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梓創設30周年記念九州旅行

梓編年

概要

●行程

9月22日 九州へ
  23日 別府市街、杵築城趾、熊野磨崖仏、真木大堂、富貴寺、宇佐神宮
  24日 登山組  九重連山中岳
      散策組  …………
  25日 阿蘇山、岡城趾
  26日 菅原天満宮、太宰府天満宮

●参加

冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、大森、中村、田中、亀村、橋元

 

去年に予定していた30周年旅行の計画が諸事情で今年に延びた。正確には31年目だが半端だから30周年記念としておこう。5月20日の華屋の集会で全員が揃い、1年遅れの30周年記念旅行はカメちゃんの奥さんの実家の別荘(大分県玖珠郡九重町大字菅原)をベースにさせてもらうことになった。スケジュールの概要は後藤、大森、亀村のオフ会で立案され、梓のネット掲示で周知された。航空券・レンタカーなどの手配は後藤さん、行動計画や装備のリストアップは大森氏、別荘の手配はカメちゃんにご苦労を掛けることになった。9月10日の1時から三州屋で最終的な準備会が開かれた。事前に連絡のあった田中氏以外は出席の予定だったが、大森氏は義兄の葬儀のため、カメちゃんは急病を発した義父の見舞いのため参加できなくなり、計画立案の中核を担った3人のうち後藤さんしか出席できない事態になった(出席は、冨山、後藤、鈴木、金谷、高橋、中村、橋元)。とはいえ後藤さんが全容を把握しているので集会の目的に支障はない。後藤さんから航空券の予約券を受け取り、計画の説明と買い出しを分担で行うことなどが通知された。ま、かような次第で梓31周年九州旅行は無事に開催される運びとなった。

 

2011年9月22日 木曜日

  九州へ

昨日は台風15号が列島を縦断し大きな被害を残したが、今日は台風一過の快晴。台風が北側を通過したために東京は蒸し暑い夏に戻った。11時半に羽田の国内線第2ターミナル中央に集合。別便の田中氏以外は全員が予定前に揃った。手荷物を預け、ANA253東京→福岡便で定刻12:30に羽田を飛び立つ。台風のあとで大気の不安定も予想されたが、さほどの乱流には遭遇せずに福岡空港に着陸した。それにしても、空気より重いものが数百人の命を載せて飛ぶなどとは信じられない。

 

空港から外へ出ると東京の蒸し暑さは嘘のようで、空気がひんやりしている。台風は九州の東を北上したから、大陸の冷気を引き込んだようだ。福岡空港駅前の日本レンタカーで、8人乗りのステップワゴンと5人乗りのセダンを借りる。ワゴンはカメちゃん、セダンは善さんが運転して、あらかじめ大森氏が調べておいた近場の「スーパーセンター・トライアル」で食品や小物を買い集めた。備品リストで各自が購入する品目が決まっているので手早く済むかと思いきや、日頃慣れた大手のスーパーと違って売場のレイアウトに一貫性がなくだいぶ手間取った。カメちゃんの話ではトライアルは低価格が売りで関東へも進出しているそうだが、売場の乱雑さや品質を見る限りあまり見込みはなさそうだ。それにしても豆腐一丁19円には恐れ入った。

 

今回ぼくは運転をしないし、カーナビがあるので地図を調べる必要もない。便利にはなったが、どこをどう通ったか記憶に残らない。大分自動車道を玖珠ICで下りて、豊後森駅に寄り、実家で母上を見舞ってから合流する田中氏をピックアップする。バスで来るつもりが乗りおくれ、タクシーを使ったので散財だったとか。

 

別荘は「スパリゾート奥宝仙寺菅原」という別荘団地の中にあった。宝仙寺温泉は、今回縦走を予定している九重連山の北西15キロほどに位置する。別府湾と有明海を結ぶ線を1対2で分けるほどの位置になる。国土地理院の地図ではこの山域は「くじゅう連山」とひらがなになっているが、漢字は九重あるいは久住のいずれも用いるようだ。山巓としては「久住山」と書き、地図の区画名も「久住」、「久住山」となっているが、町としては「九重町」と書いて“ここのえまち”と読むからややこしい。

 

山荘は東向きの斜面に建つ2階建ての白い洋館。相当年季が入っているが、新しいころは瀟洒な山荘であったろう。近隣の建物はやや密接しているが、周囲の木立は深くリゾートの雰囲気に相応しい。車が2台なので駐車が心配されたが、道路から庭へ入って一段高い位置にある駐車スペースのほかに、そこへいたる斜路にも駐めることができて落着。隣の敷地にある若い栗の木の枝が、生け垣越しにこちらにさしかかっていて、大きな実を含んだイガがたくさんこぼれている。到着早々、結構な収穫があった。

 

長いこと使っていなかった別荘はカビの匂いが立ちこめ、床には虫の遺骸が散らばっている。1階は屋根まで吹き通しの広いリビングを中心に、東にベランダが張りだし、北側に和室、南側にはとてつもなくでかい風呂場がある。八畳間ほどの広さがあり、湯船もへたな民宿の風呂もかなわないほど広く深い。カメちゃんが早速掃除をして湯を入れたが、満杯には2時間ほどもかかったか。浴室から庭側の戸を開けると、なんと露天風呂まで付いていた。中2階が2層に分かれ、下段が台所と食堂、上段が和室で、最上階にも和室がある。みんなで手分けして、すべての窓を開け放ち掃除に取りかかる。さすがに広い山荘も、これだけの人数がかかるとたちまち快適な住居に戻る。

 

あとは宴会を残すのみだ。まずは、オーナーの死去という突発事態にもかかわらず、この別荘の利用を許してもらったご遺族とカメちゃんに感謝しなければなるまい。大森氏がトライアルで仕入れた天然物のブリの刺身から宴会が始まる。よくも同じ仲間で30年以上続いたものだという感慨から、明日の行動予定などを話題に賑やかな宴が続く。以前、齋藤君がアズサハイマーに罹かったわれらがために『うわばみ』という歌集を作ってくれたが、今回は後藤さんがその新版を、装丁も同様に作ってくれた。冨山さんの蛮声が聞かれなかったのは画竜点睛を欠くが、まあわれわれも相応の歳である。宴会は恒例により後藤さんのペペロンチーノで終わった。

 

温泉リゾートなのだから、泉質について触れておかねばなるまい。ここの温泉の湯は、無色、無味、無臭で一見なんの特徴もない。しかし、この湯に浸かってみると、とても気分がほぐれる。風呂に興味のないわたしが言うのだから間違いない。みんなの意見も同様であった。

 

2011年9月23日 金曜日

  別府市街、杵築城趾、熊野磨崖仏、真木大堂、富貴寺、宇佐神宮

 

快晴である。今日は国東半島方面を散策する。

 

葬式に参列するカメちゃんを別府駅まで送る。今夜が通夜、明日が告別式で、明後日に阿蘇で合流する予定だ。途中、大分自動車道の別府湾SAから別府の町並みと湾岸に沿った工業地帯を一望する。海に面して相当な高台にあるので風が吹くとおちおち景色を眺めてはいられないようだが、今日はほとんど風がない。金谷氏は、2002年2月の屋久島の縦走でかぶっていた赤い綿入れ帽子をかぶって飄々と歩いているが、通りがかりの子供らは、その異様さにぎょっとして立ち止まり、まじまじと眺めていた。ICから駅へ向かう別府の町並みは大きな公園やきれいな建物が櫛比して観光の町らしく整然としている。

 

