道草Web

薩埵峠と朝日茶業静岡工場見学

梓編年

2010年4月10日 土曜日

冨山、後藤、金谷、高橋、中村、亀村、橋元

東海道沿線の景色には、満開をやや過ぎたがまだ十分見応えのあるサクラ並木が散見された。小田原を過ぎるころには昔の面影を残した駅が多くなるが、こうした駅舎や古い学校にはなぜかサクラがよく似合う。この取り合わせは、われわれの世代の幼児期の原風景に擦り込まれているのだろうか。平日と土日のダイヤの違いで多少の混乱はあったが携帯で連絡をとりあって予定通り11時前に由比駅で元気なカメちゃんの顔を見ることができた。

宿願の薩埵峠である。前回(2007年11月の日だまり山行)は、清見寺までは訪ねたものの、そこで転進して由比港の昼宴会で終わりになっている。カメ邸ベースの集まりは、静岡という土地の磁場が弱いせいか、仙台のときのようにチャンスが多くない。今回は、冨山さんの呼びかけで実現へ至ったが、大森氏と善さんが参加できなかった。雨こそ降らなかったが、天気予報は芳しくなく、車中からも富士山方面は雲に覆われて薩埵峠の眺望は諦めざるをえない。

駅前の旧東海道を静岡方向へ歩き出す。冨山さんは体調を考慮してタクシーで先行する。今回の昼のプチ宴会は、カメちゃんに準備をお願いしてある。駅前での話では、食料とワインは十分買い込んであるが、ビールがまだだとのこと。ネットの調査では途中に酒屋があるから、そこで仕入れる予定だという。それを聞いて、一瞬、不安が心をよぎる。ネット情報は便利だが信頼性は低い。この手の調査では、ターゲットが定まれば、実際に連絡して現状を確認しない限り安心できない。

東海道のこのあたりは、南アルプスの末端が海まで押し寄せてきている難所だから、海と山のわずかな隙間に旧東海道、JR東海道線、国道1号バイパス、東名高速がひしめいている。わずかながら往時の雰囲気を残した旧東海道の町並みを縫って進むが、海側からは終始、車両の発する騒音がわき起こってくる。道路に台を出し、夏みかんなどを売っている家が何軒かあるが、店らしいものはほとんどない。どうやらカメちゃんの意中の店もとうに店じまいした様子だ。行きがかりの地元の人にコンビニの所在を訊ねてみたが、駅からこちらには酒屋も含めて、ないということだ。

途中、ただ一軒、繁盛している食堂があって、そこでビールを譲ってくれるかカメちゃんが訊ねたのだが、客に出す分が足りるどうかの情況なのでと断られた。昔なら駅まで戻って探せということになるが、流石に最近はそこまでの勢いはない。ビールにはこだわりの後藤さんも、あっさりと、それならそれでと諦めることになった。

旧街道がミカン畑の中を急登するようになると、舗装してはあるが車一台がやっとの道になる。しかし、農作業用の通路程度の道に乗り入れてくる車が結構多くて鬱陶しい。薩埵峠は国道の脇にでもあって、他からアクセスする車路があると思いこんでいたが、どうやら違うらしい。タクシーに出会うに至って、やっとそのことに気付いた。われわれが歩いているのと同じ道を使って車も薩埵峠へ向かうのだ。冨山さんのタクシーもこの道を登ったことになる。山側からの車道もあるにはあるのだが、地図には出ているかいないか程度のもので、観光道路ではなかった。

急登で高度を上げていると、後ろから歓声がする。振り返れば、木立を通して真っ白な富士山の巨体を望むことができた。列車中の空模様からして、富士山を望むことは想定になかったが、このころには空の大半を覆っていた雲は消え、頭上には青空が広がっていた。諦めていた薩埵峠最大の眼目が意外にもあっさり実現した。

山部赤人の“田子の浦ゆ…”はあまりに有名だが、あれは返歌で、本歌は“天地の別れしときゆ…”と始まる。このなかに次の個所がある。

…振りさけ見れば 渡る日の 影も隠らい 照る月の 光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける…

散歩のときの愛唱句の一つで、日、月、雲、雪という自然の万象を背景に、富士山の存在感をきわ立たせて見事だ。音読してみると、このくらい調子よくリズムに乗って流れる日本語はないように思う。内容を考えると、意味的な繋がりと音韻的な繋がりが、半分ずれて重複している。こんなにトリッキーなことが意図的にできるのか、あるいは自然に彼の想中に湧きだしたのか? 驚くほかない。おっと、脱線した。

