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2011年梓ひだまり山行 閼伽流山・佐久平(川喜多農場)

梓編年

参加:冨山、後藤、鈴木、高橋、大森、田中、亀村、中村、橋元

金谷さんが不参加になった理由は後藤さんから聞いていましたが、その話の印象より大分ひどい目にあったようです。金谷さんから後藤さんへのメールを下記に引用します。

忘年会で箱根へ。金時山(猪鼻嶽、1213m)へ独行を試みましたが、頂上で足が攣り、あわやレスキューの世話になるところでした。無理して下山したものの、日がとっぷりと暮れ、道に迷うこと2時間。藪漕ぎと転倒の連続でえらい目に遭いました。目下、全身筋肉疲労で動けません。9日の川喜多邸行きまでに治るかどうか、です。

ということで金谷さんが参加できないのは残念だったが、後藤さん経由でシーバス、オックステールなどの差し入れ多々あり、多謝。

12月9日 金曜日

7時東京駅北口に集合。

田中車(冨山、後藤、亀村)。亀チャンが会社帰りにネクタイ姿で運転。

大森車(鈴木、高橋、中村、橋元)。

 

佐久川喜多農場10時過ぎに着。今回は川喜多さんが不在で、家に入ると小さな羽虫がいたるところにうごめいている。まず、各部屋の虫を掃除機で吸い取ってから宴会となった。

一杯をやりながら、明日の行動を話し合う。散策組は後藤さんの下調べが行き届いているが、山組は登るべき山が決まらない。ぼくは「信州山歩き地図」から去年登った独鈷山の別ルートと、その近くの夫神山、女神山などの資料は持参していたが、どれとも決まらないうちに宴は果てた。

 

12月10日 土曜日

朝食は九州旅行から和食が定番となった。今日は山組6人(鈴木、高橋、大森、中村、亀村、橋元)、散策組3人(冨山、後藤、田中)と別れるが、車は5人乗り2台だ。登山口まで2台で移動してから分散できるように、尚やん持参の「信州山歩き地図」コピーのなかから閼伽流(あかる)山が選ばれた。変わった名前だが、南麓に閼伽流山明泉寺があるので、山号がそのままの山名になっている(因果関係は不明)。辞書には「閼伽」はサンスクリットの水(argha)を漢音に移したものとある。サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族だから、語源はラテン語の水(aqua)と同じだ。とくに仏教関係では仏前に供える水のことを指す。ここまでは知っていたが「閼伽流」は知らなかった。2、3当たってみたが、要は単純に“水流”の意味で使ったらしい。この寺の寺域に湧き水があて、それに因んだ山号ということで閼伽流山としたのだろう。

閼伽流山

明泉寺の駐車場に車を駐める。参道脇の急坂は近所の野球部の中学生らで賑やかだった。ここをトレーニング場にしているらしい。駐車場から急な階段を上ると明泉寺だが、そちらは後にする。予定通りここで散策組と別れて、まず閼伽流山中腹の観音堂を目指し山道を辿る…………とわかったように書いているが、これは後知恵で、この山のことはまったく知らなかった。

快晴無風で空気はきりりと冷たい。年末の日だまり山行には文句なしの天気だ。山道といっても観音堂までは車道が伸びている。われわれ以外に人影はなく、木立に囲まれた明るい道に、わずかな積雪が冬山らしさを添えている。

この地方の人たちは石碑がお好きなようである。あちこちに大きな石碑が目に着く。なかに「南朝の忠臣 香坂高宗」を顕彰するものがあった。香坂高宗については知らなかったが、南朝というと神皇正統記でだいぶつきあったのであとで調べてみた。1338年旧暦9月、常陸・東北へ向かう南朝の総帥北畠親房の率いる船団が上総近くで遭難し、親房が霞ヶ浦へ漂着する出来事があった。同じ船団には後醍醐の皇子、義良と宗良が別船で同道している。前者は後に後醍醐を継いで南朝の帝となる後村上、もうひとりは宗良親王だ。この親王は遭難後、遠江(静岡)に漂着する。その後各地を転戦するが、香坂高宗はこの親王に扈従し行動を共にした武人で、この閼伽流山に城を構えていたという(宗良も入城したという説がある)。そんなことから、明治期の王政復古の勢いに乗って南朝の忠臣として顕彰されたのだろう。宗良親王も天台座主から還俗して軍団を率いるという特異な経歴を持つ。