杵築城跡と城下町

国東半島は、別府湾に向かって小さく口を開けた人の横顔のように見えるが、杵築はそのちょうど口元に位置する。八坂川が町の南側を流れて別府湾に注いでいる。川に沿って東西に2筋の丘陵が走り、それらの東端、河口まぢかで別の丘が海へ向かって立ち上がっている。その丘が杵築城趾の城山公園である。2筋の丘陵は南台、北台と呼ばれる武家町があり、それらに挟まれた谷間には町家が発達している。町の案内には「サンドイッチ型城下町」とあった。われわれがまず訪れた城山公園には、この地方一帯に残されていた庚申塚や石仏群が多数収集されている。河口に突き出した城域の先端に天守閣が復元されていて、そこから望む八坂川の干潟は壮観だ。この河口には何億年も前から姿を変えていないカブトガニが棲息するという。

 

城山公園を出て城下町へ向かう。一方の武家屋敷街から町人街へ下る広い石段が、さらに登り返してもう一方に武家屋敷街へ至る。こうした石段が何条かあって城下町を横断している景観は珍しく、一見の価値がある。城下を一巡して南台武家屋敷の東端にある一松邸を訪れる。お城から一歩東へ引いた位置だが、お城同様に河口に面した小高い丘の上にある大邸宅である。どのような気象でも雨戸一枚しか防御の術がない。こんな木造建築に住まいした人は、台風のときなどどんな心境だったろうか。よくよく説明板を読めば、昭和初期にこの地の大物政治家だった一松某氏の旧宅で、本来は他所にあったものを移築して記念館としたらしい。なんだ、ここに来てから人は住んでいなかったってことか。

 

ちょうど時分だったので、一松邸の敷地内にある食堂で昼にした。町のどこを見て回っても観光客らしき姿はあまり見かけなかったが、絶好の景観を期待できるこの食堂にも他に客はいない。瓶ビールはアサヒ、生はサッポロというので、ドライバーの大森氏と善さん以外は全員生ビールにした。ほとんどがトンカツ定食を、残りが団子汁(要はすいとん)をメインの郷土料理などを頼んだ。若い女性が一人で接客をして厨房にはやや年配の女性が一人。案の定、数の多いトンカツ定食がなかなか出てこない。給仕の娘さんが気にしてしきりに詫びをいう。だいぶ待たされて出てきたトンカツはあまり見かけない姿をしていた。普通、トンカツというと一枚のロースをまるごと揚げてから切り分けるが、ここのものは肉を切り分けてから断片に衣を着けて揚げてある。ブタの短冊揚げか?増量にはなろうが摂取カロリーがいたずらに増えるだけ。普通なら長く待たされて、こんな品を出されては機嫌のよかろうはずはないが、娘さんの対応が素直で好感が持てたので気分は壊れなかった。彼女、あまり遅かったからと謝りながら、最後に刺身(タコとイナダ)の小鉢をめいめいに出した。揚げもののあとで刺身を食うのはいささか苦しくはあったが、彼女に免じて責任分は片付けた。

 

さっと一回りして食事をしただけで杵築の町を去ったが、ここだけでじっくり1日かけても面白かろう。このあとは国東半島の東側に点在する史跡を訪ねる。

 

熊野磨崖仏

麓の胎蔵寺からしばらくは林に囲まれた沢沿いのなだらかな坂を登る。昨日は、夜半、寒くて目が覚めたくらいだったのが、午後にもなると気温が上がり、長ズボンを選んだのを後悔するほど暑くなった。参道が石橋で沢と交差すると、その先は急勾配の石段になる。石段といっても大きな石を敷き詰めてあるだけだから歩きにくい。この凸凹の石段、鬼が積んだという伝説があるそうだ。99段あるというが踏み面が揃っていないから段数を数えようがない。善さんはひょいひょいと登っていってしまったが、冨山、後藤、両重鎮はだいぶ苦しそうだった。正直、これは少しきついかなと思ったが、無事に磨崖仏まで到達できたようで目出度い。石段を登りきると左手に林が開けて数十メートルの垂崖が見えてくる。その壁面に大きな石彫りの頭部だけが2つ並んでいる。手前が不動明王、奥は大日如来だという。全身像としなかったのは途中で諦めたのか、それでよしとしたのかわからないが、二像の作風はまったく異なる。峻厳な雰囲気を帯びて瞑想にふける大日像に対し、不動像は下ぶくれのオカメのようで愛嬌に満ちている。不動明王の図像的な特徴のひとつに、左右の牙が上下逆向きに生えていることがあるが、それを表現する口元が、技巧の稚拙からか意図したものか、笑いを噛み殺しているように見える。石段は磨崖仏からさらに上へと続いている。最上部に神社があり、それに対面して参籠に使われたかのような別棟もあった。神社の向拝にはサカキ、灯明だけでなく線香が供えられている。普通、関東辺りでは榊にはヒサカキが使われるが、ここは本当のサカキだった。

 

石段の下りは上りよりやっかいである。途中に立派なカゴノキがあったので写真を撮っていると、登ってきた男性が「虫ば撮っとっとですか」と声を掛けてくる。「いやこの樹皮がきれいだから」と応えると、「はあ、そういう見方もあっとですか。勉強させてもろうた」と呆れたように通り過ぎていった。そういえば、明確に方言といえるものを聞いたのはこのときだけだったろうか。商店や飲食店での対応でも、とおりすがりの子供たちの会話でもほとんど標準語が使われていた。生物の多様性の保存はやかましくいわれるが、文化も均質化することがいいのかどうか。

 

参道を下りきってそのまま車へ戻ろうとしたが、先に下りていたチャウに胎蔵寺が面白いと声をかけられたので、覗いてみた。この寺には面白い慣習があって、境内にある七福神などの石像に銀紙を貼り付けると御利益があるという。たしかに、銀ぴかの彫像が何体か庭前に並ぶ様子は奇観であった。第65世住職の説明書きに、「近年、宝くじが当たると評判になりました」とあり、銀紙を貼った像を「キンピカ様」と呼ぶという。そういえば、谷中の七福神に赤札を貼ると願いが叶うという仁王像があったなあ。

 

真木大堂(馬城山伝乗寺) まきおおどう(まきさん でんじょうじ)

県道脇の小さなお寺だがかつては六郷満山六十五ヶ寺の本山だったという。広大であったろうその寺域の塔頭にはそれぞれに仏像が奉られていた。火災や寺勢の衰退で失われていった堂宇から9体の仏像が難を免れてここに集められている。現在の伝乗寺は境内の中心を9体の収蔵庫(真木大堂)が占め、その脇に本堂が付属している。寺院というより、仏像の保存を目的とする宗教法人といったところか。パンフによると、本堂と思ったのは旧真木大堂で、収蔵庫内の仏像はもとはそこに安置されていたという。全員の入場料を払おうとするチャウに、係のオバサンが、ぶっきらぼうに「何人?」と応じたというのでチャウはお冠であった。しかし、帰りがけにぼくが通ったときは、中からありがとうございましたと声がかかったので、チャウのときの無愛想な婆さんとは別人らしい。

 

真木大堂は空調の効いた博物館の陳列室のようであった。入口で上履きに履き替え自動ドアから室内へ入ると、黒い大きな垂れ幕が視界を妨げている。その大幕を左から分け入る。照明を抑えた薄暗い室内のガラス張りの奥に、古色を帯びた仏像群が並んでいる。大威徳明王、阿弥陀如来と四天王、不動明王と2童子。まず目に飛び込んでくるのは、左正面の大威徳明王だ。亡くなった坂上二郎やタフマンの伊東四朗に磨きを掛けたようなガッシリした面相で参拝者を睨めつける。その分厚い顔の左右にも各1面があり、頭部にさらに3面を重ねてある。牛の背中に跨がる明王の体躯は頭部の量感のわりにはキャシャに見える。明王を載せる牛はつぶらな瞳を伏し目がちにして従順を示す。中央に坐す本尊の阿弥陀如来は顔面から胸元にかけて金箔が剥がれて黒い膚を露わにしている。この艶やかな黒さは地の漆が表れたものだろう。まさに漆黒である。平安期後期の作という如来の面相は素人にはこれといった特徴は見いだせないほどバランスよく整った印象を受けた。如来の周囲を長身痩躯の四天王が囲み、振り向きざまに四方を睨んだ姿勢で停止している。兜や衣裳は繊細に作り込まれてはいるが、どこか動きが固く躍動感に乏しい。右端の不動明王像立像は木造としては日本一大きいそうだが、あまり印象に残らなかった。

