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妙高山・火打山 2014年9月28-29日

大森、中村、橋元

2014年9月27日 土曜日

南浦和1時集合。上信越道を妙高高原で降りる。インターチェンジ間近のコンビニの弁当棚がからっぽで行動食の仕入れに多少手間取ったが、明るいうちに笹ヶ峰キャンプ場に着く。紅葉は始まったばかりで、1番手のツタウルシが目立つ程度だ。

笹ヶ峰は1996年の梓夏山でベースにした。痛風との付き合いの始まった懐かしい?キャンプ場である。

 

「梓夏山笹ヶ峰合宿」

http://azusa1234.web.fc2.com/AzuzaBulletin1-7/98kaiho/k018.html

http://azusa1234.web.fc2.com/AzuzaBulletin1-7/98kaiho/k017.html

http://azusa1234.web.fc2.com/AzuzaBulletin8/AzuzaBulletin8azusaazusafiles26_krhm.html

笹ヶ峰はこのあと2002年に雨飾山が雨天で流れたときに小谷温泉から長野側へ抜けるときに通過している。

「小谷温泉紀行・なぜ雨飾山紀行ではないかについて」

http://azusa1234.web.fc2.com/AzuzaBulletin8/AzuzaBulletin8azusaazusafilesz2122.html

 

大森氏の手配してくれた酒肴でプチ宴会。時間がたっぷりあるので、高清水を燗にしてゆっくりいただく。この高清水、辛くもなく甘くもなく、飲み口がバランス良くてほどほどに厚みがあり、なかなかいけた。酒の弱いわたしにしては、杯が進んだ。ははは。

2014年9月28日 日曜日

5時起床。晴れ。

笹ヶ峰、黒沢ヒュッテ、妙高北峰往復、高谷池ヒュッテ泊

チャウの掛け声で5時起床。テントを撤収し、大森スタイルのバナナとジュースの朝食をとって出発する(5:20)。 

登山道入口には立派なゲートがあって登山届の提出設備がある。そこをくぐるとと延々と緩やかな登りの木道歩きが始まる。クマに襲撃されたニュースがたびたび流されるせいか、クマ除けの鈴を付けた登山者が多い。日曜日とあって歩き出してすぐは、前後をそうした登山者に囲まれ、1本の木道を金魚のフンとなる。前でも後ろでも、カランカラン、コンコン、キンキンと喧しいこと。木道が単線だから、追い抜くこともやり過ごすこともできない。

それでも歩き出して30分も経つと、体力と荷重に応じて隊列がばらけて静かな山歩きを楽しめるようになる。ここの林はブナ、ミズナラなどにまじってダケカンバの大木が目につく。小さな沢を2本ほどやり過ごして小一時間で黒沢橋に出る(7:05)。ここは、1996年の夏山でわれわれが火打(実際には高谷池まで)を目指したときに、体調不良でベースに残った田中氏の見送りを受けた場所だ。普通ならここで1本だが、途中キジ撃ちで時間を潰したので、そのまま通過した。

黒沢橋を渡ると本格的な登りが始まる。樹高がだんだん低くなってオオシラビソの姿が目につくようになると、あの樹脂独特の甘い香りで林間が満たされる。林全体が明るさを増すとともに、林道脇の木立にヤマウルシ、ナナカマド、ミネカエデ、ハウチワカエデ、コハウチワカエデなどが増え、鮮やかな紅色や黄色に色づいた葉が朝日に照らされてまぶしいばかりだ。

十二曲りは急な登りだが、曲がり角ごとに看板があってカウントアップが励みになる。路面は木道と階段で整備されているので歩きやすい。十二曲りの終点で林から抜け出し、ちょっとした展望が得られる(地図と照合しなかったので、その時点では分からなかったが、ここが手元のGPSの標高1,790m地点だった)。木立が多くてはっきりしないが十二曲りの終点で山腹から尾根筋の道になる。しばらくはなだらかだがやがて、十二曲りを凌ぐ急登が始まる。しばらくあえいだところで1本立てた。1,880m地点(7:58―8:13)。

斜度が徐々に弱まってくると富士見平の分岐だ(8:49)。当初の計画では初日は高谷池ヒュッテに荷物を置いて火打往復のつもりだったが、昨夜の宴会で、2日目が早く終わるように先に妙高へ登ることになった。分岐からはトラバース気味に進んで下りに掛かるあたりから、樹木を通して湿原が見えてくる。黒沢湿原だ。左手(北西側)を黒沢岳、右手を妙高外輪山の三田原山に囲まれたミニ尾瀬のような広々とした草原に木道が通っている。樹林帯でも感じたが、やはりこの山にはダケカンバが多い。しかも、たっぷりと厚い土壌があるのか、どれも巨木に成長している。

