道草Web

南アルプス聖岳・茶臼岳縱走

梓編年

大森、中村、橋元

大森氏からメールがあり、今回計画している山行にぜひ参加して欲しいと要請があった。遠路大儀につき足代をもつとまで、いってくれた。普通なら一も二もなく参加するところだが、この二ヶ月、左足親指に痛風を発症して再発を繰り返し、ようよう収まりかけたところに、右足にまで発症した。しかも、病院が休みのお盆の最中に鎮痛剤が切れてひさびさに恐怖の激痛に襲われたばかりだった。医者に相談すれば目を剥くだろう。山で行動すれば、不十分な水分補給で激しい運動を強いられる。どちらも確実に血中の尿酸値を上げる。しかも、体重プラス数十キロの荷重が長時間にわたって患部を刺激する。大森氏にしばらく時間をもらって経過を見た。やめた方が無難なことはわかっている。しかし、年寄りの冷や水などといわれて、あれもこれもと自己規制して先細りの人生を送るなどまっぴらだ。これが、今回、参加を決めた最大の理由だ。

 

2010年8月29日 日曜日

東京駅→便ガ島

11時半に丸ビル前集合だったが、それよりだいぶ早く、まずぼくが、つぎにチャウが、そして大森車エクストレイルが相次いで到着してすぐに出発。ちょっとした渋滞はあったがほとんど予定どおりに高速を飛ばす。今山行のキーワードは“予定どおり”だ。途中、八ヶ岳のPAで昼食(12年前の光岳の記録でもここで昼食をとっている)。中央高速の松本への分岐から先は、光岳と空木岳以来だ。いつもと反対側からみる南アはどの山がどれやら見当がつかない。今回初登場のGPSコンパスに登録してあった聖岳、茶臼岳などの方向は確認できた。しかし、その方向に見える山は前衛かもしれず、目指す山なのかさだかではない。途中、高速道の壁面に山の位置を示した図があったが、またたくまに通過してしまう。飯田ICで高速を降りて途中のスーパー(サティ)で各自の行動食、今晩の宴会用生鮮食品などを仕入れる。山上での食料は大森氏がすでに購入済みだ。売り場を見る限り信州の食生活は素っ気ない。この近所に12年前の光岳の帰りに目を着け、7年前の空木岳縱走の帰りに目的を達した手作り?トンカツ『志瑞(しみず)』がある。看板が見えたので健在のようだ。

 

飯田から南アルプスへ向かうには、行く手を阻む伊奈山地を横断する必要がある。そこを全長4キロほどもある矢筈トンネルが貫通している。このトンネルは光岳のとき使っているので、飯田からトンネルまでの県道251号は通っているはずだが、まったく記憶にない。県道番号がついているのに、かろうじて舗装されている体の狭い道路で、対向車とのすれ違いさえままならない。両岸に山の迫った沢沿いに走っているので、まるで林道の終点を目指しているようだ。エクストレイルのナビがおかしいのかと疑うほどだった。12年前の記録では、この道を運転していたのは善さんで、ぼくは眠りこけていたようだ。しかし、今回は起きていたせいで、とんでもないことになった。車酔いが始まってしまったのだ。

 

矢筈トンネルは、トンネル部分だけ完成し前後の道路が未整備という、12年前とあまり変わらない状態だった。トンネル内は片道2車線のほぼ直線的な道で、そこを出ると秋葉街道(国道152号)になる。トンネルの出口近くにある、光岳の帰りに寄って期待はずれだった民家風のソバ屋も健在(少しは腕が上がったか?)。秋葉街道は、工事が完成した広い直線道路と狭く屈曲する山道が交互にでてくる。この辺りまではなんとかこらえられたが、国道から遠山川右岸の山道に入ってから限界に達してしまった。終点の便ガ島へたどり着くまでに3回も急停車してもらって、胃の中は空っぽになった。これを書いているいまもまだ後遺症で頭に不快感が漂っている。なにかと頭の生理機能がよろしくない自分であるが、あまり経験のないほどの車酔いであった。かようなわけで、とても無事に便ガ島へ到着とはいかなかったが、スケジュールとしては遅滞なく到着した。

 

