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笠新道 2012年8月3日〜6日

梓編年

鈴木、大森、中村、橋元

以下のタイムは善さんがiPhoneの録音機能で吹き込んだもの。iPhoneはこればかりでなく、現地の地図の確認や山座の同定に大活躍。時代は確実に変わった。

記録(鈴木)

笠新道 2012/08/04
06:03 新穂高ゲート通過
07:16 笠新道登山口
07:53〜08:03 笠新道ベンチ休憩
08:50〜09:05 笠新道1800地点休憩
10:13〜?? 休憩
11:02〜11:36 大休憩(2150地点)
12:32〜12:55 扚子平
14:00〜14:15 抜戸岳直下休憩
14:37 抜戸岳稜線
15:10〜15:15 休憩
16:04 笠ヶ岳テント場到着
秩父平往復 2012/08/05
07:50 笠ヶ岳テント場発
09:10〜09:18 稜線休憩
10:10〜11:50 秩父平
13:00〜13:07 抜戸岳
14:40 笠ヶ岳テント場到着
笠新道下山 2012/08/06
06:15 笠ヶ岳テント場発
07:40 抜戸岳発
08:40〜08:57 扚子平
10:07〜10:15 笠新道 休憩
11:50〜12:03 笠新道登山口
13:00 新穂高着
 

 

新穂高温泉へ 8月3日(金)

大森氏が、昨年天候不順で流れた笠ヶ岳登山を再企画してくれたので、早々に手を挙げた。本格的な山行に参加できるのは、いまや梓では5名ほど。寂しくなった。行程立案、食料計画、調達、さらには車から運転までほとんど大森氏におんぶにだっこである。

 

東京駅丸の内側3時集合に合わせて、早昼を食べ家を出る。高速バスの車中で大森氏から、おもわぬ渋滞に遭遇し遅れると携帯で連絡が入る。こちらも同様に、普段はあまりない渋滞で遅れた。どうやら、チャウだけが定刻に着いたようだ。結局、20分ほどの遅れで大森車(善さん)が到着し、新穂高温泉を目指す。

 

就寝前の軽一の用意はあるというが、少し間があるので、軽く腹を満たすため諏訪のサービスエリアに寄る。ついでに、まだ用意していなかった行動食も買って、名物というお焼きを食したが、これが驚愕的に不味い。先に行動食を買ってしまったことを後悔した。こういう独占的な商売をしているところより、競争の激しいコンビニのほうが品物は上等だ、とは大森説である。

 

松本で高速を降りて上高地方面へ向かう。何度通ったかしれない街道だ。ただし、安房トンネルは今回はじめて通過する。以前の記憶で、中ノ湯の下手に工事現場があったと思い込んでいたが、釜トン直前まで行ってUターンして、旧峠越えと同じ道に入ったのは意外だった。トンネルの入口は従来の道が中ノ湯を通り過ぎた先にあった。

 

松本側から高山まで安房峠を往復して白骨温泉に泊まったことはあるが、新穂高方面の道はまったく走ったことがない。なんだか延々と暗闇の坂を下る印象。やがてスノーシェルターの側面に登山者用の無料駐車場の案内が出てくるが、立て看板には赤い文字で「満車」とある。かまわず駐車場とおぼしきところでシェルターを出る。なんとか駐車スペースはあるが車道間近で落ち着かない。そろそろ車酔いの症状が出ていたので、場所確保のため善さんと一緒に車を降りる。大森氏とチャウはさらに奥まで様子を見に行った。多少の行き来があって、奥にはさらに広い駐車場があり満車ではないとわかる。駐車と今夜の幕営スペースを得てようよう落ち着いた。

 