ほぼ登りも終わる頃に薩埵峠の石標があるが、その場所から富士山は見えない。その少し先に山側へ通じる分岐があり、さらに先に駐車場とトイレが見える。結構な数の車が止まっていて、観光客の数も多い。そう広くはない場所なので、ちょっと梓の昼飯向きではない。分岐から反転して由比側へ登る道があったので、様子を見に行ってみた。チャウとカメちゃんも上がってきて、ミカン畑の脇にまあまあなスペースを見つけたが、どうやらこれはぼくの早とちり。薩埵峠からまたもと来た道を戻るものとばかり思っていたが、コースは興津方面へ抜けていて(旧街道なのだから当然だ)、この先にもっといい場所があるという。

駐車場へ先着してすでに一枚スケッチを済ませていた冨山さんと合流して、さらに先に進むことにした。駐車場の先へは車が入れず、コースもハイキング向きに整備され、亭や休憩設備が多くなってきた。高低差もあまりなく山襞を縫うように進む道は遙か先まで見通すことができる。数百メートル前方、右から流れ下る稜線の突き出したところに、源平桃の紅白がやけに目立つ場所があって、もっとも富士山の眺めがよいらしい。時分のせいか、すれ違うハイカーの数がぐんぐん増えてきた。カメちゃんが、このコースは興津から由比へ抜けるのが順当だと言っていたが、考えれば当たり前。興津→由比と辿れば富士山を終始前方に捉えることになるが、由比→興津だと振り返らないと見えない。

われわれの最大の目的は昼の宴会だから、場所探しが重要である。ほどほど進んだところで、山側に適当な草地があったので、とりあえずザックを下ろした。カメちゃんはもっと先にもっといい場所があるはずだというので、後続との連絡をチャウに頼んで二人で下見にでかけた。ひっきりなしにやってくる老若男女ならぬ老々男女をかきわけて、源平桃の先まで行くと、山手へ分岐する小道があり、それを登った行き止まりが小さな広場になっている。これ以上望むべくもない絶好の宴会ポイントである。旅慣れた出で立ちの単独行がすでにいたので、仲間を呼んでここで宴会を開きたいのだがと予告すると、もうじき退去しますからと愛想よく応えてくれた。

引き返して後続と合流し、急ぎとって返す。先ほどの人がまだ残っていたので、カメちゃんが挨拶をすると、その人、立ち上がって去りぎわに、驚くような話をした。もう半年くらいも徒歩で日本の沿岸を辿っているという。子細は忘れたが、広島辺りから出発し時計回りに日本海側を通って青森へ至り、そこから南下して、いまここに居るのだという。その間、使った交通費は1800円?であったとか。別にブルーシートの住人というわけではなく、こざっぱりした身なりで、宿泊は普通に宿をとっているという。どうも、その話がしたくて居残っていたらしいが、気持ちはよくわかる。

快適な宴会場にみなご満悦だ。諦めていたビールも、手提げ袋から忽然と登場。しかも、キリンのハートランドという小瓶が7本である。マジシャンのごときカメちゃんが、途中のうどん屋で調達していた。最初の一軒で諦めなかったのだ。天気にしても、宴会場にしても、ビールにしても、すべて大方の予想に反してよい方向へ外れた。カメちゃんが用意してくれたのは、ワインはパックものだが白が2本(容量は合計でビン5本分くらいある)、摘みはハム2種類にサラミ、フランスパン2種類、カマンベールチーズ2箱、サラダ類と締めのお結び。それに金谷氏差し入れ恒例の赤ワイン、カルメンもある。白のシャルドネはパックとは思えない本格的なものだったし、バケットやカンパーニュもなかなかよかった。これだけ条件が揃って、盛り上がらない訳がない。ぞろぞろ続くハイカー達はみな眼下を通過してゆく。ときたま登ってくる物好きもいるが、行き止まりに飲んべえがたむろしているので、そうそうに引き上げる。しばし、天空の宴会が続いた。

プチ宴会が終わったころには、眼下に列を成していたハイカーの姿もまれになった。前途は下りだけ。ほろ酔い集団でも苦にならない。途中、偶然に出会った、宗像神社を一巡して興津駅を目指す。先頭を歩いていたわれわれが駅に到着すると同時に静岡方面への列車も到着。どうにか間に合いそうだというので、車内へ駆け込む。乗客にはもうしわけないが、全員揃うまでドアを押さえていた。しかし、車掌さんが気を利かせてくれたのだろう、最後の冨山さんが乗り込むまで、実際に閉められることはなかった。

