道草Web

梓ひだまり 那須、白河、白水

梓編年

2009年12月12〜13日

参加 冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、大森、中村、田中、橋元、(客員谷内)

今年の日だまりは、那須の貸しロッジに宿泊し、那須連山南部の南月山を計画していたが、予報ほど天気に恵まれず、結局、山行は取りやめになった。簡単に行程を記録しておく。車にあわせて3グループに分かれ、そのまま行動した。大森車(大森、鈴木、高橋、橋元)、田中車(田中、冨山、中村)、谷内車(谷内、後藤、金谷)。大森車は友部で9時半ころに橋元を拾い、北関東道から東北道へ。大谷PAには2車がすでに到着していた。

白河の関

大谷から北上し、いったん那須を通過して白河ICから白河の関へ向かう。今回は、全車カーナビを装備しているので細かくルートを打ち合わせる必要もない。曲がり角、交通注意カ所など詳細に合成音声のアナウンスがある。それを聞いていると、相当、精度は高いようである。混雑や気象情況などリアルタイムの情報も含まれるので、VICSという交通情報システムに接続しているのだろう。

白河の関跡は、田圃の中の小さな丘の麓にあった。周囲は関連の開発で観光スポットの体裁をなしているが、それがなければ通り過ぎても気付くまい。芭蕉→奥の細道→白河の関の連想で名前を知っているくらいだが、解説版によると歴史は古い。これもまた、意次→定信と連想する松平定信が調査する(1800年頃)まで、関所跡の位置さえ判然としなかったという。江戸時代の関所ではなく、7〜8世紀、まだ東北が蝦夷の勢力圏であったころの最前線の防衛拠点だ。蛇足だが、定信の墓所は梓の深川散歩(2000年1月29日)で訪ねている。

定信の建てたという『古關蹟』の石碑の脇から参道がのびていて、丘の上に白河神社がある。『由緒』には式内社とあるが、この日本語なかなか難解? 大相撲の二所ノ関の由来など書いてあり、境内に土俵の跡もあるのでもっともらしいが、どうもよくわからない。文言明晰にして意味不明。拝殿の南側に空堀とそれを巡る土塁の跡がある。神域全体は鬱蒼とした杜の中だが、落葉高木が散在しているので、冬枯れて光りを通す。その落葉が敷き詰められた土塁の散歩はなかなか楽しい。なかでもすっかり葉を落とした大木が何本か目を引く。その周囲にミズナラ様の形状でカシワのような大きさの落葉が降り積もっていた。つまりこれはナラガシワかと類推してあとで調べたが正解だった。それと樹齢800年という『従二位の杉』は圧巻。二本の杉が合体したようにも見えるが、日当たりの良い丘の縁にあって、これからも長い寿(樹)命を全うするだろう。

白河(小峰)城跡

那須へ戻る途中、南湖公園近くのそば屋で昼食。そのあと、JR白河駅の近くにある小峰城に寄った。阿武隈川はこの辺りで北にふくらみながら西から東へ流れている。その南岸の丘陵地帯に城郭は築かれている。遠望すると、再現された三重櫓(本丸?)は、定規を当てて青空から切り取ったように整然とあるが、置かれただけの積み木のように存在が希薄である。三重櫓の上まで登れるようだが、見張り番のようなオバサン達がいたので中には入らなかった。人一倍好奇心の旺盛なチャウと金谷氏は登ったようである。白河IC近くのジャスコで宴会の食材を仕入れて那須へ向かう。

ログハウス『ナラ』

今宵の宿は、後藤さんのリサーチで見つかった別荘風貸しロッジ『ナラ』。那須山麓、那珂川右岸の雑木林の中の一軒家である。周辺一帯が分譲別荘地で、当初から宿泊目的で建てられたのか、使われなくなった別荘を買い取ったかさだかではないが、いわゆるログハウスである。周囲に建物はあるが、十分離れているのでいくら騒いでも支障はなさそう。室内照明が暗いが、どうせ飲んでいるうちに外が暗くなれば気にもなるまい。

宴会は、恒例によって大森氏の刺身から始まり、後藤さんのサラダ、チャウのショッツルなどが続き、後藤さんのスパで〆となる。明るいうちから始まった宴会は、当初盛り上がらなかったが、日も暮れるに及んで本来の勢いを取り戻した。余ると思われた酒類、すなわち日本酒2本、ワイン4本、ビール・ロング18カン、泡小6カン、金谷氏差し入れのワイン1本、JWグリーンラベル、尚やんの個人装備ウイスキーなど、ビール以外は飲み干して、日付の変わるころに、無事終了した。

白水阿弥陀堂

13日は予報が外れ、日だまりには相応しくない天気。雲が立ちこめて風が強い。宿の高窓からみる枯れ木立が頂きをゆさゆさと振ってゴーゴー鳴っている。山行はすんなり中止と決まった。今日の“どこ行く?”は、大森氏の発案で白水阿弥陀堂と決まった。以前、町会の旅行で行ったことがあるが、まだ寺社建築にそれほど興味も知識もなかったころで、かねがねもう一度観てみたいと思っていた。平安末期の木造建築をそのまま残す国宝である。