車酔い前期症状であまり幕営の手伝いもできないので、前夜祭?で使う水を探しに周辺を歩いてみた。こんな時間だというのに、駐車場の係員がまだ見回りをしている。駐車場の入口まで戻って探したが水道らしきものはない。ちょうど入口方向から歩いてくる係員に訊ねたが水場はないとの返事。しかたなく雑談をしながら車へ帰ろうとすると、その係員が意外にも「水を持ってくか」という。いや、それは申し訳ないと一応辞退したが、ちょうど通りかかった彼の車のバックドアを開けると2リットルのボトルがたくさんデポしてある。水道がないのでいつもこうして用意してあるのだという。ありがたく、その1本を頂戴して車へ戻った。

 

大森氏の用意してくれた、シメサバ、カツオなどにスシで軽く前夜の宴を張ったのはいうまでもない。われわれは車の通路側にテントを張ったが、さきほどのとは違う係員がやってきて、危険なので車の奥にテントを移せという。宴会の最中に移動もできないから、寝るときには移すと断って宴をつづけた。そういえば昔、早池峰の駐車場で、同じような情況で車を移動するよう係員が要請してきたときに、「酔っ払い運転を強要するのか」と断ったことがある。まあ、今回はそこまではいわなかったが。

 

笠新道 8月4日(土)

 

まだ薄暗いうちにテントをたたんで、バナナと牛乳で軽い朝食を済ませて、新穂高温泉へ向かう。駐車場を奥へ進み蒲田川の河岸へ出る。歩道の両側にオオウバユリがたくさん咲いていたが、わが携帯では暗くて撮れそうになかった。やがて車道へ合流し、新穂高温泉までは10分ほど歩いた(600m)。以前は道路が行き止まりになっていて、正面にバス停やら案内所などの建物があったように記憶するが、いまは取り壊しの工事中。その前の広場が大分広がって、左手に立派なトイレができていた。われわれは車道に従って蒲田川を右岸へ渡り、しばらく歩いて、左岸へ渡り返したが、徒歩の場合は、ロープウェイ駅方面へ直進したほうがショートカットになる(帰途気付いた)。

 

林道ゲート通過(6:30)。1時間強の林道歩きで笠新道入口に着く(7:00?)。ここから10分ほど林道を進めばワサビ平に至る。1986年夏山黒部〜高天原の下山時、冨山さんの腰痛騒ぎで懐かしいところだ。入口の左手に樋を引いた水量豊富な水場がある。体と水筒にたっぷり水分を補給し、いよいよ本格的な登りである(7:16)。近ごろ流行の山岳ランナーらが、「小屋まで3時間ですね」などといって足取りも軽く登っていった。われわれは何時に着くことか。

 

最初の1本でチャウが目眩がするというので荷物を少し引き受ける。次の1本で、大森氏が不調を訴え、見れば顔色がひどく悪い。朝の出がけのバナナも食欲がなく食べられなかったという。今度は善さんが一部荷物を引き受ける。こちらも順調だったのは、このあたりまでで、3本目を過ぎるころには相当に応えてきた。それでも天気は申し分なく、気温も低い。樹林帯を抜ける風の涼しさが、萎えそうな気力を奮いたたせてくれる。

 

高度を上げ樹高が低くなるとともに太陽の直射に曝される。その代わりにというか、蒲田川左股の対岸、中崎尾根の向こうに壮大な穂高連峰が姿を見せてくる。まずは焼岳が、つづいて、その右手に乗鞍が姿を現す。このコースはちょうど穂高連峰と相対する斜面を、ジグザクを切って登って行く。標高が2,000mを超えてそろそろ高木が姿を消すあたりで、槍から南岳、北穂、奥穂、ジャン、西穂と、穂高連峰がその全容を現す。

 

あと1本で杓子平かというあたりで大休止をとった(4本目、2,150m、11:02―36)。これまでの登りは穂高の雄姿は終始視野にあるのだが、肝心の笠ヶ岳はまったく見えない。このルートは、杓子平を懐に抱くように抜戸岳から張り出す尾根の外壁を這い上がっているからだ。見あげれば何条もの岩塔の間を緑の薮が埋めているばかりで、いっこうに変化がない。