今回2番目のテーマは、カメちゃんお勧めの静岡の飲み屋である。掲示には4軒紹介されていたが、酔っぱらいが歩いて行けるということで、駅近くの『多可能』に決まった。にわかジモティの迷走気味の先達に従って、最短路なら再会したかどうか知れぬ懐かしのトンカツ『蝶屋』や、かすかに憶えのある『浮月楼』の前を通って目的の店へたどり着いた。多可能は見るからに梓好みの古びた飲み屋であった。時間も早かったのでまだすいている。比較的広い店で、右手一面にカウンターと、その奥に調理場があって、左手が二間の座敷になっている。われわれが座ったのは奥の床の間の前で、ややくたびれているが、華々しい生け花が飾られていた。肉食系の金谷氏がもつ焼きをたのんでいたが、あとは刺身の盛り合わせなどで軽く一杯。もうすでにプチ宴会で相当できあがっているので、さして飲むも食べもしなかったが、居酒屋の店主の愛想のいいあしらいに気分よく店を出た。

バスでカメ邸へ向かい、カメちゃんお勧めのウサギ屋で手羽の唐揚げを仕込み、本日〆の宴会である。往時の勢いこそないが、談論風発。底知れない冨山さんの読書量や視線の定まった金谷氏の社会批評に、今回はめずらしく尚やんの政党論まで参加し、ノンポリ無学のOJはひたすら拝聴し、ときにつまらぬコメントをするのみであった。もてあますかに思えた時間は人生同様またたくまに過ぎてゆく。一人去り、二人去りして、金谷氏、尚やん、OJの三人が生き残り、1時を回るまで話は続いた。

2010年4月11日 日曜日

6時起床。昨夜は酔いに任せていろいろな案が出たが、今日はとにかくカメちゃんの工場を見学することで意見が一決した。炊きたてのご飯に生卵という簡素かつ本質的な日本の朝食をすませてカメ邸をあとにする。15分ほど歩いて、お茶屋の工場が何軒も隣接する北番町へ至る。そのなかでも朝日茶業の4階建ての社屋はひときわ大きい。日曜だから休みでだれもいないが、すべてのカギはカメちゃんの手中にある。門扉を開いて社屋入口の警備アラームを解除し、無人の屋内へ入る。まずは下足の置き場の説明が始まった辺りで、のんびりした日頃の彼の顔つきが変わり目に鋭い光が宿る。“拝見所”という原料茶の受け入れ場所で見学用の白衣に着替え、メッシュのキャップを被る。ニュースなどで見たことはあるが、いざ自分が着てみるとさぞ珍妙な姿であろう。同年の尚やんの姿を見てそう思った。見学の開始に先だって注意事項の説明がある。とにかく食品工場であるから、衛生には厳格な注意が払われている。すでにカメちゃんの表情には、うっかり冗談も言えない威厳が漂う。それはそうであろう。自分が最高責任を持つ現場で、自分の案内した仲間が原因でわずかの手抜かりでもあれば、40余人という従業員全体への示しがつかなくなる。

建物の密集する立地では敷地面積が取れないから、4階建ての工場は垂直な構成にならざるを得ないが、製品の流れを交差させないという基本コンセプトですべてがレイアウトされているそうだ。われわれは製品の加工される流れに沿って、まず大型エレベーターで3階に上がり、そこから零下15度の恒温保管室や、茶葉の成形処理、トオミや静電気を利用したゴミの除去処理、予熱からマイクロ波加熱(火入れ)工程、最終製品のバルク梱包や小売用袋詰めなど工程を追って懇切な説明を受けた。各作業エリアの間には手洗い所やシャワールーム、あるいはその両方が設けられ、食品以外の雑物や雑菌が混入しないように厳しいバリヤが張られている。カメちゃんの話では、1日工場で過ごすと10回くらいはシャワーや手洗いの洗礼を受けることになるという。緑茶の工程が終わると4階へ上がりなおし、別ラインになっている焙じ茶やウーロン茶の工程の説明で工場見学は終わった。最後は、拝見所で朝日茶業接客用のお茶の接待を受けた。せっかくのお茶もお湯の温度が高すぎるなどと注文が出て、うるさい見学者であった。

後藤さんの希望で、工場の近くのワサビ漬け屋に寄ったあと二手に分かれ、冨山、後藤、金谷はカメ邸へ戻り、高橋、中村、亀村、OJは浅間神社向かった。われわれは神社から賤機山の尾根を散歩して帰る予定である。浅間神社は前回も訪ねている。この神社の造りは、よい趣味とは思えないが、おもいっきり手が込んでいて再見に値する。赤鳥居の参道から神域に入って、以前と同様に境内南側から大歳御祖(おおとしみおや)神社、八千戈神社、宝物庫、拝殿、舞殿、小彦名神社などの順に一巡する。少彦名神社の前は、ちょうど弓道大会が開かれていて、白い弓道着に黒い袴を着けた老若男女(こちらは文字通り)で混み合っていた。