道路の両側に杉の巨木が現れるあたりに「閼伽流城趾登山口」の標識があったが、道らしきものは見えなかった。多分、標識の奥に見えるルンゼ状の地形をよじると城趾に至るのだろう。標識の周囲に「閼伽流の4本杉」と呼ばれる杉の巨木が4本そびえ立っていた。

閼伽流山の南側は比高30mほどの断崖と急斜面で守られ山城に適した地形だ。観音堂は、その断崖の付け根に開けるわずかな平地の奥にあった。境内入口の山側に鐘楼があり、平地側に大きな休憩所がある。もちろん無人。山道の途中で、断崖の存在は林を隔てて感じてはいたが、ここにきて俄然目の辺りに迫ってくる。その垂壁の裾に添って多数の石仏が並んでいた。行きがけには気付かなかったが、断崖からしみ出した水が岩に掘った凹みに溜まって貯水槽のようになっていた。もしやそれが閼伽流の由来か。ただし、滞留しているせいもあって手を洗ったり口をすすぐような清潔な水には見えなかった。

観音堂の屋根に薄く雪が積もっていて、ときおりバサッと音を立てて一部が落ちてくる。屋根は銅葺きだが、もともとの茅葺き屋根を銅で覆ったのだろう。お堂の正面に「千手観音」の扁額が架かっていた。素通しの格子戸から中を覗くと厨子が見えるが、開扉していない。格天井には鮮やかな色彩で花鳥風月の絵が描かれている。境内を一巡して、お堂の南側から裏へ回ると「御野立所(仙人岳)/芭蕉句碑」の案内板がある。閼伽流山の名前がどこにもないので、絵地図を持っている尚やんも少し迷ったようだが、ここ以外、境内から先に延びる道はない。案内の指し示す方向は断崖と断崖の切れ目になっていて、その沢状の斜面にジグザグに道が延びている。少し登っただけで観音堂の屋根がすぐ足下に見えるほどの急登である。少しの登りで岩壁の先端に飛び出す。薄暗い岩の狭間を登って来ただけに、ここからの景観は感動的である。八ッの山並を遠景に佐久平の展望が楽しめる。この見晴台には金属製の小振りな亭があり、脇に「摂政宮殿下御登臨之處」の石碑がある。下の案内に「御野立所」とあたので、摂政時代の昭和天皇がここで茶でも喫したかとおもったが勘違いのようだ。野点なら茶会に間違いないが、「野立ち」ならここで周囲の景色を眺めたという意味しかない。摂政宮が立ち寄ったというだけで、史跡になり記念碑が建つ。北朝鮮を笑えない時代が日本にもすぐ近くにあったのだ。この野立場は山頂とは思えないが、ここが仙人岳と呼ばれている場所らしい。振り返るとまだ先にも岩壁が立ち上がっている。少し道を戻って登高をつづける。

少しの登りで斜面が緩やかになり、狭い谷から明るい疎林の窪地に出る。一面に敷き詰められた落葉に10cmほどの積雪があるので踏み跡は判然としないが、両の掌を合わせたような地形そのものがルートの方向性を示している。緩やかな斜面の積雪をサクサク、枯葉をガサゴソと踏んで歩くのは楽しい。あまりこの山に気乗りのしなかった大森氏も、思いがけず収穫だとつぶやいている。この窪地は緩やかな稜線へ出て終わる。稜線出合から右へとってすぐに、まだ若いブナの幹に「閼伽流山」の看板が掛かっていた。林の中で展望はなく、周囲に比べればここが一番高いかというほどの場所で、看板がなければ通り過ぎてしまいそうだ。記念写真を撮ってそうそうに引き返した。それにしても、冬場とはいえ汗ばむこともないほどの軽い山に、梓が全員揃って登れなくなったというのは一抹の寂しさがある。

山頂で乾杯という雰囲気の場所ではなかったので、カメちゃんがせっかく背負ってきたビールと摘みが手つかずであった。しかし、観音堂まで戻って一休みしたとき、有志?は合鴨のスモークを摘みに一杯となった。いや、美味かったなあ、あのモルツ。

明仙寺の駐車場で散策組と合流。佐久平駅近くの「佐久の草笛」で昼食後、後藤さんの下調べに従って、旧中込中学校、龍岡城五稜郭、新海神社、貞祥寺を訪ねる。どれも一見に値するもので、佐久の人々には悪いが、このような小さな盆地にこれだけの文化財が残っていることに驚く。