 

行く手を遮るような斜面もそろそろ終わるかというころ、潅木の隙間を縫う小さな峠を越えるようにして、杓子平に飛び出す。やっと、抜戸から笠へかけての稜線と、さらに笠から錫杖岳へと続く尾根の全容を見る。穂高連峰も勇壮だが、笠ヶ岳を盟主とする北ア最南西端の山塊も間近なだけに一層迫力がある。丈の低い薮のひとくぐりで、この景観の切り替えは劇的。この峠に小さな塔でも立てれば、その双方を同時に展望できるかと思えば爽快である。

 

杓子平(12:32−55)。杓子平へ入って笠ヶ岳は視野に入ってきたが、まだ信じられないほど遠い。休憩しながら地図を見ていた大森氏が、杓子平から縦走路へ抜けるルートがおかしいという。彼の地図のルートは抜戸の先で縦走路へ抜けるはずなのに、先行する登山者は抜戸を目指して登っているというのだ。チャウの買ったばかりの最新の地図と照合してみると、現在のルートと大森氏の地図のルートが異なることがわかった。自然保護か安全性の理由で、変更になったのだろう。ただ、シャクなのは旧道のほうが笠へは短距離で、現在のルートは大分大回りになることだ。休憩した先に通行止めのロープが張ってあり、その先に廃道が延びていたし、縦走路に出てからも、抜戸岩の手前に進入禁止になった合流点の跡を確認できた。縦走路からの踏み跡がさだかではないので、崩壊しやすい斜面なのかもしれない。

 

杓子平をトラバースする道はゆるやかに起伏するが、抜戸への斜面にかかると急斜度の登りに戻る。それでも救いは雪渓の残る斜面にやっと登山道を横切る水流を見るようになることだ。笠新道の入口からここまで水場はない(もう少し早ければ杓子平の中でも水は採れるかもしれない)。抜戸岳直下で1本(14:00―14:15)立てて、縦走路に抜ける(14:37)。稜線に出れば双六から黒部五郎へかけての山並が視野に入ってくるが、いまはその山座を確認する余裕もない。ひたすらあの、たどり着けないほど遠くに見える笠のキャンプ場を目指さねばならない。抜戸岩通過(15:37)。

 

稜線で1本入れて、笠ヶ岳キャンプ場着(16:04)。善さんが、大森さんは4時前に到着を目標にしていたのにというが、こちらは重荷から解放されただけでも嬉しい。このキャンプ場は、笠ヶ岳の山頂へ向かって斜度を増す岩だらけの斜面にあって、とば口から小屋までは50mほども標高差がある。とりあえず一番下方の整地された区画に荷を下ろす。大森氏が情況を偵察にいったが、キャンプ場は結構混んでいて、適当な空き地はないという。そのまま現地に幕営することにした。水場は近いがトイレは小屋までいかないとないようだ。例によってみんながテントの設営にかかるあいだ、こちらはビールを冷やす。テントの散在するサイトの脇には、大きな雪渓がまだ残っていて、その下端が水場になっている。水汲みがてら近くの雪渓の雪をコッフェルで掻き取ってレジ袋に詰めて戻る。雪の中に缶を突っ込めば、冷やしは完璧である。

 

大森氏は夕食のサラダを、チャウは自作のラッキョウ(醤油漬と甘酢漬)を出し、キュウリの和え物の準備などをする。今晩のメインを牛にするか豚にするかだが、牛より豚のほうが傷みが早いというので豚になった。チャウが人形町の今半で、奮発して買ったというロースである。ビールが冷えたらまず乾杯。できたつまみで宴会開始だ。すぐ隣は、おかしなテントで、30代そこそこの男1人とあとは女ばかり。話しっぷりから男がリーダーなのはわかるが、いったいどういうグループなのか謎だ。女性は、山のベテラン風もいれば、妙に媚びた話し方の山ド素人もいる。ワンゲルかとも思ったが、大森氏の推理では、ワンゲルはこんなに甘くない、これはきっと会社の山岳部に違いないとのこと。さらに、翌日の観察結果も先取りする、そのうち「かさばらなくて重いものはわたしに」などと、善さんのような話をするベテラン風女子は、男の女房に違いないというのだ。ま、どうでもいいんだけど。