12年前は天井のないトイレしかなかった便ガ島だったが、今は聖光荘という宿とログキャビン風の立派なキャンプ施設が道路を挟んで対峙していた。先客は3組みほど、といっても単独行ばかり。到着後は立ち上がることもおっくうで、幕営の手伝いもせず車のシートに沈没していた。暗くなる前に施設の管理人が料金の徴収に来る。こいつが、えらそうな口をきく男で、そのうえやたらに声がでかくて耳障りである。登山客は3時までに小屋へ入るべきで、遅くなっても受け入れる山小屋は登山客の扱いが甘すぎるなど、話しの内容が僭越きわまりない。施設の管理は仕事だろうが、客まで頭ごなしに管理する権限はない。ただでさえ気分が悪いのに不快感が募った。すこし休めばどうにかなると思ったが、ついに回復せず。宴会がはじまって、ご機嫌の大森氏がチャウを相手に話しの花を咲かせているのに、隣のテーブルのベンチで横になりながらそれを聞くという情けない状態だった。ついに、固形物は喉を通らず、わずかのビール、酒、ワインだけの夕食を済ませた。

 

めずらしく、夜中にトイレに起きる。この年になって、夜目覚めることは多くなったが、トイレに起きることなどない。このときばかりは痛風対策に大量に水を飲んでいるので目が覚めた。テントを出ると、黒々とした森がキャンプ場をぐるりと取り囲み、井戸の底から夜空を見上げるような具合だ。その天井に半月が青白く輝いて、まるで満月のように明るい。空気の透明度を実感する。その明るさにも負けず多数の星がきらめいている。まもなく中天にカシオペアがかかるところだった。夜中に目覚めたトトロはきっとこんな空を見るのだろう。

 

2010年8月30日 月曜日

便ガ島→薊畑→聖平

 

今日は便ガ島の標高1000mから主陵縦走路に合流する2400mまで、高低差1400mほどを稼がねばならない。いま建設中のスカイツリーの約2本分を登るわけだ。背には、個人装備、幕営装備、食料、飲料を含め、30キロはなかろうが20キロは優に越えた荷を背負っている。各自1晩500ミリのビールと500ccの共通ウイスキーも含まれる。山小屋泊まりにすれば、こんな重荷を担ぐ必要はないが、できれば山小屋泊は避けたい思いがある。いまの南アならビールくらいは買えるが、体力の続く限り自力で必要なものは持ち上げるのが大森リーダーのポリシーである。こちらも何の異論もない。

 

登山口の案内板の前で、大森氏持参のヒル除けの薬品を各自の登山靴の首の部分によく吹き付ける。もっとも今回は、ほとんど雨は降らなかったので、ヒルに襲われる心配は少なかったが。腰痛をもつもの、膝に古傷のあるもの、両足痛風をかかえるもの。いまや公共メディアでは使えない語彙を恣意的に使わせてもらえば、「びっこちんば隊」の出発である。狂言には『三人片輪』という名品があるが、それも自主規制とやらでいまはまったく公演されなくなった。あいや、のっけから脱線。登山口から少し登ると平坦な林道に出て、すぐにトンネルを潜る。登山道というより、軽自動車ならゆうゆうと通れるほど整備された道だ。あとで調べると、遠山川が秋葉街道に出会う梨元(GoogleMapでは「梨元ていしゃば」という地名表記がある)から遠山川沿いに西沢渡まで通っていた「遠山森林鉄道」の軌道跡だった。便ガ島までは一般客も入るから遊歩道として整備しているのだろうと推測していたが、日本に林業が華やかなりしころの痕跡がここにあったわけだ。ぼくが最初にこのルートに入ったのは今から30年以上前だが、そのときは本谷口(梨元)から西沢渡まで1日かけて歩いている。多分、この軌道跡が山道として残っていたのだろう。遠山森林鉄道の軌道はほぼ遠山川の河岸を走っているが、昨日大森車が通った林道は、そのはるか数100m上をほぼ並行して走っている。

 