 

富貴寺(蕗寺 ふきじ)

パンフによれば、六郷満山富貴寺とあるので、真木大堂の伝乗寺の末寺になるのか。ただし、六郷満山の正確な資料は残っていないという。道路を隔てた駐車場から蹴上げの低い石段を登るとちいさな仁王門がある。左右の石像の金剛力士は人ほどの背丈しかなく、いくら威圧してみせても怖くない。茨城の僻地といっていいような我が家の周辺にある寺の仁王像でさえ金網を巡らせてあるというのに、ここでは囲い込むようなそぶりもない。ちょいと手を伸ばせば仁王のおでこを撫でることさえできる。左の呍像などは朝青龍がプーチン首相にワープしそこなったような容貌である。仏像には興味のない金谷氏が、今回唯一記憶に残った像であったという。

 

仁王門をくぐると、カヤの大木一本から造られたという富貴寺大堂(おおどう)が姿を見せる。まず端然と三間六扉を閉ざした正面と、宝形造りの瓦屋根が目に入る。深く張りだした軒の下に回廊がめぐらせてある。惜しむらくは瓦屋根が視覚的に重すぎる。昔は同じ寸法の檜皮葺だったと思いたい(藁葺きだったかもしれないが)。ここは白水や平泉の阿弥陀堂とならぶ日本三大阿弥陀堂と呼ばれるという。なかには平等院の鳳凰堂を挙げるひともいるが、あれはお堂の形式が違う。やはり、宝形造りでないと条件が揃わない。“日本三大”とは著名な2つに自身を付け足せばいいなどと冗談を言っていたが、このお堂を目の当たりにすると、まんざら便乗三大某ではない。なんたって、国宝!!!

 

回廊に上がって左右の側面から堂内へ入ることができる。靴を脱ぐのが面倒とばかり金谷氏は縁にはいつくばって堂内をのぞき込んでいた。中央の須弥壇の四隅に通る太い柱が目を引く。構造的に必要な太さではないから、須弥壇を結界する意識が働いているのだろう。阿弥陀本尊の金箔も背後の壁画もすべて剥落して生地の木材が露わになっている。建立当時は須弥壇の柱も、お堂周囲の内壁も含めて、さまざまな色彩で荘厳されていただろうが、われわれはこの姿のままに受け入れるしかない。部分的に彩色を残す真木大堂の阿弥陀像に対しこちらは完全に素木に復っている。容貌はあちらの威厳に比してこちらは親愛の情を催させる。おそらく頬から顎にかけてが小作りだからだろう。

 

お堂の周囲には保存のため近隣の石像・石碑が集められている。杵築城や伝乗寺でもそうだったが、この地方独特の形式という国東塔がここにもあった。宝篋印塔の一種かと思うが詳しくはわからない。笠塔婆も珍しかったが、パンフにあった板碑(いたび)を見そこなってしまった。これも卒塔婆の一種で、小振りの石版に種字(しゅうじ)を刻んだものだが、関東地方に独自のものとばかり思い込んでいたのだ。

 

今日の観光の最後は宇佐神宮へ向かう。

 

宇佐神宮

全国の神社の中で一番多いといわれる八幡神社の総本宮になる。神社党としては興味があって希望した。これを機に少し調べてみたが、自分の知識が不正確だったこともあり調べれば調べるほど混乱してくる。

 

ここの祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后の三柱で、それぞれ一之御殿、二之御殿、三之御殿に奉られている。主神の応神についてだが、その母は神功皇后、子には16代仁徳がいる。しかし、記紀の記載に仁徳との事績の重複・混同、系統の齟齬などがあり、この天皇の実在性はいまだ確認されていない。一人の天皇の事績を応神、仁徳に分けたとする説などがある。実在の真偽はおくとして応神がただちに八幡神かというとなお疑問がある。

 

応神を八幡神とする根拠は、宇佐神宮に伝わる「鍛冶翁」の説話によるという。

 

これによると、欽明天皇32(571)年、大神比義(おおがのひぎ)という人物の前に、3歳の子供が出現して「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり。わが名は護国霊験威力神通大自在王菩薩で、神道として垂迹せし者なり』と告げて金色の鷹となって飛び去ったので、近くに神社を建てた。それが宇佐神社の始まりで、この誉田の天皇が応神(諱は誉田別-ほむたわけ)を指すという。

 

ちょっと脱線するが、この託宣には神仏混淆の意識が明確に表明されている。仏教伝来は552年 or 538年といわれているから、ほんの20〜30年の間に神道の中にこれだけ仏教の影響が浸透しているということになる。

 

しかしこの話なんだかおかしい。冒頭、「菱形池のほとりの泉」と八幡神出現の場所を述べているが、その後、3回の遷宮ののち現在の場所に鎮座したという。なぜ最初から霊験の現れた現在の位置に社を建てなかったのか。

 

さらに不思議なことがある。宇佐神宮の託宣に、大分(だいぶ)八幡神社が本宮であると述べられているという。そして、大分八幡は筥崎八幡の元宮だともいう。ならば、大分八幡が筥崎より宇佐より古い根源の社なわけで、その祭神こそが本来の宇佐の祭神のはず。一方、鍛冶翁の伝承からは宇佐の祭神は鍛冶の神、つまり、鍛冶を職掌とする人々が祀る神だったのではないかという考えも出てくる(柳田国男)。ここからは、以下、勝手な想像になる。宇佐の神職であった大神比義が宇佐の地位を高めようとして、あのような話を思いついて宇佐の祭神と応神天皇を習合した。するとそれが評判になって、鍛冶の神は廣幡八幡神に吸収され、八幡神と略称されるようになる。現在は、この3社ともに応神を主祭神としているが、これは後の世の逆照射であろう。ちょっと思いついたので書いてしまったが、この手の考察は掃いて捨てるほどあるだろう。二之御殿の比売神を宗像三神とするのも疑問があるが、紀行文からだいぶそれてしまったので、ここまでにしよう。

 

宇佐神宮の広い駐車場に車を駐めて参道正面へ向かう。駐車場と参道は並行しているのだが柵があるので大回りしないと参道へは入れない。参道入口の商店街を過ぎると遙かに鳥居が見えてくる。この神社、尋常なスケールではなさそうだと感じる。コイやカメがたくさんいる川を渡り、神宮庁の前の広い砂利道を延々と歩く。このときは、まだ知らなかったが、この砂利道の左側(工事中のトイレの奥)が伝承の菱形池だった。「皇族下乗」の掲示からさきは緩やかな登りになる。階段を数回折れ曲がって、若宮を右に見て左折すると上宮の鳥居(宇佐鳥居)から奥に西大門を望む。西大門は閉ざされていて右の脇門からはいるが、そこは上宮の側壁が見えるだけ。さらに右手から回り込むと、一般人の入れる最奥の神域へ達する。くどくど書いたが、どうも日本の神社はストレートに神とは対面させないのが決まりのようだ。小さな神社は別として、参道入口から正面に拝殿を望むことはあまりない(靖国は例外か)。“直視”を避けているのかも知れない。

 