 

宴会は始まったもののあまり盛り上がらない。チャウは例によって軽い高山病が出たようで、少し飲み食いしてからテントのなかで臥せっている。大森氏も腰痛の具合がよくなさそう。喉が渇いているからビールは入るのだが、過労であまり食欲が湧かない。風も少しあり気温も下がってきたので、テント内の宴会へ移る。しばし歓談ののち、ショウガ焼きをやることになった。チャウは、切り身だから醤油が効き過ぎないように、酒を多目にしたという。それにタマネギのスライスが混ぜてある。フライパンで軽く火が通るくらいに炒めてみる。一晩漬けてあるので醤油、酒に肉やタマネギの水分も出て、炒めるというより煮るに近い。食してみるとさすがに今半、うま味十分のやわらかな豚ロースである。それでも、今夜はなかなかはけない。4人で豚600gは普段ならあっというまだ。残りそうになったので、すべて焼いて明日の朝に回すことにした。とても主食のスパゲッティまで届きそうにもない。まだ明るかったのでちょっとテントの外へでてみると、周囲の山々は立ち上がる積乱雲に覆われて、青空を背景に雲の饗宴だった。

 

このまま宴も果てるかと思うころに、善さんが元気になってきた。いままで寝ていたのに、マットの上にどんと座りなおすと、酒がいいという。もうすでに規定の1本は空いているので、2本目の冷や酒を差し出すと、「どうも、ひとりで飲んでしまうようで、いけない」などと独りごちながら、ぐいぐい進んでいる。大森氏は、最近の善さんによくあるパターンだと笑っている。翌日訊くと、本人は2本目をほとんど空けてしまった意識はまったくなかった。

 

秩父平往復 8月5日(日)

 

朝の支度をしていると、6本飲んでしまったとおもったビールがテントの外のレジ袋に1本残っていた。おもわぬところで朝ビヤとなる。当然、腹に染みわたるように美味い。最初は飲まないといっていたチャウもつられて少々つきあう。水分たっぷりの雑炊と、昨日のショウガ焼きやサラダの残りで朝食をすます。隣の不思議なグループが出発したので、その跡にテントを移動する。そちらのほうが平坦で条件がいい。

 

昨日の様子では稜線東側にはずいぶん雪渓が残っていたので現地でも冷やせるとはおもうが、万が一ということがある。やはり、雪を詰めたレジ袋にロング缶のビール2本をぶち込んで行くことにした。大森氏がウイスキーも少々欲しいというので、シングルほどの水割りを500mlのペットボトルに詰めてビールと一緒にした。ついでに、余ったサラダやチャウのラッキョウも入れる。あとは各自行動食を携行する。

 

テント場発(7:50)。晴れではあるが、昨日ほど視程はよくない。山にかかる雲も多めだ。今日は軽荷で行けるところまで散歩。たぶん、秩父平辺りまでになるだろう。昨日は歩きながら写真を撮る余裕はあまりなかったが、今日は好きなだけ山岳風景でも高山植物でも撮れる。この縦走路は大きなお花畑はないが、花の種類は結構豊富だった。行き帰り含めて話題になったのは、タテヤマリンドウとミヤマリンドウ、イワギキョウとチシマギキョウ、ガンコウランとミネズオウ、コケモモとツルコケモモなどだったか。こちらもとんと高山はご無沙汰なのであまり同定に自信がない。

 