西沢渡(西沢と東沢[=遠山川本流]との合流地点)に籠渡しが懸かっていた。籠といっても亜鉛メッキの鉄骨造りでとても人力で直接引ける重量ではない。引き綱の基部は何重かの滑車を通してあり荷重軽減の仕掛があった。増水のときに備えてのことだろうが、なんでここまでガッシリ造る必要があったのか謎である。ザックを背負った登山者が乗れるのはせいぜい5、6人ほどだろうが、それを運ぶのにこれだけの強度が必要とはとうてい思えない。ま、いっか。西沢には、簡単な板橋が掛けてあるので、通常は、籠渡しを使う必要はない。軌道跡が終わると、やっと普通の登山道になり、少し登ったところに廃屋がある。間取りが多く中庭まである。ここも山小屋ではなく木材加工用の施設だったらしい。30年前に西沢渡で一泊したときは、雨中、幕営が面倒だったので、廃屋に潜り込んで一夜を明かしたが、こんなに大きな建物は記憶にない。

 

小屋を過ぎると、単調かつ本格的に長時間の登高が続く。実際には、高度につれて地形、景観、植生とさまざまに変化するが、気分はひたすら登る。GPSのログを見ると6時36分に登山口を立ち、5回休憩して、12時37分に主陵縦走路との合流点「薊畑」に到着している。苦しい登りではあったが、昨夜の不調を思えば順当にこなしたといえよう。薊畑にザックをデポして今日中に聖岳まで往復する手はあったが、さらに5時間を要する。それにもう雲が湧いて良好な視界は望めない。チャウの一喝、“行動11時間は長すぎる”で、そのオプションはなしになった。

 

薊畑から聖平小屋まで道は楽しかった。急登から解放され目的地はまぢかだという安堵感がある。もう盛りは過ぎているが、お花畑眺めながらのんびり下ってゆく。途中に鉄柵で囲われた区画があり、何事かと思えば、シカの食害から高山植物を保護するのだと案内がある。そういえば、薊畑の由来だろうアザミは近辺に見当たらず、シカの喰わない毒草のトリカブトが一面に咲いている。大型の植物では、黄色い花を着けたミヤマアキノキリンソウと立ち枯れたミヤマダケブキが目立ったくらい。下草にツマトリソウ、ハクサンフウロ、ミヤマコゴメグサ、シラネニンジンなどが見られたが植生はいかにも単調だった。はじめてアザミを見たのはこの保護区画の柵の中である。大森氏が区画内に見つけたイブキトラノオもその後見ることはなかった。

 

聖岳と南岳を結ぶ稜線の最低鞍部が聖平だ。そのときは雲に隠れていたが、視界があると、そこからのしかかるような聖岳の巨躯が望まれる。縦走路から東に別れて木道を進むとまもなく林の影に聖平小屋が見えてくる。赤い屋根に柿渋色の木材のログハウス。できたてのほやほやといった感じのきれいな小屋だ。棟続きだが区画を分けて手前に冬期小屋があり、奥に本屋がある。玄関で大森氏が、小屋番に3名の幕営を告げて料金を払っている。その小屋番が、明日の朝は5時にヘリが来るので、それまでにテントを撤収しろと大森氏にいったらしい。緊急事態ならまだしも、まだ明け切らないそんな時刻からヘリが飛ぶわけはない。意味もなく事態を大仰に伝えてもったいぶる手合いである。見かねた小屋の管理人らしき男が割って入って、8時頃までは大丈夫だといってくれたらしい。こんな奴に限って仲間内では軽んじられ、そんな手段でしか自分の存在を示せないのである。偶然ながら、そのことは、あとで立証される。

 

聖平小屋と幕営地は、聖平から流れ出す聖沢の源頭、東北東に向かって広がる扇状地の上部に位置する。小屋を扇の要として、テントサイトが階段状に展開している。両脇を稜線に限られて、正面に見えるのは、大井川の対岸、笊ガ岳に連なる山並だろう。せせこましい小屋番は別にして、気持ちのよい小屋であり幕営地である。全体を見わたしても数張りしかテントはない。われわれは小屋の直下のよく整地されたサイトに幕営した。2張り分のスペースだが、その奥にテントを張り、その手前にあるベンチを宴会場とした。われらがサイトの直上は小屋の前庭であり、そこには多数の椅子がこちら向きに並べてある。つまり絶好のビューポイントなのである。2時前には到着しているので宴会の準備にはたっぷり時間をかける。ビールは幕営地の脇から流出する沢の水で冷やす。つまり、聖沢の最初の湧きだし口で、モルツのロング缶を3本冷やしてある。宴会のメインは、味噌漬けの和牛を湯で温める「茹で牛」。このレシピはぼくの考案だが、大森氏がいたく気に入りいまや自家薬籠に収めている。作りたてより冷やしたほうが美味くなるので、味噌風味のコールドビーフといえばいいか。時間調整をしながら進めた準備も無事終わり、きりっと冷えたビールの乾杯で始まった宴会で、大森節が炸裂したのはいうまでもない。