梓もいろいろな神社を見ているので、なるほどこれが宇佐神宮の本体かと思うだけで、とくにどうという印象はない。朱塗りの回廊に囲まれて中に複数の社が並ぶ様からは春日大社が思い浮かぶ。大森氏がいみじくも言ったように、どうもこの朱塗りというやつは安っぽくてありがたみが薄い。朱塗りのいわれを調べてみたが、まっとうな資料は見当たらなかった。中国・仏教の影響という説が多いがどうか。朱の色が厄除けの意味を持つからというのがすんなりくる。それにしても、神社の意匠は、朱、白木、黒漆、黒木(樹皮を剥がない自然木)と多様なところが自然発生的な日本の神に相応しい。

 

帰りはさっきの若宮のところを左へ階段を下って下宮を訪ねる。上宮とおなじく三神が三御殿に祀られているが小規模で訪れる人も少ないようだ。宇佐神社は本日の行程の最後で、時間も少なかったが、近場にあればあと数回は訪れてみたいが。

 

2011年9月24日 土曜日

  山行組    九重連山、中岳登頂

  散策組    (…………)

 

少し雲は多いがよいお天気だ。今日は九重縦走組(鈴木、大森、中村、橋元)と散策組(冨山、後藤、高橋、田中)に分かれた。

 

山荘で朝食を済ませ、両グループともまずは長者原を目指した。散策組も長者原からの九重の景観は見ておこうということだ。

 

九重連山、中岳登頂

 

マップ  (長者原 1,000m、牧ノ戸峠 1,333m、中岳 1,791m )

 

長者原(9:30)について驚いたのは結構な観光地であったこと。もう少し鄙びたところと勝手に思い込んでいたが、九重の山並を背景に、広い駐車場、キャンプ施設、宿泊施設からヘルスセンター、ビジターセンターまで揃っている。この辺りは歩いたことのあるカメちゃんがいないので、まずは案内を乞おうとビジターセンターへ向かった。大森氏が、中岳に登り坊ヶツルを経て長者原へ戻るもっとも容易なルートはどこかと訊ね、係のお兄さんから丁寧に説明を受けた。昨夜の宴会中に翌日のルートを検討していたとき、中岳は九州の最高峰だとわかり登山目標はこれ、さらに山屋の歌に名高い坊ヶツルも欠かせないと一決していた。お兄さんの話では、バスで牧ノ戸峠まで行って、そこから縦走すれば長者原から出るより300mは標高を稼げるという。しかも、日に何本もないバスがあと15分ほどであるというので願ったり叶ったり。このコースは牧ノ戸峠から中岳へほぼ西→東へ辿り、さら中岳の北東に位置する坊ヶツルへ下り、長者原と中岳の中間にある三俣山の裾野を巻いて長者原へ戻る。ただし、お兄さんは、中岳→坊ヶツルの最短ルートは土石流で何度も流されて迷いやすいので入らないで欲しいという。まあ山慣れない人への忠言だろうが、「君が生まれる前から山を歩いているんだ」などと、はしたないことは言わない。“分かりました”と素直に返事をしておいた。

 

バスを待っていると、車を長者原に置いて牧ノ戸峠から縦走するらしい人で結構一杯になった。いい年配だが、びしっと山のスタイルを決めて格好のいい山屋も数人いた。われわれのように、てんでんばらばら、なかには赤帽アフガン難民スタイルがいるのとは訳が違う。九州横断バスという仰々しい名前のバスに15分ほど乗って牧ノ戸峠で降りる(10:00)。峠にも土産物屋か案内所の建物があり登山客で賑わっている。わが散策組の車もここからの景観を狙ってか峠に姿を見せている。手を振って挨拶を交わして、簡易舗装された広くてなだらかな登山道を行く。ひとしきり登って亭のある展望台へ出る。行く手の右に見えるのが星生山(ほっしょうざん)らしい。この時点ではまだ気付かなかったがGPSロガーに登録しておいた山の位置がでたらめだった。今回、位置を座標で入れずに付属ソフトに表示されるGoogleマップをピックして入力したのだが、これが失敗だった。地図の縮尺が大きいと大幅に誤差が出る。面倒でも国土地理院の閲覧サービスで座標を拾うのが一番のようだ。途中、沓掛山を踏んだのか巻いたのかよくわからないが、山々に囲まれた広い高原地帯を縫って登山道は西へ進む。長者原のバス停にいた、格好のいい連中はいっこうに追いついてこない。こっちはビスタリー、ビスタリーなのだが、彼らはまさに本から抜け出したばかりで、歩くことは慣れていないようだ。

 

山道というより草原の散歩道といった感じでのんびり花や景色を見ながら歩く。花はそう多くなかったが、葉はカジカエデに似た切れ込みがあり、ダンドボロギクのような筒状の花を下向きに着ける見たことのないキク科の草がたくさんあった。あとで調べるとフクオウソウという(三重県の福王山由来)。また、大森氏が珍しいフウロソウがあると気付いたものは、どうやらツクシフウロ(築紫風露)だ。同じ科のゲンノショウコとよく似ている。一番さかりで花の見頃だったのはリンドウだった。何リンドウか調べてみたが、ただのリンドウのようである。

 

星生山と久住山の間のコルを過ぎると久住分かれの広場と避難小屋が見え、登山客で大賑わいである(11:50)。だらだらと続くので山らしい苦しい登りはないが時間だけはかかっている。善さんが、登山地図の所要時間を見て、九州の人はえらく健脚らしいなどと冗談をいう。盆地状のこの広場を過ぎてまた丘を越すと御池が見え、このころにはそろそろ昼のプチ宴会が頭をよぎる。もう12時を回っているので無理もない。池の周囲には三々五々昼食を楽しむパーティの姿が見られる。池を右手から巻くと、さらに右奥の丘の上に岩組の避難小屋が見える。これまであれが中岳だ、これが中岳だといっては違ってきたが、ついにこの辺りで本当の中岳のピークが分かった。見えてはいたのだが、どれがどれやら特定できなかったのだ。この辺りは多数の火山が次々に噴火しては冷え固まった凸凹の地形で、はじめてではなかなか判断できない。

 

中岳へのコースを取ると人数はだいぶ少なくなり、あっけなく山頂へ着いた。狭い山頂は人であふれている(12:30)。中岳の標識を入れて写真を撮ろうとしていると、カメラを手に順番待ち顔の人がいたので、全員の揃った写真を撮ってもらった。山頂は込みすぎてプチ宴会の気分にならない。さっきの御池へ戻るか、先へ進んで下に見える草原にするか、判断を迫られた。山頂までくると坊ヶツルを見下ろすことができる。行く手の草原へ下りれば、ビジターセンターのお兄さんに封じられたコースへ進むことになる。その草原から坊ヶツルへのルートは森に隠れて見えないが、ざっと見たところそれほど困難なルートとも思えない。草原へ下って坊ヶツルへの分岐で昼食(12:50〜)とすることになった。

 

ワイン2本とパン類に缶詰。駄菓子のように甘い九州のパンにオイルサーディンやツナを載せてもワインはすすまない。重くなっても冷やしたビールをなんとかすべきであった。それにしても、九州の食いものは甘い。パンに限らず塩味が薄いのではなく、砂糖が甘いのである。ま、ビールがないことに八つ当たりしても仕方ないが。

 

坊ヶツルへのルートは沢通しに下る。歩き出してすぐに環境省の、このルートはご遠慮くださいという掲示があった。“遠慮”とはなにか?進入禁止ではないのか? 最近よく話題になる「官僚的な語彙」を忖度すれば at your risk ということらしい。迷いやすいが自己責任で通りたければ妨げないということだろう。だったらそう書けばいいものを、自分の責任を逃れつつ反論を避けるために、当事者の決断に委ねることすら明言しないこの物言いに腹が立つ。

 