リンドウ類については、最初に見かけたものはタテヤマリンドウであとはミヤマかと思っていたが違った。調べてみると、どうもミヤマだけだったような気がする。自分のブログでタテヤマとしたものも、分類的な特徴からはミヤマだった。自分の印象ではタテヤマの花は色が青、形は縦長に対し、ミヤマは色が紺で形は開く。しかし、タテヤマは花の中に黒い斑点があるがミヤマにはない。タテヤマは茎に付く葉はほとんど開かないがミヤマは開くなどの特徴から、今回見たほとんどはミヤマではなかったか。イワギキョウとチシマギキョウについては、花弁の微毛の有無で分けるが、今回は毛のないイワギキョウしかなかった。一番の間違いはガンコウランだ。その花としたものは正しくはミネズオウ。最初はそう思っていたのだが、みんなと話すうちに自信がなくなってしまった。調べてみるとガンコウランの実は見慣れているが、花はほとんど確認したことがなかった。花期が5―6月と早いので夏山シーズンにはすでに花は終わっている。ガンコウランの花の写真は撮ったが、日陰の条件の悪いところだったので、遅咲きだったのかもしれない。今回、コケモモは少ないながら見かけたが、ツルコケモモは見なかった。

 

杓子平からの出合を過ぎてしばらくゆくと、双六・弓折方面から登ってくるひとたちと多く出会うようになる。幕営の重装備はあまりいないが、それにしても年寄りが多い(他人事ではないが)。秩父平へ下る道では老人グループの大団体とすれ違った。リーダーらしきひとも若いわけではない。体力にさしたる違いもないだろうに、よくこれだけの人数を引き連れて歩く勇気がある、と感心する。

 

秩父平(10:00―11:50)。その先の弓折岳方面の縦走路は見わたしてもあまり魅力的ではない。まだ早かったが、早昼のプチ宴会を開くことにした。ここにはたっぷりと雪田が残っている。やはり雪など担いでくる必要はなかったのだが、それはそれ。わが痛風とのつきあいの始まりとなった笹ヶ峰の合宿(1996年)でも、前日黒姫の火口跡の池畔でぬるいビールを飲んだのにこりて発泡スチロールのクーラーに氷を入れてビールを運んだというのに、昼の宴会場となった笹ヶ峰の湿原はびっしり雪に覆われていた。

 

秩父平は、東側が開けている以外、周囲を岩稜に囲まれた草原である。その岩稜の一部がステゴサウルスの分断された背ビレのようにそそり立っている(多分、秩父岩)。スケールはまったく違うが、剣の池ノ平から眺める八ッ峰を連想する。われわれは登山道から雪田を隔てた対岸の岩場を昼場と決めた。これ以上冷やしようもなく冷えたビールで乾杯し、もちよった行動食をつまみながら歓談。雪田の向こうには、昨日のわれわれのように重荷を背負ってあえいでいる登山者の列が絶えない。

 

そのとき話したが、ワサビ平と笠新道には忘れられない思い出がある。まだTBS.Bにいたころ、同僚のカメラマンのKに連れられて雲の平へ登ったことがある。新穂から入って、ワサビ平、双六、雲の平、太郎兵衛平で各一泊して有峰へ降りるという優雅な山旅であった。こちらは当時、山はまったくの初心者。Kは生物系で高山植物には詳しかったが、山の体力はほとんどなかった。しょっちゅう立ち止まるが、それが写真撮影のためかバテたためか区別がつかない。休みたいためもあったろうが、咲いている高山植物を見つけると名指しして、ふたたび同じものが現れるとこれは何だと質問する。まだ30歳そこそこだったので、わりとすんなり名前は頭に染みこんだ。帰ってチェックすると約70種類の高山植物を憶えていた。それが高山植物との付き合いの始まりだ。

 