 

2010年8月31日 火曜日

聖岳往復→南岳→上河内岳→茶臼小屋幕営地

 

今日は簡単にオジヤの朝食をすませテントを撤収。縦走路まで出て、分岐にザックをデポして、軽装で聖岳を往復する。聖岳に向かって昨日下ってきた気持ちのよい山道を歩き出す。サブザックの荷物は背負っているのを感じないほどだから軽快に歩けそうなものを、なんだか調子が悪い。頭に石が詰まっているように重く、胸がむかむかして、足が前へでない。視野にかすかな閃輝暗点が出ているので片頭痛の発作が起こっているようだ。昨夜のひどい車酔いも、その前兆だったのかもしれない。今回の隊列は終始、大森→チャウ→OJの順で変わることはなかったが、チャウの後に続くのがやっとである。途中、小聖岳頂上で中一本立て、ようようの思いで聖岳のザレた急斜面を登りきった。

 

途中、聖岳の大崩壊地を眼前にするところに水場がある。岩壁直下のザレを下ったところにあるので水汲みには多少危険がともなう。ここは30年前の山行の思い出が残る場所だ。水を補給したくてリーダーに申し出たが許されなかった。そのときは会社の山岳会の山行に客員で参加したのだが、幕営で遠山川を遡行して聖岳、茶臼岳、光岳を縱走して寸又峡へ抜けるというのだから、遊び半分にしてはいやに渋い行程であった。もっともぼくは休暇がとれずに、途中の茶臼小屋から下山している。このリーダーとはその後、親しい仲となり、その知性の強靱さに驚嘆するに至るのだが、いまはもう此岸(ここ)にはいない。

 

聖岳は3013mで日本最南端の3000m峰だ(と地図にあったが、富士山のほうが南だった?)。その三角点の脇にどっかと腰掛けて呼吸を整えた。360度視界は良好。西方には台地状の恵那山、その奥に御嶽山、やや北の手前に中央アルプスを望む。北方に盟主赤石岳と対峙し、東方には大井川を挟んで南アのもう一方の主陵を眼下にする。南に視線を転ずれば、これから自分たちの足で踏みしめる茶臼岳方面の稜線が連なっている。すぐそばに途中で追い抜いて(相手はフル荷重だからね)きた同年配の単独行の男性が座り、“昨日、テントを張っていたひと達ですね”と話しかけてくる。どうみても古くからの山屋には見えないが、さして意気込んだ風もなく、昨日、畑薙ダムから登って聖小屋に泊まり、今日は百間洞に泊まって、最終目的は千丈岳だという。ほぼ南ア全山縱走だ。何泊小屋泊まりするのかしらないが、それってけっこうすごい。しかし、ちょっと飽きそう。彼が“繋がる”と携帯をのぞき込んでいるので、こちらも携帯を取り出して善さんに電話してみた。善さんは一週間ほど前、ここから赤石岳の背後に見える荒川三山を縱走したばかりだから、3人で携帯を回しながら話しがはずんだ。前回の北ア針ノ木では高山病に苦しんだチャウは、今回はもっと高い聖岳でも元気である。

 

全方位の展望を楽しんで下山を開始。ところが、下りはさらに体調悪化。空荷に近い下降などルンルンで駆け下れるはずが、足がちっとも進まない。登りは遅れなかったが、ついに先行する2人に追いつけなくなった。そのうち歩いているのもきつくなり、その場に寝そべりたい誘惑に駆られる。このままでは、分岐まで戻ってザックを背負ったら、百歩も進めそうにない。だいぶ遅れながらもなんとか分岐へたどり着いた。チャウが小屋まで水を補給にいった間、近場の草地に倒れ込んだ。