土石流があったかどうかは別にして、沢に絡む道が迷いやすいのは確かだ。この手の道は、歩きやすい部分は沢を利用しているが、滝が出てくると岸を巻く。この切り替えを見損なって沢伝いに進んで遭難することはよくある。そうした場所は何カ所かあったが、山を歩き慣れていれば判断に難しいところはなかった。しかし、大きな石の点在する沢は歩きにくいことは間違いない。平らな道ではないから、一歩一歩がバランスの保持を要する。これがなんとも苦手なのは金谷氏だ。後から拝見するに、次の一歩へ脚を踏み出したときに、その先が平地でない場合、足裏をフラットに着地することが困難を極めるようなのだ。だから、岩の斜面で足を踏みしめようとすると、ずるっと滑ってバランスを崩して手を付く。立ち上がろうとするとこんどは軸足が滑って反対側に手を付くといったふうで、普通の人が一歩進むあいだに、五体を満遍なく駆使することになる。これが下りのあいだ間断なく続くのだから恐ろしい重労働に違いない。それにもめげず、立ち止まることもなく歩きつづける、このものすごい体力には感服あるのみ。

 

沢筋を離れてしばらく北へトラバースすると坊ヶツルの草原が見えるようになる。やがて何棟か茶色の新しい建物が見えてくる。それが法華院温泉である。あとで尚やんの説明を聞いたところでは、坊とはこの法華院のことで、ツルとは湿地のことだそうだ。昔はこの温泉が修行?の場だったのかもしれない。下山路は温泉の中へは入らず湿原へ下る。一部で工事をしているようで落ち着かなかったが、ここで一泊するのも悪くない。この時期の坊ヶツルは一面の薄野で、その中央を舗装道路のような登山道が延びている。尾瀬のような湿原のイメージとも「坊ヶツル賛歌」のメロディーの印象ともまるで違う。正直なところ、いささかがっかりした。

 

坊ヶツルを半分ほど進んだところで長者原への登りが分岐する。この辺りは九州自然歩道の一部になっているらしく、それなりに整備が進んでいる。まったく同じ規格の立派な看板が繰り返しでてくるのだが、「坊ヶツル←→長者原」とある以外は何の情報も示していない。またしても役人のおざなり仕事が見え透いて腹が立つ、とはチャウの言である。このルートの登りが終わるころにマツムシソウやママコナなどの花が現れてくると、雨ヶ池越の湿原に出会う。乗越に池があるのでその名があるのだろう。小規模ではあったが、ここはなかなかよい。なかでも印象的だったのは、その雨ヶ池の一面にラッキョウのような紫の花が咲いていたことだ。実は牧ノ戸峠からの登りでも1株だけ咲いていて、写真を撮っていたが、それが池の中に群落をなしているとは思いがけなかった。近くにいた、いかにもインテリ風の男性がヤマラッキョウですと問わず語りに教えてくれた。通年池の状態ならラッキョウは生育しないはずだが、雨ヶ池の名前のように雨量によって池ができるのかもしれない。Webの写真をチェックしてみると、水のない状態で満開のヤマラッキョウの群生地の写真があった。

 

雨ヶ池越でしばし気分をよくしたが、まただらだらとした下りになった。長者原への下りになると急に整備も悪くなり、また赤帽タリバン氏の苦難が始まった。法華院温泉から長者原までは5キロほどのはずなのだが、それにしてはこのルートは長かった。もうそろそろ終わりになるころ、自然観察のために樹木に名札が掛けてあるようになる。樹木の名前は覚えていても、新たに同定するだけの情報を記憶するのはもう難しいかもしれないと思いつつもカナクギノキなどとあると写真を撮ってしまう。なかでもミズメが数本あったことは記念になる。これぞわが会名「梓」の別称である。これで梓を見たのは3度目か。1度目は丹沢、2度目は日だまりの三頭山(このときの標記はヨグソミネバリ、これも梓の別称)である。いまだにこの木を見てぱっと判断することができない。丹沢のときだけは自分で樹皮の香り(サリチル酸、いわゆるサロメチール香)を嗅いで確認した。気付かずにいろいろなところで出会っているかもしれないのだが。そうこうするうちに森を抜けて一面にススキの生えた草原へでた。長者原だ(17:05)。

 

今日は夕食の買い出しは観光組に頼んであるので、あとは帰るだけ。来るときは山越えの最短距離(県道880)を来たが、相当な山道で時間的には早くなかった。そこで、帰りは九酔渓方面を回って戻ることになる(県道40号)。途中、“夢の大吊り橋”の看板があり、どんなもんかと駐車場まで入ってみたが、ただ歩行者用の吊り橋を渡るだけだというので、やめにした。

 

山荘へ戻ればもう後藤さんの手で夕餉の支度はできている。早速、温泉に入って汗を流せば、あとは宴会が始まるのみである。いつものように賑やかな談笑がはじまり、往時のような勢いこそないが楽しく時間が過ぎてゆく。

 

異変

 

ところが、この晩は異変が起きた。恒例で善さんは宴会の途中で寝込んでしまった(もうひとり寝込むカメちゃんはまだ戻っていない)。いつもなら、もう一度起きて宴会へ復帰するか、あるいは、そのまま朝まで寝てしまうのだが、このときは違った。しばらくして起き上がったはいいが苦しそうである。お腹が痛いと何度もトイレに通う。そのうちトイレに近いからと、同じ階の台所のカウンターの前へ床を取った。そこに寝ていれば宴会をしているわれわれからも様子を見ることができる。腹痛くらいは何ということはないから、最初はさほど気にならなかったのだが、どうも様子が尋常でなくなった。我慢強い善さんのことで、少々のことで騒ぎ立てたりしないが、普通に仰臥していることができなくなり、突っ伏して腹を押さえている。こんなに苦しむのは見たことがない。いっこうに症状の改善する様子がないので、ついに山荘の固定電話から救急車を要請した。11時前だったか。

 

所要時間20分ほどと言われたが、それより早目に救急車から到着の予告電話が入った。善さんといっしょに別荘地のゲートから外部の道路へ出ると、ほどなく救急車が到着した。付き添いでぼくが乗って救急車は出発する。車内の担架兼ベッドに横たわった善さんには診察用の計器が付けられ、ディスプレイに心拍数などの波形が表示される。看護師が一人枕元について、問診をしながら容態を確認している。しかし、機器が常時発するピ、ピ、ピという音がやけに大きく車内に響く。走行中の車の騒音よりうるさいくらいだ。あれはなんとかならないものか。向かいの席で聞いているこちらはともかく、耳元で聞かされる患者はたまったものではない。

 

走行しつつも助手席から、搬送先の病院を探している電話の声が聞こえる。土曜の深夜とあって、近隣に受け入れ病院はなく、結局、済生会日田病院に向かうことになった。搬送先が決まると、運転席を経由して病院の医師からの問合せが入り、付き添った看護師が容態を伝えている。土地勘がないので、話の具合から遠そうだという以外、日田までどのくらい距離があるかわからない。やがて高速に入りどこかで降りた。どうやら天瀬高塚から日田までのったらしい。日田のICからは近かった。救急車が着くと救急用の搬入口で、医師と看護婦2名と事務方の人が待ち受けていた。善さんはただちに処置室に入り、ぼくは事務方の男性から、善さんとの関係などについて質問を受ける。この人、ごま塩頭で髭を蓄えタレントの藤村俊二に似ている。なかなか感じがいい。

 

細かいことはわからないが、こちらは処置室の前の廊下のベンチに腰掛けて待機する。検査のためか善さんは台車に乗せられて1、2度出入りしてから、廊下を隔てた別室に移動した。看護婦さんは、レントゲン検査は異常なく、念のため血液検査をするが、これも正常なら帰宅できるという。別室を覗くと、明かりを落とした部屋の中で善さんは点滴を受けていた。その間、こちらは山荘に連絡して済生会日田病院の電話番号を知らせる。もし善さんが帰れるようなら、大森氏が迎えに来てくれることになった。さすがにこの返事は頼もしかった。大森氏は事態を見越して、わずかながら仮眠を取ったという。病院までの細かい道順など説明は不要だ。電話番号が分かればカーナビで一発である。われわれの前に両親に連れられた子供がいたが、その子の処置が終わって立ち去るころには、血液検査の結果がでた。異常はないので帰宅できる。ひとまずほっとして、山荘へ電話をして迎えを頼んだ。