で、話はそのときのワサビ平泊に戻る。いまでもそうだろうが、あの当時、ワサビ平の小屋に泊まるひとはあまりいなかった。われわれのほかには、単独行の女性がいたくらいか。Kは発展型の性格で、すぐにその女性と話をはじめた。とうぜん、明日はどちらへということになるが、そのとき彼女が挙げたのが笠新道だ。新発意のこちらも笠新道が北ア有数の厳しい登りということくらいは知っていて、すごい女性だなあと感心。あれこれ話しているうちに、多分学校のことに話が及んだのだろう、彼女の父が教えているという学校がぼくの出身校だった。それだけならさして珍しくないが、学部も学科も同じとなると奇遇としかいえない。父上の名前をただすと、それが専門課程のクラス担任T教授だったのである。T氏は電子回路を教えていた。律儀なひとで、代表的な回路図を黒板に描いては、小さな声でぼそぼそと動作原理を解説する。その繰り返し。当時は真空管から半導体への過渡期で、授業もそれを反映して半導体の比重が大きくなっていた。こちらは真空管ラジオの組み立てが好きでうっかり学校を選択してしまったようないい加減だったので、半導体なんて面白くない。まったく授業への興味を失っていた。そんな砂を噛むような授業だったが、あるときこの先生がいまでも記憶に残る名言を吐いた。それは真空管の動作特性についての話だった。「新しい真空管は特性曲線が不安定でなかなか落ち着かないが、使い込んでいくほどに安定してくる。ああ、きれいな特性が出たなあと思うころには、ふつっとフィラメントが切れて寿命が尽きてしまう」と語り、最後に「まるで人生のようであります」と結んだ。T氏はいかにも温厚な人柄に思えたが、火宅の人だったようだ。父と娘が激しく対立しているようすを彼女は語り、それが単独で山を渡り歩いている理由でもあるかのようだった。

 

話を戻そう。

帰りはおおむね登りになるが、身体も休まったせいか、軽く入ったせいか、朝方の降りより楽なくらいだった。もう笠へ向かう登山者はほとんど通過してしまい、山道に人影はない。秩父平からの急登を終わって、次に抜戸への登りにかかったところで、静まった登山道の一郭で、ライチョウの親子(両親と雛)が砂浴びをしていた。昔は登山者の姿を見るとすぐにハイマツの下に逃げこんだのだが、この三羽は、用心はするものの逃げようとしない。ぼくは撮らなかったが、あれだけ接近できれば誰かのいい写真が撮れているはずである。あとで、チャウが、動画にしておけばよかったと悔やんでいた。動画投稿の時代である。砂場のすぐそばを通過しなければ先へ進めないので、撮影が一段落すると歩き出す。さすがに、親は心配げに振り返りながら砂場を離れたが、雛は依然として砂浴びをつづけていた。これほど接近を許すライチョウははじめてだが、何世代か登山者との遭遇を繰り返すうちに、ライチョウの社会が、人が危害を加えないことを学習したのかもしれない。

 

縦走路は抜戸岳のピークを避けて山腹を巻いている。抜戸岳はパスするはずだったが、気付くと前方を行く大森氏と善さんが縦走路から別れて抜戸への登りを選んでいた。しかたがないので、「裏切り者」などと叫びながら後に続いた。抜戸の山頂は高校生らしき団体で混雑していた。学生の1人に登頂記念の撮影のシャッターを押してもらい、隣のピークへ移動して休憩(13:00―13:07)。

 

戻りは大勢の登山者と抜きつ抜かれつ歩く。ほとんどが小屋泊まりの軽装とはいえ、今日ばかりはこっちのほうがはるかに身軽で、道を譲ってもらうことが多かった。そんななかで、先ほどの生徒の団体は流石に若さだ。あとから出発したというのに、しかも、昨日のわれわれよりはるかに重そうな荷を背負っているというのに、走り去るようにわれわれを抜いていった。ただ、その直後、脇道へ入って全員が立ち止まっていた。あまり速すぎるので、引率の教師が注意したのかもしれない。その後、もういちど抜かれるわけだが、そのときは大分ペースが落ちていた。あとで聞いたところでは、体調を崩して発熱した生徒がいたという。

 

