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梓ひだまり 丹沢塔ノ岳 2013年11月29日〜30日

冨山、後藤、鈴木、高橋、大森、中村、田中、橋元

年末恒例の日だまり山行は今年は丹沢となった。神奈川県立山岳スポーツセンターで自炊の宴会をして一泊。翌日は登山組と観光組に別れて行動する。

29日 神奈川県立山岳スポーツセンター

11:00鹿島神宮発の高速バスは14:15頃に東京駅に着いた。東京駅の神田寄りガード下で遅めの昼食にラーメンを食べて、新宿から小田原行き快速急行に乗る。電車の座席はがら空きだったが運転手席の後ろに陣取って渋沢駅までの約1時間を沿線風景の立ち見と決め込んだ。小田急線は都内はおおかた高架になり、下北沢と成城学園の前後だけは地下軌道に変わり、昔の風情を偲ぶよすがもない。多摩川を越えるとやっと見覚えのある地形が視界をかすめるが家並みはことごとく以前の面影をとどめていない。しかも、快速急行は代々木上原から新百合ヶ丘まで止まらない。当方としては登戸・向ヶ丘遊園地を電車が通過するなど許せないが、人口重心がさらに郊外へ遠ざかったせいであろう。

渋沢駅は橋上駅舎になり周辺は区画整理が進んで、家屋の建て込んだ昔の雰囲気はまったくない。大倉行きのバスには間があったので秦野駅行きのバスに乗る。運転手さんがこちらの出立ちを見て、「このバスは大倉へは行きませんが…」と声を掛けてくる。途中の大倉入口で下車して歩く旨を告げ運転席の背後の席に座った。降車時には大倉への道を丁寧に教えてくれた。

大倉入口からバス道を行くよりショートカットになるはずと、バス停から少し下って水無川を渡り左岸を遡行する。川沿いにしばらく歩くと、チャウから携帯がかかり、宴会の用意はとうにできているから早く来いとせかす。携帯の背後でみなが「走れ」と囃し立てているらしい。昔なら本当に走ったかもしれないが、古希老人は「お先にどうぞ」と返事をして多少歩速を早めるにとどめた。しばらくすると大倉バス停とスポーツ山岳センターを連絡する吊橋が遠望され、堰堤道路は自然に戸川公園の敷地内に入る。しかし、吊橋の下の河原に着いても連絡路に登る道がない。もう少し先にあるかもしれないが、面倒だから吊橋下の崖をよじ登って吊橋の脇の茶室に着いた。そこからはセンターへの散策路をたどる。

センターの管理人に案内されて皆の待つ宴会場へ。といってレストランや料理屋があるわけではなく、会場はだだっ広い食堂である。オーバースペックとも思える立派な厨房設備があり、宿泊者はそれを自由に使える。梓にとってはもってこいだ。

今回、車で来たのは田中君だけ。後藤さんと大森氏が渋沢で食材・酒・ビールなど仕入れて田中君の車でここへ運んだのだ。携帯の催促から大分時間が経ったはずだが、宴会はまだ始まっていなかった。車を置きに行った田中君が戻ってくるのを待って乾杯。渋沢駅前にあった魚屋は場所が変わり値段も高くなったがいまも健在だそうで、そこで大森氏が仕入れてさばいた刺し身からすべてが始まる。タイ、メジマグロ、マトウダイ、シメサバなど。それに今回、各自一品つまみを持参することになっているので、チャウ定番の浸し豆と数の子のあえものやスライスした焼き豚などそれらしきものが並んでいる。当方、庭の外の畑で作ったサツマイモと自作ベーコンを持参して炒めものを作る予定だったが、テーブルに並んだ品数を見ると出番はないかと思う。