 

病院の玄関口に着いた大森氏から携帯が入る。それまでに勘定は済ませてあったが、いざ退出となると、薬が出るのを待って善さんの点滴の注射を抜いてと、大森氏をだいぶ待たせてしまった。別室から歩いて出てきた善さんも、もう血色が戻っていたので心配なさそうだ。帰途は、多分、同じルートで戻ったと思うが、助手席に座って大森氏と話しをしているうちにも、何度か気を失うように眠りに落ちてしまった。

 

2011年9月25日 日曜日

  阿蘇山、岡城趾

 

今日は阿蘇山を見物し、竹田市の岡城跡を散策する。台風後の快晴から日を追って雲が多くなっているが、崩れるほどではない。

 

今日、阿蘇で合流する予定だったカメちゃんは、昨夜の事で、事態が流動的になったので、山荘へ戻ることになった。列車に合わせて大森氏が迎えにゆく。善さんはお粥を口にしたものの、まだ腹痛が残っているというので、大事をとって山荘でやすむことにした。

 

阿蘇山

 

ルートは宝仙寺温泉から一山越えて小国町へ出て、さらにもう一山越えて阿蘇の町へ下る。この下りに参った。カーブの回転角が大きく、普通はこのくらい曲がると逆回転へ入るはずのところが、さらに曲がっている。これが繰り返されるのですっかり気分が悪くなってしまい、阿蘇の町へ下りきったところで、助手席の尚やんと席を交替してもらった。その下った坂が阿蘇の外輪山最高峰、大観峰の斜面であり、阿蘇の町自体は巨大なカルデラの中にすっぽり含まれている。カルデラの陥没地帯に市街地が形成されJR豊肥本線や南阿蘇鉄道が通っているのだ。地形図を見ればカルデラは一目瞭然だが、現地を走ってもスケールが大きすぎてピンとこない。市街を通り抜けてもう一坂上ると草千里の展望台へ出た。広大な窪地全面に緑の牧草地帯が広がり、池が点在する。左手に大きく中岳が見えて、ロープウェイが架かり、稜線の奥から噴煙が上がっている。これは是非、あそこまで行ってみずばなるまい。

 

阿蘇山ロープウェイの山麓駅(阿蘇山西駅)の先から有料道路になる。このあたりに車を駐めて山頂の展望台まで歩く人もいるようだ。しかし、山道ならともかく、車道の脇の歩道を登るようなので魅力はない。ロープの終点火口西駅前に大きな駐車場があり、そこへ車を駐める。火口方面を見ると巨大な火口壁が眼前に迫ってくる。火口ぎりぎりを周回する遊歩道が設けられているので、そこを一巡することにした。コースの各所に、キャンプ用のガスボンベのような形のコンクリート構造物が設置されている。まるでソ満国境のトーチカである(といっても実物は知らない)。あちらは敵の砲弾から身を守るが、こちらは噴火の火山弾から身を守る。もっともそんな事態にここにいたら、噴出したガスで先にやられそうである。遊歩道の入口に危険度を示す警報ランプがあり、赤くなると進入禁止となる。現に、途中で風向きが変わり、噴火口からの風が吹き付けると、一斉に周囲の人がむせだし、しばらくすると、こちらも気管支に刺激を感じた。

 

遊歩道から望む火口壁の迫力は、いまだこれに匹敵するものは観たことがない。アメリカのフェニックスへ仕事で出掛け、ついでにグランドキャニオンを訪ねたことがある。巨大な断層を目の当たりにする点は共通するが、あちらは4億年をかけて堆積した地層が顔をのぞかせた古老、こちらはせいぜい数10万年前に膨大な規模で爆発した若者の横顔である。さまざまな彩りの地層がむき出しになって眼前に迫り、その底に微妙な青みを帯びた火口湖が白い湯気を上げている。この湖が出現するのは火山活動が静穏なときだけで、マグマが活発になって地熱が上がると蒸発してしまうという。火口は大きく2つにくびれているが、さらに細かく見るといくつもの小さな噴出口が見え、実際に何度の噴火を経たかは把握できていない。それでも驚いたのは、こんなに硫黄濃度の高い空気にさらされた岩場のあちこちにオンタデの群落が形成されていたことだ。オンタデは雌雄異株で雄は白、雌は紅の花を着ける。緑の葉叢にその紅白を浮かべ、荒涼とした瓦礫の斜面に点在するさまは美しい。百聞は一見に如かずの陳腐な言葉を実感する阿蘇中岳であった。

 

阿蘇の次は、竹田市の岡城跡へ向かう。阿蘇からの下りは、どこを通ったのか分からないが、細い山道の途中の農場の脇に車を寄せて、冨山さんが根子岳の写真を撮った。次回の個展の画題にするという。それからさらに下って、そろそろ県道へ出るというところで、車がのろのろ運転をしているときに、なんと道路脇にヒゴタイ(ルリタマアザミ)が咲いていたのだ。九重連山の縦走では、この実物が見られることを期待していたのだが、叶わなかった。こんな下界の変哲もない道ばたに咲くものとは思いがけなかった。大草原に点々とというイメージだったから。通りすがりにちらっと見えただけだが、まだ「瑠璃玉」にならない緑の蕾だった。

 

もう昼時ではあるし、カメちゃんは早朝に家を出ているので空腹をかかえている。山道からJRを越えて県道57号へでるころには、こちらも前を走るワゴン車に携帯で催促する。ちょうどそのころ、さっき写真を撮ったところよりはっきり根子岳が見える場所にそば屋があったのだが、行きすぎてしまった。いちど、しくじるとあとはうまくいかない。いろいろあって、もう町中を過ぎてしまったところに、できたての漬物屋兼食堂があった。むくり屋根のすっきりした和風の造りで、見かけはなかなかよろしい。込んでいたので席を予約して、店の脇にある小庭園とひなびた神社をみて時間をつぶした。席が空いたので店へ入り料理を注文する。接客は悪くないが素人っぽくて前途不安。この店はおにぎりが売りのようで、食事前に出たお茶にまで親指の頭のようなご飯の塊が2つ添えてある。さらに、ここには酒は置いてない。金谷氏はピラフにしたが、なるべく早くできるように暗黙のうち残り全員はカレーを頼んだ。カレーに時間が掛かるとは予想外だったが、これがなかなか出てこない。ちょうど、厨房の見える位置に座ったので余計、中の段取りの悪さが見えてしまう。そうとう待たされて、冨山さんなどはもう爆発寸前までいっていることが気色でわかる。やっと、カレーが出てきても散発的にもたもた出てくるので、余計にいらつく。これは店のせいではないが、一番空腹を抱えているカメちゃんの皿がしんがりになってしまった。それでもまあ、なんとか最悪の事態は避けられて、店を出た。カレーが500円だから、梓の昼食としては異例に安上がりにすんだのではないか。財布を握るチャウは嬉しそうだ。

 

岡城跡

 