→下山眞司氏「建築をめぐる話・・・・・つくることの原点を考える 」 記事1記事2

那須ICへ戻ってまた東北道を北上し、郡山JTで磐越道へ。磐越道を東へ走って阿武隈山地を越える。途中に小野町があり、道路脇に小野小町らしきピクトグラムが立っている。米のブランドは秋田小町だし、能の卒塔婆小町にも出羽の国の郡司の娘とあるので、てっきり秋田とばかり思っていたが、伝説の美女の自称「故郷」はいくつもあるのだろう。いわきJTから常磐道を北上し、いわき中央で高速を下りて白水へ至る。

小さな橋を越えて寺域にはいると、一直線に延びた参道の遙か正面に宝形造りの屋根が見える。数百メートル手前の駐車場に車を止めて、あとは参道を歩く。参道の右側に広い芝生公園を見て、朱塗りの橋を渡って境内へ。もちろん有料。チャウが全員分の支払いを済ませるのを待って中へ入る。阿弥陀堂の周囲に池を巡らせ、背後にさほど標高のない経塚山が横たわる。近くまで人家が迫っているようだが、ここまで来ると視界には入らない。浄土式庭園の典型的な風景が、当時のままに再現されているようで心地よい。

木立の緑を背景に、宝形造りの柿葺きのなす水平な線を、緑青を吹いた下り棟の曲線が限っている。そのどっしりした屋根を、漆を掃いたような焦げ茶の板壁が支える。創建当時は色鮮やかな彩色に塗り込められていたはずのお堂だが、われわれにとっては現在の姿が好ましい。

古建築に興味があると、どうしても軒下が気に掛かる。とくに斗栱(ときょう)の出組(でぐみ)や垂木(たるき)の構成に目が向く。詳細は、記事1、2にまかせるにして、二軒(ふたのき:二段構成の垂木)の上段(飛檐垂木-ひえんだるき)の曲線の柔らかく優しいこと、その印象は下山氏の「非常に繊細で優美、洗練された穏やかな形」の表現につきる。

堂内に入ると、中央に阿弥陀三尊と、左右に四天王のうち持国、多聞の二天のみが安置されている。以前、来たときに訊ねてみたが、なぜ二体だけなのか今となってはわからないという。拝観者が少しまとまったところで、お坊さんの解説がある。仏像はおくにしても、「折り上げ小組格(ごう)天井」と呼ばれる天井の構成は撮ってみたかったが、お堂の内部は撮影禁止。かつては極彩色に荘厳されていたであろう天井、欄間、周囲の壁面はくすんだ茶色に静まっている。黒く沈潜する阿弥陀像と対比的に、その左右で、伎楽面酔胡王もどきの表情で袖を躍動させる四天王二体が印象的だった。

勿来の関

意味もなく高くて不味いレストランで遅めの昼食を済ませ、今回の日だまりは解散となった。なんだか、これでお別れは物足りない感じもしたが、3台分乗となればやむをえない。われわれ大森車は、高速へは戻らずに、そのまま6号を南下して、途中、勿来の関に寄った。今回は白河に次いで勿来、これで安宅をおさえれば、“関ずくし”も極まるが、あちらは日本海、そうもいかない。海岸沿いの6号から右折して常磐線のガードをくぐり、急な坂を登ると、ミニチュア寝殿造りの『吹風殿(すいふうでん)』や文学歴史館、土産物屋などのある一画に辿り着いた。この辺りだろうと、吹風殿の前の駐車場に車を入れた。以前、訪ねたことのある大森氏もあまりに変わりすぎてわからなという。

とりあえず、吹風殿を一巡し、周囲を見わたすと、“関所跡はこの先300m”の看板がある。車を置いてしばらく下ると、義家の騎馬像と『奥州勿來關趾』の大きな石碑があった。白河の関のように地形的な特徴が残っているわけではなく、いまでもその所在は諸説あるらしい。われわれは車道を歩いてきたが、石碑から稜線通の松並木を文学歴史館まで戻ることができる。帰り道の左右には、茂吉など多くの句碑が並んでいた。文学歴史館は覗かなかった。

6号へ戻ってしばらくそのまま南下し、常磐道が海岸へ寄ってきたところで、常磐道へ移った。水戸の周辺で落としてもらうつもりだったが、時刻からしてこれから先は大渋滞するという大森氏の判断で、北関東道を水戸南ICで下り(間違って水戸南といったが、水戸大洗ICで下りるのが正解)、大野のわが家まで送ってもらった。思わぬ幸運に、3Q、3Qである。大野から北浦大橋を渡って佐原へ抜け、利根川沿いに我孫子へ戻る道が快適だそうである。

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