 

ややあってチャウが戻ってくる。ようよう身体を起こしてザックを背負う。まずは南岳までゆるやかな樹林帯を登る。しばらく歩いたら、なんだか、さきほどの聖への登りより楽に進めるようになった。ザックの荷重を受けたら身体が緊張して気力・体力が復活したようだ。冷静に考えれば、片頭痛の発作が収まったのだろうが、まっ、気は心。以降は、普通にバテることはあっても、不調に陥ることはなかった。南岳までへの途中でサブザックにダブルストックでひょいひょいとわれわれを追い越していった小太りの男がいた。聖平小屋の例の小屋番だった。南岳までに一本、南岳で一本、上河内岳の下で一本をとる。上河内岳への登りは二重山稜の間の窪地を進む。30年前には西側の稜線を辿ったような気がするが、さだかではない。南岳から見ると、まさかあれを登るのかと思うほど巨大に見えた上河内岳も、一歩一歩、足を運んでいればいつかは到達する。上河内岳のピークは縦走路から離れていて往復20分ほどかかるのでパス。上河内岳から先は登山というより高原トレックのおもむきだが、疲れた身体にはけっこう長かった。途中、竹内奇岩のところでモグラの遺骸を見た。こんな高いところまでモグラがいるのかと驚いたが、モグラの近縁にヒミズ、ヒメヒミズがあり、後者は高山帯にのみ棲息するというので、それかもしれない。

 

茶臼小屋への分岐の直前で最後の一本を楽しんでから、小屋へ下った。茶臼小屋は、聖平小屋とは違って分岐から沢筋をだいぶ下ったところにある。この沢は、上河内沢の支流になる横窪沢で、その急斜面にへばりつくように小屋があった。色調は似ているが敷地が狭いせいか、こちらは2階建で、テントサイトも草深い斜面に点々と散在している。小屋の周囲に工事中の機材が散乱し、あまりいい印象ではない。大森氏が受付をしている間に小屋の周囲を一巡した。横窪沢へ流入する枝沢の水を、塩ビのパイプで引いてステンの流しへ貯めているところに「水場」の表示がある。水槽に水は溜まっているが、商品の缶ビールやジュース類、それにトマトなどが浮かんでいる。流しはあっても洗い場のない水場だ。小屋の南東の隅が切り欠きになって、その軒下に椅子とテーブルが設えてある。ここなら雨が降っても宴会ができそうである。受付を済ませた大森氏は、ここはテント客など相手にしていないようで、好きなところに適当に張れとばかり、おざなりな扱いだったという。実際、ここで幕営したのはわれわれだけだった。例の小屋番が、ここに先着していた。真偽のほどはしらないが、聖小屋をクビになったので、こちらへ流れてきたと話していたそうだ。この小屋番、まっとうなアルバイトなのかどうか、聖平小屋、茶臼小屋、光小屋のあいだで廊下鳶を決め込んでいるようだ。他の従業員の彼に対する扱いにもそれが垣間見られる。幕営地もほとんど整備されている様子はなく、一番ましな小屋近くのサイトはヘリで下ろすゴミの山で占領されている。いったん、小屋の対岸の、一番見晴のよさそうな場所に陣取った。実際にテントを立ててみると狭すぎて宴会スペースが取れない。そのうえ敷地が思ったより傾斜していたので、小屋近くの2張り分のスペースへ設営しなおした。その間、ここでも横窪沢の源頭を探し出してモルツのロング3本を冷やしたことはいうまでもない。

 