竹田も岡城趾もまったく予備知識がない。字を見るまで武田とばかり思っていた。九重を縦走しているときに、竹田市の境界標識があったので近いのだろうと思ったくらいだ。竹田が滝廉太郎ゆかりの地であり、「荒城の月」と岡城趾が関係するという話しは後藤さんから聞いた。まるで知らないままもなかろうと、岡城について調べてみた。築城は頼朝・義経の時代にさかのぼるらしいが、現在の城郭が構築されたのは播磨国から中川秀成が入城して以来のことらしい。関ヶ原の合戦の直前だ。中川氏はそのまま徳川時代を生き延び明治前まで岡城主だった。中川氏を調べてみると面白いことが分かった。秀成の父清秀は、信長の家臣荒木村重の側近で、この荒木村重という男は、猛者に事欠かない戦国武将のなかでも特異なキャラクターである。信長に反逆して敗北。家族、家臣を見捨てて(百余人が処刑)自分だけ生き残り、信長がいなくなると、また時流に復帰して利休の門人として名をなすのである。もっともぼくが村重の名前に注目したのは彼が岩佐又兵衛の父だからだし、又兵衛はまた歌舞伎の『傾城反魂香』の「ども又」のモデルだからでもある。まあ、初代岡城主秀成を視点にすれば、親父のご主人の息子が有名な絵かきになって、歌舞伎のモデルになったってさ、ということだ。

 

食後、うとうとしているうちに岡城跡についた。崖の下の広い駐車場で入城料を払うと、券の代わりに木芯の巻物をくれた。そのときはポケットに突っ込んでしまい見なかったが、家に帰ってから開いてみると、ミニチュア掛け軸の装丁になっていてA4を2枚縦に貼り合わせた長さがあった。表は往時の岡城の姿を描いた彩色画に晩翠の「荒城の月」の詩を配し、その裾に岡城の歴史が印刷してある。裏にもびっしりと岡城の資料が印刷されている。入城料ではもとが取れないのではと心配になるほど凝った資料だ。もっとも、こうかさばると、あとで保管にこまるのだが。カメちゃんは歩きながらこの軸を拡げ、めぼしい内容を読み聞かせてくれた。

 

地図でみると岡城周辺の地形は複雑だ。西→東に流れる3〜4本の川が城の東側で大野川に合流している。その一番南の支流の玉木川とそのすぐ北側の稲葉川が大地を深く浸食して、取り残された山というか台地に岡城は築かれている。城の北・東・南面は切り立った断崖で、さらに城内へも深く谷が入り込んでいる。城域の平面は、東へ向かって先細りになる楔形。西側底辺は700m、奥行きは1キロ強といったところか。実際に城郭となるのは、その西側半分くらい。南側は玉木川に沿ってほぼ直線的だが、北側は北東側から入り込んだ複数の谷によって複雑に波打っている。駐車場はその楔の西側に開けた台地にある。南側の崖下の下の歩道に沿って茶屋、土産物屋、しもた屋などが並んでいる。300mほど平地を歩いて坂を登ると台地の上部に達して大手門跡がある。坂を横断して一列に三角の石が10数センチ飛び出している。はじめは敵が攻めてきたときの備えかとおもったが、この石の列は坂の長手に対し直角でなく斜めに配置されている。帰りに気付いたが、これは降水を横に逃がすためだろう。

 

大手門の北に一番広い西の丸跡があるが、われわれは真っ直ぐすすんで、城代屋敷跡、三の丸、二の丸、本丸跡と見て歩いた。どこも広場しか残っていないが、本丸跡はとくに広く、東端に天満社がある。どちらに歩いても崖に限られ、都会の史跡とは違って柵がない。うっかりのぞき込むとぞっとするほど高度差がある。本丸の東南端の本当のどん詰まりが、御金蔵跡だったのには納得。本丸が建っていたころには、建物の一番奥で三方が断崖である。たしかに一番用心のいい場所だ。城域は一段下がってさらに東へ延びているらしいが、そこまでは行かなかった。後藤さんは腰痛が再発したようで、そうそうに車に引き返していた。ふと、礼文島でもそんなことがあったなあと思い出す。

 

戻りには斜面を横切って、北東へ派生する尾根にある家老(角左ヱ衛門)屋敷跡を訪ねた。礎石を発掘して床の構造だけ再現したものだが、相当な間取りである。その座敷の数に応じて手洗いも多い。これだけトイレがあるとさぞ臭かったろう、とはカメちゃんの感想。ほかにも家老宅跡が2個所あり、そのひとつは発掘調査中であった。入城券ならぬ軸の地図を見ると、重臣は城内に居を構え、他の家臣は城外の南の崖下のわずかな平地に散らばっていたようだが、七万石の家臣団の数から考えて、城から離れた場所にも武家屋敷が多くあっただろう。途中で手洗いに寄ったのでみんなと別れ、もどったときには姿は見えなかった。西の丸を見て大手門から同じルートを戻ったが、みんなは七曲がりから駐車場へ出たようだ。城趾を一巡する途中、冨山さんとも話し合ったが、この城趾の存在感はなかなかのもの。手垢のこびりついたような有名観光地のそれとは違う

 

大森氏が来がけに目を着けておいたという竹田市街のスーパーで夕食の素材を仕入れる。最初の晩は大森氏の刺身とゴトスパ、次は芋煮、3晩目は残り物で済ませた。今夜が最後だ。念入りに素材を買い集めた。さらに、帰りに小国を通って、あそこには馬肉の専門店があったから、旨い馬刺しを買って帰えろうということになった。善さんに食べたい物があるか電話をしたが、とく希望はなかった。元気は戻っているようだ。山荘に戻って昼をどうしたか訊ねたら、残り物をおかずにご飯もちゃんと食べたそうで、もう心配はない。

 

最後の晩餐は、まず馬刺しから始まる。旨い豊後牛という冨山さんの目標は叶わなかったが、これはこれで機嫌。馬肉の専門店ではじめて知ったのは「たてがみ」。馬の脂身のことだ。これをスライスしておき、赤身の馬刺しと合わせて喰う。赤身だけでも十分旨かったが、刺しの入っているものに比べればもの足りないか。まあ好き好き。そのあと、チャウが天ぷら、ぼくは安い牛肉のステーキを焼いた。天ぷらにステーキは重すぎるかと思ったがあっというまになくなった。あまり歌が盛り上がらないので、大森氏が『うわばみ』を取り出して、頭から最後まで、各曲の1番だけを歌うという歌唱指導があった。思い出すねえ、赤谷川。あのときはアンチョコもなしで延々何時間、カラオケが続いたか。

 

2011年9月26日 月曜日

  大掃除、菅原天満宮、北野天満宮、博多

最終日である。初日の快晴からしだいに天気は下り坂だったが、今日までもってくれた。最後にはじめて朝食にオムレツの注文があった。今回、朝はずっと和食で通した。食事を計画した大森氏は、経験にもとづき、朝は洋食、つまりパンより、和食、つまりご飯がずっと安くつくという結論に達したそうだ。なんとなく朝はパン食になっていたが、それなら洋食にこだわる必要もない。食事を済ませて、山荘の大掃除をする。どこであっても、使うまえより使ったあとのほうがきれいになっている、というのがわれわれのホコリである。コホン!