この食堂はセンター全体の共同設備で40人の食事ができるほど広いうえに、頭上は3階分くらいの高さの吹き抜けになっている。大人数が集まればいいのだろうが総勢8人の存在感ではこの空間を充足できない。それに冨山さんが数日後に心臓のカテーテル検査を控えているのでいつものような爆発的高揚がない。しばらくは梓らしからぬ神妙な雰囲気が漂う。

二之矢は大森氏の鶏の水炊き。宴会開始前に煮込んでおいた鶏の出汁がよく出て澄んだ味わいの鍋物に仕上がっていた。そのうち大森氏から各自今年の1年の身辺事情を述べよと提案がある。なんだかボーイスカウトの会合のようだが自動的に話題を引き出す仕掛にはなる。とはいっても、われわれの年齢になれば昔の思い出を絞り出すか、現在抱えている疾患が話題の中心を占めるのだが。冨山さんの心臓、後藤さんの視力、尚やんの膝、当方は痛風に高血圧。ざっと話しを聞いた範囲では座骨神経痛の発症やら盲腸の手術やらと今年一番の厄男は善さんだったかもしれない。チャウの江戸博での活躍や田中君の放送大学受講くらいが息抜きか。おっと、大森氏のテーマは何だっけ?

それはそれとして日本酒が2本空く頃には、酒が足りないと騒ぎ出すのが梓だ。こちらも、はじめは出る幕がないかとおもった一品の製作にかかる。酒のトリにはカテキン氏差し入れのシーバスの18年ものと京観世の登場となる。これはいかにもカテキン氏らしい取り合わせと言えよう。シーバスが開き、やがて空いた。〆は後藤さんの焼きそば。そのうち一人去り、二人去りして、最後に尚やんと当方の2人が残った。珍しい組合せだが、これも古希の同人の因縁であろうか。

30日 丹沢塔ノ岳

7時を回って明るくなった頃に起き出す。カーテンを開けると絶好の山行日和。初冬の透明な日射しが紅葉を過ぎた木立の輪郭を浮き立たせている。目覚ましのビールは、善さんが「だらしない」というほどたくさん手つかずで残っていた。朝食は昨夜の鶏の水炊きで煮込んだうどん。鶏出汁の浸み具合がほどよく、たっぷり2杯を平らげる。

立つ鳥跡を濁さず。使用した施設は使用前にましてきれいにして帰るのが梓の作法である。食後の片付けとゴミの持ち帰り作業、宿代・食費・燃費などの精算を済ませセンター玄関に集合。ここで山組(鈴木、大森、中村、橋元)と観光組(冨山、後藤、高橋、田中)に別れる。

田中君にアッシーを頼んで山組は水無川の林道のどん詰まり、戸川出合まで送ってもらう。センターから歩けば1時間以上を要するだろう。かつて何度も水無川本谷は遡行しているのだが、途中の状況にほとんど憶えがない。一番最近に来ているのは善さんで、何かわからないことがあるごとに、善さんに訪ねる始末だ。ただ、日だまりは別にして、当方の最後の丹沢は沢登りだったはずで、そのときに当地特産のサガミジョウロウホトトギスを見たことは憶えている。善さんは、それは彼も参加していたセドノ沢だろうという。帰って調べると、1994年9月10日のことだった。ほぼ20年ぶりということか。途中、車は歩いている登山者の脇をすり抜けて進むが、逆の立場を何度も経験しているから、何となく後ろめたい。10名ほどの同年配のグループを抜き去った車中で「山道で彼らに追いつかれてはならじ」と叫ぶ。しかし、後刻、最初の1本を立てている間に、このグループに抜かれてしまった。