拝殿の千鳥破風や舞殿の唐破風など、各所を指さしながら写真を撮っているわれわれを、ボランティアのガイドが呼び止めた。やや長身の女性で60代後半であろうか。熱心に写真を撮っているようなので、本殿がよく見える場所があるから案内するという。恐らく神社の構造などまるで知らないと見られたのであろう。話し方に嫌みがなく好感が持てたので彼女に従った。弓道大会の参加者の間をすり抜けるようにして、拝殿の裏手へ導かれた。以前も同じ場所まで来ていると思うが、今回は人混みに隔てられて、わざわざ案内がなければ入る雰囲気ではなかった。本殿は拝殿の背後の、別の垣根に囲まれた10mほど高い段上にあり、コノハナサクヤとオオナムチ(大国)を対等に祀った相殿になっている。垣根に隔てられて本殿の近くへは寄れない。われわれの位置からは、本殿の前面のサクラの大木が邪魔で、葉の落ちている時期でないと写真には撮りにくい。ガイド嬢?も予想外に本殿が見通せないのを気の毒に思ってか、しきりにいいわけをする。考えていることがそのまま口に出てしまう素直な性格と見えた。拝殿へ戻る前に、われわれは賤機山へ登ることを伝え、礼を言って別れた。

…つもりだったのだが、拝殿の境内まで追いかけてきて、またまた舞殿や楼門の解説を始める。小学生が憶えたてのことを、話したくてしかたがない、といった風情である。結局、われわれが登るつもりの女坂まで追いかけてきて、話は続いた。つまり、境内の端から端までつきまとわれたことになる。最後に、自分の家が市内唯一の茶を選別する篩いを製作しているとう話から、カメちゃんが北番町の茶屋であること話すと、彼女も北番町の住人だという。どこのお茶屋だという問いに、朝日茶業であり、そこの工場長だとこちらが明かすと、ここで間髪を入れず、“朝日茶業は嫌い”と叫ぶ。なんという素直な反応。そして、女坂の脇に置いてあった自転車に乗って、“嫌い、わかるでしょ”と捨て台詞を残して、走り去ったのである(カメちゃんの推察では、ちょうど昼時で帰宅するのと同じ方向だったので、ついてきたのだろうという)。カメちゃんにすれば、朝日茶業が北番町に開業して40数年、いまだ地元の人々にわだかまる違和感を如実に知らされた思いだったろう。それにしても不思議な女性であった。ずけずけものを言って去ったのに、さして不快な印象が残らなかった。

ガイド騒動が一段落して、女坂を登り出す。カメちゃんとしは、以前登った男坂とは別のコースを案内するつもりだったのだが、すぐに古墳があったので、これは以前に通った道だと気付いた。最初にカメ邸へ来たときに男坂を登って賤機山を縱走するつもりのところ、途中で雨になり、下りに使った道であった。春の息吹を見せる縦走路を満喫し、B29空襲の慰霊碑と観音像のある広場まで歩いた。そこから、2回目のカメ邸ベースで登路に使った路を下る。急降下が終わって、車道に出ると、しばらく桜並木が続く。道路脇の孟宗竹の林にさやさやと風が吹き渡ると、それに誘われるようにサクラの花びらが舞い散る。短い散歩の終幕に相応しい光景だった。

昼はカメ邸のすぐ近くのそば屋にすることは示し合わせてあった。日曜は営業しているか不明だったので、まず現地を確認して、カメ邸にいる冨山さん達を呼んだ。そば屋といっても、うどん、中華、ご飯もの、なんでもありの、どこにでもある食堂。食事メニューだけで、酒の摘みに類するものはない。ほとんど期待はなく、カツ丼用のトンカツと天丼用の天ぷらを摘みに取った。しかし、出てきたトンカツが出色。新丸子の福屋も真っ青である。皮は薄くてぱりぱりタイプだが、肉は厚みがあってうま味十分。近頃の傾向で脂の薄いのが物足りないが、トンカツ専門店でも滅多いない上物。わたしなどは、さらにカツカレーをたのんでしまった。カメちゃんのペースに巻き込まれて、昼から少々飲み過ぎたが、今回最後の昼餐に文句なしの店であった。

カメ邸へ戻って荷物をまとめ、妙見下バス停まで見送りを受けるころには、夏のような暑さになった。こうして念願の薩埵峠は、大成功裏に終わったのである。カメちゃんに感謝。

電車、バスを乗り継いで延々数時間、鹿島神宮のサクラはまだ散っていなかった。

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