テント場(14:40)へ戻ると、テントの回りの整地スペースは、その生徒達の荷物で埋まっていた。まだ偵察が終わっていないのか設営はされていなかったが、その後しばらくして、われわれのテントは生徒達のテントに囲まれる格好になった。あちらは、中高生の混成で13名(うち高校生3名)、引率の教師とOB各1名の構成だった。見かけでは中高生の比率は逆のように思っていたが、近ごろの中学生はずいぶん体格がいいし大人びている。

 

戻ればすぐに夕餉の支度だ。ぼくが水を、善さんが雪を採りにいっているあいだに、調理のほうも進む。献立はポテサラと茹で牛。それに、あり合わせの素材を組み合わせてニガウリとオイルサーディンの和え物ができあがる。酒は残念ながらもう500mlと少々しかないが、ビールはロング6本、ウイスキーは昨日大森氏くらいしか飲んでいないので余るほどある。茹で牛は最初ぼくの考案だったが、大森氏がいたく気に入り、いまや彼の十八番になっている。今回は和牛のイチボ600gを厚手のステーキ風切り身3枚にしてミソでくるんである。これをたっぷりの湯で茹でてスライスするだけなのだが、普通の山行ではまずお目にかかれない馳走になる。普通のステーキだとあまりレアが好みではない大森氏が、こればかりはレアがいいというから不思議だ。

 

ビールが冷えたらさっそく宴会の開始。今日の3品はどれも秀逸だった。まだチャウのラッキョウも残っている。昨日の隣人は会話が成立する相手ではなかったが、今日の隣の教師は話し好きだ。大森氏がチョッカイをかけたのだろうが、30年前の笠谷遡行の話に非常な興味を示し、こちらのテントに話を聞きにくるまでになった。生徒たちはレトルトのカレーを持参し、ご飯だけは炊くようである。それも、分担の米を忘れてしまった生徒がいるとは可哀想。先生とOBは、多分、小屋で買ってきたビールをやりながら生徒を見守り、調理には参加しない。こうした団体行動ではろくな食いものはないはずだからと、先生らにまずラッキョウを差し入れる。その反応がなかなかよかったので、次は追加のラッキョウに茹で牛のスライスを添えた。タイミングをみて余りそうなウイスキーを差し入れる。最初はラッキョウに大いに感動していたが、茹で牛への反応は尋常ではなかった。なんでこんなものが作れるのだと、少し目の色が変わっていた。日も暮れてテントの宴会へ移って、〆に大森氏が炒めるだけでいいというスパゲッティを少々作ったが、これだけはいただけなかった。水を使わないのでふりかけのような調味料が強すぎたのだ。というわけで、今日は、楽ちんで、楽しくて、美味しい1日であった。

 

笠新道下山〜帰途 8月6日(月)

 

8時過ぎには就寝したが、寝入るかいなかのうちに、テントのフライを雨粒が叩きだした。すぐ止むかと期待したが、これを期に断続的に激しい雷雨となる。遠くの下界から聞こえていた雷鳴がしだいに近づいてきて、頭上で鳴り響く。断続的な雷雨は朝方まで続いた。テントの底もマットやザックも水浸し。雨のテントは悲惨なものである。

 

4時ごろにラジオの天気予報を聞いていた大森氏が、ロンドン・オリンピック卓球女子団体の日本決勝進出を告げる。しかし、天気は好転せず、予報は「曇りときどき雨、ところによって豪雨」などと、まるで役人の言い訳のようにどうにでもとれる。おっと、予報官は役人だった。前日までの予報では、崩れるのは夕刻からのはずで、まるで当たっていない。

 

大森氏によれば笠ヶ岳を越えて槍見温泉まで降るクリヤ谷コースには渡渉が3回ある。豪雨の可能性がある以上、断念せざるをえない。このコースを選んだには理由があった。善さん、大森、橋元の3人は、いまから30年以上前の1981年に笠ヶ岳の南西斜面を刻む笠谷を遡行し、笠岳直下でクリヤ谷コースへ抜けている。そのときは、いつでもこられるとばかり、笠ヶ岳には登らずそのまま下山した。そこを繋ごうという気持ちがあったのだ。

