最初のピークがあって、そこに風化して形状もおぼろげな高さ50cmほどの半跏思惟の石仏が坐す。少し先に、木立をすかして別のピークが見えたのでさらに歩き続けた。近づくと「見晴場」と案内があり、小さな岩峰が行く手を阻む。その岩棚に御嶽神社の名札が置かれ、岩の頂上部に小さな祠があった(これが観音岩?)。ここで今回の山行は打ち止め。行動食のゼリーやチョコを食べて完登?を祝う。周囲は煙霧に覆われて視界はまったくないが、晴れていればさぞかしの秋景であったろう。

見晴場には10分も居ずに下山したが、あのクサリ場に金谷氏の姿はなかった。それは予想のうち。寒がり屋の彼が、吹きさらしの痩せ尾根に止まれるわけもない。案の定、途中の岩の上に観光パンフが置かれ、“車に撤退”のメモが残されていた。

援農の帰路、ついでに寄った寺と山といっては気の毒だが、どちらもなかなか楽しかった。車に戻ったのは2時少し前か。あとは空腹を満たすのみ。この辺りで店を漁ってもせんないこと。大森氏の提案で、いつかのうどん屋へ。デリカ最期のご奉公(2007年8月24日)が外環の途中で挫折し、大森氏が鳩ヶ谷まで取りに戻ったテラノへ全員乗り換えて川喜多農場まで行った援農の帰り、園城寺から内山牧場を経て寄った、無難なうどん屋である。忘れていたがここはビールがアサヒ。やむなく、麦汁はパスして米汁で今回の行程の〆とする。酒も食事も前回の紀行文にあるように“梓データベースに登録するまでもないが、これならまた来てもいい”の評価そのままであった。ハンドルを握る大森氏には申し訳ないが、あとは白川夜船。一番の渋滞が抜けたころに目が覚めると、以後はほどほどの混み具合。外環へ入って美女木JCTを通過し、首都高川口線から飛鳥山トンネル、山手トンネルを見物するというおまけはついたが、意外に早く都心へ戻った。霞ヶ関ICを出て桜田通りの地下鉄駅で後藤、金谷両氏を下ろし、東京駅へ着いたのは6時半ころだったか。改札でチャウを見送り、まだ時間があったので、ハナマサで食品の買い出しをして、7時20分の高速バスへ乗った。

山行?から鹿嶋へ戻るのは今回がはじめて。東京駅から高速バスへ乗り継いで鹿島神宮まで2時間。鹿島神宮から鹿島臨海鉄道に乗り換えて20分。といっても、ダイヤは1時間に一本しかないから、鹿島神宮駅でさらに40分時間を潰して最終9時59分に乗車。東京駅で8時を過ぎると鹿島神宮最終便に間に合わない。そうなれば徒歩1時間半を覚悟していたので、これでも上々の首尾であった。

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