 

すべてが終わって出発というときに、山荘の管理人がやってきた。水漏れが2個所あったので、オーナー家が修理を依頼したという。温泉の水抜き栓が見つからずに少し手間取ったが、それは管理人氏に任せて山荘を退去した。

 

菅原の大カヤ、菅原天満宮

 

善さんは朝の散歩で見てきたらしいが、山荘の近くにある菅原天満神社を訪ねてみることになった。参道は急な階段だというのでワゴンは神社裏の駐車場へ向かったが、セダンはショートカットで参道の下に着けた。神社より興味があったのはカヤの古木である。カメちゃんは名前だけでもう残っていないというが、見損なっているのかもしれない。神社の垣根に「菅公ゆかりの榧の大木(樹齢千五百年)」の看板が立てかけてある。どこかに吊してあったものが、落ちたらしい。神社の丘の麓を見わたしてみると、田圃の向こうの丘に寺があり、その下にこんもりとした木叢が見えるが、大木というには高さが足りない。わが鹿行地方には20mを超えるカヤは珍しくない。神社の丘に沿って農道をだいぶあるいたが、それらしきものはない。残る可能性はあの木叢だ。引き返して畦道を横断して近づいて見ると、間違いない。丈は10mないくらいだが大きく枝を広げた古木が待ちかまえていた。すでに神社に着いているカメちゃんから、今日は神社の祭日で儀式が始まるから早く来いと催促がある。しかし、古木の魅力には勝てない。何度か周囲を巡りつつ、じっくりと拝見。カヤの古木の周囲にカヤの若木などが生え、護衛のように取り巻いている。古木の通例で主幹は失われ、幾条かに分かれた幹が立ち上がって、樹冠を形成している。10人合わせて抱えられるかという太い根幹には注連縄が巡らされ、蒼枯たる樹皮には緑の苔が生えている。本来、この御神木を守るべく建てられたはずの石柱の垣根は、このカヤを頼るかのように寄りかかっていた。これから訪ねる天満宮は、管公がこの地を訪れたときに、このカヤの枝を切り、自ら刻んで作った像がご神体という伝説があるそうだ。

 

カメちゃんの再三の催促で、神社の階段を駆け上がる。お祭のせいもあるのだろうが、境内は整然としている。まず目を引くのは、黒漆の地に金細工がほどこされた神輿。真新しい白の木綿布と朱の飾紐で担ぎ棒にしっかり縛りつけてある。神輿の側には、赤い日傘、錦糸の幡、獅子頭、天狗の面など渡御の道具立てが、苔生した石碑や石塔にもたせかけてある。神社の深い木立に囲まれてこうした極彩色のアイテムが展開する模様は、日本的「地味・派手」とでもいえばよいか。なにかこちらの心を揺さぶる風情がある。拝殿には村人が参集して宴たけなわである。先着したカメちゃんらは、しきりに食事をしていくように勧められたそうだ。最終日でなければ、よろこんで参加させてもらったかもしれない。このお祭を中継しようと準備している地方テレビ局の撮影スタッフも境内を賑わせていた。

 

太宰府天満宮

 

やっと念願叶って“超”有名観光地を訪れることができた。高速を降りて幹線道路を走り、細い地方道を通ってやっと駐車場に着く。お正月などはさぞかし混雑するだろう。そこから、どこでも同じような参道を歩いて、西鉄太宰府駅前を横切り、さらに歩く。どうやら、ここは「梅ヶ枝餅」が名物らしい。参道の両側、どこにでも売っている。参道は寺に突き当たり、左折すると大きな鳥居があって、朱塗りの太鼓橋がいよいよ天満宮への雰囲気を醸す。鳥居をくぐってすぐに気付くのは、この境内にあるおびただしい数のクスの巨木だ。どれもこのうえない環境でよく手入れされすくすく育った感じがする。

 

最初の太鼓橋を渡って右手に志賀神社がある。小さな神社だが、まず目に着くのが二重の唐破風。大棟のすぐしたから張りだした向破風の下に、さらに軒にむくりをつけた軒唐破風を重ねている。天井裏の木組みも、ただ大規模な寺院のそれを縮小しただけでなく、細い材の隅々にまで計算された意匠がほどこされている。

 

太宰府天満宮の楼門も本殿(ここは拝殿と本殿が分かれていない)も朱塗りキンピカで壮大である。本殿はどっしりと荘重な屋根を戴いて安定感がある。宇佐神宮の朱色と比べると小豆色に近く落ち着きがある(本当はこの色は“朱”とはいわないのかもしれない)。まあ、そういうことである。鏡を中央に三宝や幣などきらびやかに並ぶ殿内を眺めて、右脇にある「飛梅」の写真などを撮る。なんだかしらないが、参道の中央で韓国語でやたらに声高に喋っているオジサンの声が耳障りであった。

 

左の回廊の門をくぐって本殿の裏へ回った。ずらりと末社がならび、本殿の裏塀に沿ってびっしり絵馬が掛けてある。そのさらに奥へ進むと梅園があるが、この時期では見る甲斐もない。時間があれば甘酒でもとおもうが、また東大寺のときのようにみんなの顰蹙をかいそうでやめた。しかし、ここにもクスの大木があった。「夫婦楠」と天然記念物「大楠」である。巨木・老木に応接のいとまのない天満宮境内でも、樹齢1000〜1500年といわれる屈指の古木であるらしい。わが西蓮寺の大銀杏は樹齢1000年ほどだから負けそう。でも、道真より最澄のほうが先輩なんだがなあ…関係ないか。

 

大楠を最後にそろそろ退散しようと歩いているとチャウや善さんと合流し、一緒に参道を戻る。ふふふ、ここで梅ヶ枝餅を食わねば機会を失する。いちばん暇そうで、年寄り夫婦だけでやっている店があったので3つだけ買って3人で食べながら駐車場へ戻った。薄い焼き餅で餡をくるんだだけだが旨かった。

 

福岡空港、博多

 

大森氏らがレンタカーを返しにゆくまえに、ほかのものは空港に降ろしてもらい、手押し車で全員のザックを手荷物の受付前に運んだ。しばらくして、全員が揃って受付を開始する。羽田の時はすいすい通ったのが、今度は次々に検査に引っかかる。まず大森氏のザックはステン鍋のなかにガスボンベを入れていたのが発覚。ザックを宅配便に切り替えて送った。大森氏に訊かれて、ステンのなかならレントゲンは通るまいと話したが甘かった。もしそうなら、いくらでもテロができるわけだ。ぼくのザックもひっかかった。ライターが入っているという。くるときも入っていたはずで、羽田では何事もなく通過している。ほかにも引っかかったメンバーがいたようだが、機械の精度か係員の熟練度か、はたまた扱う荷物量の多寡が影響するのかわからない。検査条件が一定でないことだけは間違いない。この検査所は羽田と違って、荷物を提出して後に回ると、検査員が目視しているディスプレイの画面がだれにでも見られるようになっている。それを見ていると危険物候補が色分けして表示されるようだ。みんなも一緒に見ながら、あれは鍋だのシャモジだのと面白がっている。のんきなものだが、その眼前に検査後の荷物が出てきて、まただれでも触れることができる。悪意があれば検査済みの荷物に何かを入れ込むことさえ可能である。こんな検査でいいんかね。

 

手荷物の受付を済ませて全員で博多へ向かった。今日は昼抜きの早宴会だ。こっちは福岡と博多の区別もよくつかない。博多は空港から地下鉄で2駅。表へ出ればどこの大都会も似ている。時間にゆとりがないので、手っ取り早く駅前の地下の焼鳥屋で仕上げの宴会となった。まだ準備をしている時間でほかに客はいない。はじめは焼き鳥の仕込みをしているお兄さんだけで、どうも反応がかったるい。また誰かが苛つかないか心配になるほどである。ここでも馬刺しを頼んだが昨夜のようにはいかない。専門店だけに焼き鳥は合格。そのうち店員の数も増えて、客もぼつぼつ入ってきた。このメンバーは鶏肉より皮だの砂肝だのと周辺の部位が好みである。ここで俄然元気になったのは赤帽タリバン氏である。豚足が気に入ったと、何皿お代わりをしたことか。こっちも肉気、脂気は好きなほうだが、あの健啖ぶりには参った。はじめは愛犬のためにと残った骨を袋に入れてポケットに突っ込んでいたが、最後にはもう要らないと残した。イヌにも飽きられそうということか。

 

大勢で博多まで出ると、無事戻れるか心配だったが、だれも欠けずに空港へ戻った。そろってチェックインして機上の人となる。これで長らく懸案だった記念旅行は終わった。ずいぶん前から期待していた旅だが、始まればあっという間に終わってしまった。さて次は、恒例になりそうな佐久川喜多農場ベースの日だまりである。

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