戸沢出合で田中車を降りるまでコースは決まっていなかったが、政次郎尾根から表尾根を経由して塔ノ岳へ登り、バカ尾根を下ることになった。逆にバカ尾根へ出て表尾根を降りる手もあるが、それだと矢櫃峠のバスの連絡が心配ということらしい。ま、ともかく穏やかな初冬の尾根筋をのんびり登り始めた。樹林帯もさほど深くはなく明るい日射しが差し込むが、海側からの微風が体温を奪って行く。久々の登行ではあったが、夏場の浜風の1,000キロランがまだ効いているのか体は軽かった。小一時間歩いて1本立てていると、あの同年配グループが追いついてきた。戸沢出合より相当前に彼らを追い越したたので、よもや抜かれるとは。信じがたい気持ちで見ていると、チャウが間違いなく見覚えのある人がいるという。どうみてもさほどの体力のあるグループとも見えず、逆にこちらのペースを確認させられる思いがした。表尾根まで1時間半ほどの登りだが縦走路に近づくにつれて相模湾が視界に入ってくる。まだ太陽は東にあって海面の反射がばゆいばかりだ。

表尾根へ合流すると俄然、登山者の数が増える。20年前に比べればコースははるかに整備されているが、この時期すでに霜柱が解けて路面はととてもヤバチイ(秋田弁で泥んこの意)。泥道を歩いて靴底にへばり付いた泥を次の木道でこそぎながらの登行となる。2本目の休憩では日射しはあるものの尾根を乗っ越す風の冷たさにヤッケを着込んだ。善さんの配ってくれたミカンが薄皮で美味い。

塔ノ岳山頂のすこし手前に尾根の左側が大きく崩壊したカ所があり、登山道は右側を迂回している。我々はロープを乗り越えて旧道をそのまま通ったが、この崩壊カ所が水無川本流の源頭だと善さんが言う。昔はたしか最後の詰めは短いながら薮こぎだったはずだが、地表がごっそり剥がされて水無川最後の滝F8の辺りは青白い岩石がむき出しになっていた。

塔ノ岳山頂の風景は当方の記憶とはまったく整合しない。昔は赤土に岩石の散乱するはげ山の片隅に丈の低い小じんまりした尊仏山荘が風を避けるように佇んでいた。今の山小屋は2階がガラス張りの大きな建物であり、風などにビクともしない威風堂々の姿だ。どうやらその脇におまけのように寄り添っている廃屋が昔の山荘のような気がする。いまや山頂全体はマチュピチュの遺跡のように階段状に整備され、中央に「塔の岳山頂1491M」の立派な石碑が建つ。その北側には真新しい仏像やら石碑やら、まるで新興宗教の聖地のおもむきである。

青空はのぞいているものの太陽を雲が覆い寒風が山頂を吹き渡る。この寒さではのんびり昼飯どころではないなが、善さんがうまいことブッシュの風下にあるベンチを見つけてくれた。そこからは表尾根と大山越しに横浜方面が望める。おかげでのんびり昼食を楽しむことができた。想定外の驚きはチャウがロング缶を2本も背負ってきていたことだ。昼飯はチャウのごちそうになったうえにビールまでとあっては男の風上にもいたたまれぬ。といいながらいずれも平らげたのは無論である。ただ、善さんは昨日飲み過ぎたといって、あまり食べ物は口にしなかったようだ。この程度の山では別に食べなくとも支障ないとのこと。

バカ尾根の下りは昔の記憶とかけ離れていた。山頂からの下りにわずかに以前の雰囲気を残していたが、あとは近頃の整備のせいか荒廃の気配は失せて、バカ尾根の象徴だった赤土の剥き出しの急斜面などどこにも見当たらない。ただ、自然復元の試験区域の標識と保護柵でかつての状況を偲ぶばかりだった。よく整備されてはいるもののバカ尾根はさすがにバカ長い。通い慣れた丹沢ということで軽い気持ちで下っていたが、まだ筑波山で1回履いただけの山靴が後半になって牙を剥き、左の小指が激しく痛んできた。チャウも左足中指と人差し指の付け根が痛むと言い出して、大倉尾根に着く頃は善さん、大森氏にだいぶ遅れを取っていた。

大倉から臨時バスを1本やりすごし、座って渋沢駅へ戻った。駅前で一杯やったことは言うまでもない。

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