小屋の受付の話しでは、夕方、雷雨になるというので、どこを宴会場にするか悩んだ。テントの前のスペースで宴会を始めて雨になるとテントへの取り込みが面倒だ。さきほど見つけた小屋の隅の宴会場なら雨はしのげるが、テントから食料や機材を持ち運ぶ必要がある。さて、どうする。しばし、雲の様子や、ときおり鳴る雷鳴、ぱらつく雨の具合を見つつ逡巡した。小屋隅の様子を見に行った大森氏が、先客が4人いるが面白そうだから、あそこにしようという。狭いコーナーで他人との同席は気が進まなかったが、コンロ、コッフェル、食材に、冷やしたビールを運ぶ。もう周知の仲であるかのように先客達と大森氏の話が盛り上がっている。彼ら彼女らは、ここで小屋の夕食の時間待ちをしながら一杯、こちらは夕食の支度をしながら一杯である。小屋の客は乾き物の行動食くらいしか携行していないから、こちらの調理している野菜や肉類が驚異的に写るらしい。合鴨のローストや昨日の残りの茹で牛はほとんど信じられないご馳走に見えたようだ。最初は遠慮していた彼らも、大森氏の勧めにのって、おそるおそる肉に手を伸ばし、ワーとかキャーとか歓声をあげていた。ビールまで担いでいると知って、小屋代をけちって、その分を飲食に回していると納得している口ぶりだった。にわか登山者に古い山屋の心情は分かるまい。夕食の案内があって先客がいっせいに去るとわれらの世界だ。仲間に入りたげに廊下鳶が前を行き来するが完全無視。今日のメインは、カルビの野菜炒め。合鴨のロースと同様に味付けした牛バラ肉を真空パックしたものだが、常温で数日携行してもまったく問題ない。カルビを炒めると和牛のよい香りがする。あまり炒めすぎず、野菜も生加減で仕上げると、とても南ア最奥での幕営料理とは思えないものになる。今回はぼくの肉好きに配慮して大森氏が食糧計画を立ててくれた。しかし、ぼくも歳、数日間の山くらい肉なしでも支障はない。今日の宴会では500ミリのウイスキーが飲みきれないという予想外の事態になった。こちらの不調が多少は響いているのかも知れない。

 

2010年9月1日 水曜日

茶臼小屋幕営地→茶臼岳→易老岳→易老渡

 

最終日は、朝食抜きの早朝立ちとなった。東京駅発午後7時50分の高速バスに間に合わせてくれようとしている。ぼくが鹿島臨海鉄道の最終便に乗るためにはそれが終バスとなるのだ。4時前の暗いうちから懐電をたよりにテントを撤収する。夜露に濡れたテントとフライはびしょ濡れ。気の毒だが、テントは大森氏の担当である。ビールや食材がなくなったぶん荷は軽い。初日は、ザックをいったん高い位置において腰を滑り込ませないと担ぎ上げられなかったが、今日は両手でハーネスをつかんで肩を差し込めば背負える。

 

幕営地を立って縦走路まで登ったころに夜が明けてきた。暗く沈んだ大井川対岸の山並の奥に富士山の巨大なシルエットがそそり立つ。ひとしきり写真を撮る。山の端の満月と同じで、写真になると富士山のこのスケール感はまったく伝わらない。茶臼岳へ向かって登り始めてすぐに富士山の北側の山から日の出がはじまった。またひとしきり写真を撮る。茶臼岳の頂上付近は岩場で、大森氏曰く、ひさびさの岩稜歩きとなる。頂上で一本立てて、朝食代わりの行動食をほおばった。昨日少し夕立気味になった以外、今回の山行は天気に気を配る必要はなかった。今日も見わたす限り雲一つない。一番きつい登りと下りは樹林帯の中だし、縦走路を歩いているあいだは晴天積雲が直射日光を遮ってくれたので、連日の好天にも暑さに苦しむことがなかった。茶臼頂上から易老岳までは樹林帯の緩やかな下りが続く。木立を通して昨日登った聖岳の巨躯がみえ隠れしている。途中で一本入れ、易老岳の直前でも一本立てた。易老岳の山頂は視界のない林間でつまらないことは前回の光岳のときに知っている。このときの一本がぼくには今回最高の休憩だった。周囲を樹林に覆われた早朝の草地の中を、ほどよくくねった山道が延びている。その山道の脇の草地に腰掛けると、えぐれた山道と草地にほどよい落差があってベンチに腰掛けたように居心地がいい。朝の斜光が樹冠を縫って、潅木の茂みやシダ類の葉に降りた夜露を照らし、そこらじゅうがきらきらと輝いている。差し込む光のなかで小さな虫たちがたくさん飛び交っている。まるでアリエッティの庭で、ファンタジアのニンフが魔法の杖を振るっているようである(どうもアニメ趣味が抜けない、ぽりぽり)。