旧中込中学校

明治期の学舎は登米、伊豆、松本などでも訪れている。どれも立派な洋風建築で、欧化を急ぐ人々の意気込みが共通する。おそらく当時の農村の人々はこの建造物を見て、われわれが子供時代に手塚治虫の漫画に描かれた未来都市を見たときのような感動を覚えたのかも知れない。入場券とともに配られた佐久市教育委員会の資料には、この建物の建築費がほとんど住民の寄付によって賄われたとある。撮影年代不明の写真に写るキャンパスが一面の水田で囲まれているのが印象的だった。

龍岡城五稜郭

幕末期に、先取の気性あふれる藩主が造営した西洋風の城趾。いまは小学校の一部として保存されている。城壁の一部は失われて五陵の2角を欠くが、原形を想起させるには十分である。城壁が完全であっても、これで戦争ができたとは思えないほどかわいらしい城趾である。日本の城郭には珍しい、浅く折れ曲がった堀割に薄く氷が張っていた。

新海神社

佐久の総社で、三社神社とも呼ばれるように祭神が、オキハギ、タケミナカタ、コトシロヌシ(相殿でホムダワケ)の三柱。タケミナカタはオオクニヌシの次男で諏訪の祭神、コトシロヌシは同長男。ホムダワケは梓九州旅行で訪れた宇佐の祭神応神天皇。ところでオキハギ(興萩)は知らなかったが、佐久の祖神でタケミナカタの子とあるから、オオクニヌシの孫になる。ホムダワケを別にすると、出雲系の神々ということになる。オキハギとタケミナカタを結びつける説話は一応あるようだが、この地の産土神が出雲の神に習合したものだろう。

社の建物群も大きな構成で、なかでも驚いたのは境内北西にある三重の塔。このあたり湿度が高いらしく木材の腐朽が進んでいるようだが、バランスの取れた見事な塔である。明治維新の神仏分離の風潮のなかで、おそらくは取り壊しの圧力が相当強かったと思われる。が、これを社宝の保存庫として難を逃れた。なんだかほっとする話しである。これまで神仏習合と聞くと不純でいい加減な俗習のように思っていたが、各地の寺社を観察するうちに考えが変わってきた。日本人は外来の文化を比較的素直に受容して、この地の風土に順化させ自己の滋養としてきた。それは宗教でも同じで、外来の仏教を同じような精神態度で日本の土着の神の世界と融合させたのではないか。唯一神教といわれるキリスト教でさえマリア信仰がある。あれは、中東で生まれた絶対神が地中海文化に入り込む際に生じた異種神の習合以外の何者でもないと、わたしには思える。まあ、歳のせいでいい加減になったちゅうこっちゃ、と嗤われそうであるが。

曹洞宗貞寺

後藤さんの話しでは海外からも研修者を受け入れている有名な禅寺だそうだ。駐車した位置からだと、側面の厨房か宿泊施設のような建物脇から境内に入ることになる。あらためて正面方向から入り直してみた。総門から山門へと、深い木立に囲まれて苔生した庭園を縫う参道の石畳を歩いてみると、奈良や京都の深山の古刹に負けないほどの風情がある。総門は簡素だがガッシリした茅葺きの薬医門(柱に対して屋根が前架かり)、山門は三間の堂々たる楼閣造でこれも萱葺き。山門の茅葺き屋根の棟に、さらに笠を差すように屋根が架かっていて、それがまた箱棟のように面白い装飾になっている。当初は、一番傷みやすいという棟の部分の茅を保護するのが目的だったろう。

山門の左右に内郭の回廊が接続していて、その折れ曲がる位置に鐘楼がある。回廊の角に鐘楼のある光景はどこかで見たが思い出せない。この三間幅の山門の左右各一間に像が安置されているので仁王さんかと思ったが違った。阿吽の形象は共通だが、持国天、増長天と説明板が架かっていた。この像のできばえもなかなかの水準に達しているように見える。

さらにここにも三重の塔※があった。新海神社のものより時代は下るようだが、最上部の宝輪から各層の屋根が織りなす重層的な構造と、壁面を飾る複雑な木組みや欄干の取り合わせがうまく均衡している。境内を出がけに後藤さんから、近くに藤村の旧宅が保存されているときいた。近くとはいっても離れた場所かと思っていたが、実際には境内の一部にあるそうだ。延々と『夜明け前』につきあっていることは前にも書いたが、このところ梓クロニクルの復刻に取り紛れて最後の一冊で頓挫している。再開せずばなるまいが、どうも暗い結末になりそうでためらいもある。

※ このサイトに、松原湖近くにあった松原神光寺の解説があり、この寺が明治期に廃寺となったとき三重の塔が「信濃貞祥寺に明治3年金112両2分で売り渡される」とあった。明治維新も罪なことをしたものだ。廃仏毀釈の傷跡がいまも各地に残されている。