 

しかし、この天気でいまさら笠の頂上を踏もうという気持ちも起きない。雨の小やみになるのをまってテントを撤収し、笠新道を戻ることにした。まだ、撤収の終わっていない先生達に挨拶をして、笠ヶ岳テント場をあとにする(6:15)。

 

しかし、予報に反して実際の天気は回復傾向。笠ヶ岳を遠ざかるにつれて、雨足は途絶えるようになった。いまさら戻ることもできず、山を下るほどに悔しい思が募る。帰りは当然、登りに比べてはるかに軽荷だったが、それなりに疲れた。思えば一昨年に南ア聖岳を目指したときは、今回よりはるかに荷は重くてもこれほど疲れなかった。大森氏も同感のようだ。わずか2年である。体調の波はあるにしても、基本的な理由は残念ながら言うまでもなかろう。じわりじわりと衰えゆく体力を噛みしめながら登るのも、これからの山の味わい方になるのかもしれない。

 

長い林道を戻って、新穂のバス停に着くころ(13:00)には雨になったので、待合所で小やみになるのをまった。駐車場まで歩くつもりだったが善さんは傘を持参していないというので、善さんに傘を渡してバス停まで車を回してもらうことにした。まずは一風呂浴びたい。大森氏は駐車場近くの深山荘に興味があるようだったが、林道のゲートの直前のさびれた宿に「日帰り入浴500円」の看板があったのでそこまで戻る。このホテル・ニューホタカは一応ホテルの体裁ではあるが、あまり客はなさそうで、フロントのオヤジもとんと愛想がない。案内された風呂は4―5人で一杯になりそうな小さな浴槽。先に出てきた人の話では、別に広い露天風呂があるようだが、オヤジは説明しようともしなかった。源泉掛け流しは間違いないようだが、古びた混合栓は湯垢にまみれてひどく温度調整が難しい。それでも、日に焼けた肌の痛みをこらえて浴槽に身を沈めると、窓ガラス越しに錫杖から笠へ続く尾根の絶壁が迫って、それなりの風情はある。好ましい風呂ではなかったが、汗を流すだけなら文句はない。念のためあとで深山荘の日帰り入浴を調べてみたら、同じ500円。しかも、施設の案内などを見ると、比較にならないほど立派。次回は、是非、深山荘へ。

 

帰途、沢渡の「しもまき」というそば屋(食事は評価外だが温泉もある)で遅い昼をとって東京へ向かった。沢渡までは大森氏、そこからは善さんがハンドルを握った。連日の行動の疲れもあるはずだが、ただ乗せてもらっているものは感謝するしかない。中央高速は最近、談合坂の辺りが三車線になったせいか、渋滞の中心が東京寄りへ移ったようだ。高速の霞ヶ関の出口に近づくころにはまだ7時半。8時の高速バスに乗れば、うまくすると鹿島臨海鉄道の最終に間に合う。善さんにそれを告げて、東京駅の八重洲口ブックセンター近くへ下ろしてもらう。善さんがうまく飛ばしてくれたおかげで、8時のバスにぎりぎり乗車できた。鹿島神宮駅まではラッシュ時以外は所要2時間だが、通常5―10分は早く着く。だから最終の9時59分に間に合う算段だった。しかし、このときの運転手は律儀な男で、完璧に時間通り運転した。おかげで鹿島神宮の駅が見えたところで、最終のディーゼルカーは出発していった。ダイヤ通り10時丁度に着いたのだ。やれやれ。いまの家に引っ越して以来、鉄道がない場合は約10キロを歩いて帰ることを課していたが、今日ばかりは歩く気がしない。はじめて駅前のタクシーを拾った。

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