 

易老岳の山頂には、今回の山行ではめずらしいほど多くの登山者がいた。通路のど真ん中に荷を広げ、ごめんなさいねといいながらも、わるびれる風もないオバサン。ようやくたどり着いたと杖にすがるオジサンなど、にぎやかである。われわれは、偶然、山名の標識の近くに居たご婦人に3人そろっての記念写真を撮ってもらって通過する。易老岳からは遠山川(易老渡)へ向かって幅びろの尾根をひたすら下る。歩きやすいようにコースはジグザクに切られているが、方向性はほぼ一直線の下降である。下り始めてすぐに、白髪長躯、ダブルストックの老人とさきほどシャッターを押してもらった女性が追いついてきた。すぐに道を譲る。ご夫婦なのだろうがだいぶ歳が違うように見える。老人、“われわれはゆっくりですけど”と言い残して去っていったが、このパーティとは最後まで抜きつ抜かれつとなる。さほどの重荷ではないが年上と拝見したので、相当ながんばりである。最後に易老渡に着いて休んでいる大森氏の前を、白髪の老人、“もうこんなのはこりごり”といいながら通り過ぎたそうである。

 

登山道は比較的整備されているが、滑るところは滑る。歩きにくいところは歩きにくい。まして最終日で疲労も重なっている。日頃安定した歩きの大森氏もめずらしく何度かバランスを崩していた。ぼくのほうは、しんがりで気兼ねなく、転石を踏んではズル・ジャリ・ズドンと騒音を立てながら下った。その点、軽量のチャウがやや有利だったかもしれない。長い下りだが中二本で易老渡にたどり着いた。大森氏が多少膝にきたというので、ぼくが便ガ島までエクストレイルを取りに行く。“ゆっくりね”という声を背に受けてのんびり歩く。途中、沢が何本も道路を横切っている。まずは清冽な沢水をたっぷり給水して顔と頭を洗う。次の沢では身体を拭ったついでにシャツをもみ洗いする。歩きながらの着干しだ。次の沢では、朝からズボンの尻ポケットに突っ込んである歯ブラシを出して濡らす。歩きながら歯を磨き、その次の沢で口をすすぐ。太陽は強烈な日射しを送ってくるので、便ガ島へ着くころにはシャツもほぼ乾いていた。残った二人も近くの沢で似たようなことをしているはずだ。あまりのんびりし過ぎたか、エクストレイルを運転して戻る頃には、待っていた二人は何かトラブったかと心配したそうだ。

 

エクストレイルで同じ山道を戻るがもう車酔いはしない。だいたい、なるときは自分で予感があるものだ。矢筈トンネルを抜けてしばらく、このまま進めばまたあの狭い山道に突っ込むというところで、対岸の山腹を並走する車道が見えた。車の通りも多いので抜け道になりそうだ。すでに分岐は通過していたので、数度の切り返しでUターンして分岐へ戻る。往路同様ここまではエクストレイルのナビ通り進んできたのだが、ナビはUターンをきっかけに自分の指示したルート以外をドライバが選択したことを察知するらしい。すぐに、前言を翻して分岐まで“あと……mです”と、抜け道のほうを指示しだした。最近のナビはけっこう、賢い。後で調べると地図上このあたりの主要道はナビの選んだもので正解だった。しかし、抜け道のほうが通行は容易で、すれ違いに苦労するほど狭くない。このあとは白河夜船。諏訪SAのまぢかで目をさました。山の汗をSA内の温泉で流そうというのだ。混んでいることだけが心配だったが、ほとんど客はいなかった。諏訪湖を眼下に望みながら、天上の湯浴みである。さっぱり生き返ったところで、SAのレストランで遅い昼食をとりながら今回の精算をする。味は論外だが、このレストラン、眺望はなかなかである。ただ、諏訪湖の岸辺がアオコで汚染されているのが気になる。足代はありがたく大森氏のごちそうになった。貧乏人は感謝。諏訪SAからは心配した渋滞もなく、十分な余裕をもって東京駅へ帰着した。今回の山行は、まさに大森氏の“予定どおり”というべく、個人的な体調は別にすれば、何からなにまで順調であった。無事、わが家までたどり着いたことはいうまでもない。

 

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