斎武鯉店

農場へ戻る途中でここへ寄った。佐久へ来る前から「洗い、洗い」と騒いでいたのだ。以前、ここで仕入れて川喜多邸で食べた鯉の洗いの味が忘れられなかった。養殖池は別にあるらしいが、ここの深い生け簀から大きなタモでしゃくって、バシャバシャと元気良く跳ね回るやつをまな板にのせて、ばっさり頭を落とす。それを三枚に下ろしてから、ジャージャー水をかけて血を洗いながら薄切りにする。尚やんも言っていたが、まさに洗いである。できれば魚は自分でおろしたいが、いくら料理好きでも、この真似はできそうにない。ちょうど1キロあって3200円。店の値札には100グラム320円とあるので、1キロなら当然その値段になるが、まるごと一匹捌いたものがちょうど1キロとは考えにくい。余ったものは小売にするのか、あるいはサービスしたのだろうか。ちょうど居合わせた地元の人が輪切りで買った二匹分のアラを引き取らなかったというので、こちらのアラに足してくれた。

この日の宴会は当然、鯉の洗いと鯉コクがメインになる。9人に1キロは多すぎるのではと大森氏は心配していたが、2皿に山盛りの洗いはあっというまにはけた。鯉の洗いというと、ウナギ屋で焼き上がるのを待つまの一杯につきもの。しかし、ここの洗いの食味は次元が違う。ウナギと寿司は江戸前に限ると断言してきたが、鯉の洗いだけは佐久に限る。鮮度だけではなく、鯉の品種や養殖の技に秘密があるのだろう。もらいものと合わせて3匹分の鯉コクは、これもたちまちなくなった。ハラスのとろっと溶けるような食感がたまらない。

 

12月11日 日曜日

天気は今日も文句なし。ただし、気温は大分ゆるんだ。朝食後、お礼を込めて川喜多邸の大掃除をして出発。

上野一之宮貫前神社

この神社は富岡市街西端の丘に位置する。参道前の駐車場に着くと、ここでも参道の階段や並行する坂道をトレーニング場にしている生徒達で賑やかだった。この地区は12月に七五三を祝う慣習があるのか、駐車場には七五三の幟が立ち、それらしき子連れの参拝客を多く見かけた。

貫前神社の祭神はフツヌシ。佐原の香取神宮と同じである。鹿島神社や八幡~社などは、本社があって全国各地に勧請して末社を置くという系列形式をとることが多いが、フツヌシの神社の場合は、あまり系列は聞かない。同じフツヌシを祭神とする貫前と香取や石清水などにとりわけ関係はないようだ。この違いはどこからくるのか興味が湧いた。この神社は社殿の配置が変わっている。丘の上に神社があるといえば、麓に拝殿と本殿があって頂上に奥社があると考える。ここでは、正面の参道の階段を上ると普通の住宅街へ出てしまい一般道に車が走っているので一瞬おやおやと思う。その先に神社らしい総門が見えてやれやれである。総門をくぐると、なんと下りの階段があり、その降りきったところに社殿が見える。寺社の主要な構造物が参道から下った位置にあるのは、ぼくの経験では、京都東山の泉涌寺と比叡山延暦寺の根本中堂くらいしかない。階段を下る途中、左側に月読神社がある。「つきよみ」とあったが「つくよみ」と読むことが多い。ツクヨミはアマテラスの弟(妹?)、スサノオの兄(姉?)で、月あるいは夜の神とされるが、古事記でもイザナギのミソギで誕生したという話以外に出てこないのではなかったか。不思議な神さまで神社もあまり多くない。

残念ながら修復工事中で本殿や拝殿は保護幕で覆われて全容を見ることはできなかった。本殿の修復は一部終わっているようで、足場の奥にその片鱗をうかがうことができた。徳川将軍家の庇護を受けたというだけに、日光東照宮や鹿島神宮などと共通する華麗な様式が見える。東照宮と比べるのは酷だが鹿島神宮と比べても、壁面装飾、檜皮葺の屋根の厚みなど、どれをとっても縮小・簡略化された印象があった。

貫前神社のあと、富岡製糸場へ行くにはいったが、一見の価値ありというレンガの壁面が工事用のシートで覆われていたのでパス。富岡バイパスに並行する川の脇の「かつ庄」で昼食をとり、大森車(鈴木、高橋、亀村)、田中車(冨山、後藤、中村、橋元)に分乗して解散となる。われわれは田中車で新宿駅まで送ってもらった。

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