湿原が終わって少し下ると、黒沢池ヒュッテの特徴的な形の青い屋根が見えた。小屋の前庭はあまり広くはなく、その一部が幕営サイトになっている。われわれが歩いてきた西側と南北が高く、東側だけが開けている、あまり開放感のない場所だ。さほど混んではいないが、すでに小屋脇の斜面にデポしたとおぼしきザックが山をなしている。われわれもそこにザックを置いて、サブザックに水、食料、衣料などを入れて出発した(9:35―9:50)。

妙高へ向かうにはまず大倉乗越(10:13)で外輪山を越えて、いったん長助池の上流まで下ってから、妙高本体を攀じ登ることになる。しかし、サブザックだけの軽荷だというのにどうしたことか体がひどく重い。それに、黒沢小屋までの道に比べると、路面の整備がだいぶ悪くて歩きにくい。乗越から少し下って見える長助池は紅葉に囲まれてまことに秋らしい景観なのだが、それを楽しむゆとりがなかった。登りは重力に抗するに苦しく、下りはバランスの保持に苦しい。

長助池の上流の分岐で一服する(10:51―11:04)。歩き出してしばらくすると、前を行く2人に追いつけなくなった。数歩歩いては息を整えないと脚が上がらないていたらくで、何度か待ってもらったが回復しそうにない。チャウに柿飴を数個もらってエネルギー補給することにして2人に先に行ってもらうことにした。大きな山行は一昨年の笠ヶ岳以来だが、ひごろ準備などなしに山へ入っても、これくらいの登高でこれほどバテたことはない。体力の零落をいやというほど感じた。時間的にもう下りの登山客が多い。登り優先とはいえ、すれちがいにこと寄せて、道を譲っては一息つきながら登る。斜度がなくなってそろそろ山頂かというところの岩陰に祠があった。

妙高山北峰山頂(12:33)。山頂はほどほどの人出。先行の2人は済ませているというので、山頂の標柱の前でチャウに記念写真を撮ってもらう。あとで見れば、なんとも疲労の度合いが絵に現れている。こんな姿を撮られるのは、善さんに撮られた最後の黄蓮谷以来か。だいぶ待たせてしまったが、3人でロング缶1本で乾杯することだけは忘れなかった。上空は青空が広がっているが、下界は雲海で白銀色に覆われている。周囲の山岳眺望はあまり望めないが、明日の目的地である火打山方向だけはときおり雲間から姿を見せていた。山頂発(13:10)。

帰りは下りだから楽なようなものだが、バテるとはこういうことか、そうもいかなかった。長助池分岐(14:02―14:10)、大倉乗越(14:48)、黒沢ヒュッテ(15:13―15:22)。黒沢ヒュッテで普通の重さのザックに戻ったら、これはもう登りはダメではないか。そんな思いで歩き出したが、そろそろ体が慣れてきたかさほどの苦しさはなかった。あとは緩やかな登りで比高150mほどの茶臼山―黒沢岳の稜線を越えるだけ。さほど遅れずに2人の後に続くことができた。すでに山の日は傾き、あまり写真を撮りたいシーンもなかったが、すでに妙高の下りで持ち主と同様に携帯も電池が切れていた。茶臼山(16:00)、火打登山道合流(16:24)、高谷池ヒュッテ(16:27)。

高谷池ヒュッテはウィンパーの三角テントを押し広げたような2階建ての建物だ。1階中央部が食堂で、その南側にテーブルの並んだ談話用のスペースがある。北側は調理場など従業員施設になっている。寝室は2階の屋根裏部屋だ。トイレはだいぶ離れた別棟で通路で結ばれている。

われわれの到着時間が遅かったから、すでに小屋は同年配の登山客でごった返している。遅参したもののハンデで、この喧噪にはなかなか馴染めない。風音と足音と、自分の耳鳴りしか聞こえない静けさから、夕方の新宿駅の雑踏に放り込まれたような違和感である。大森氏が代表で記帳して、自炊の段取りなどを訊ねる。自炊場は食堂の奥の10畳ほどの部屋で、小さな洗い場の脇にガスレンジが5台ほど並んでいる。洗い場には水道があるが、これは宿泊客全員の飲料専用で、食器の洗浄は100mほど離れた戸外の洗い場でする。なんとリアリティのない自炊客の使い勝手を無視した使用条件ではないか。自炊はわれわれだけだから、スペース的には十分だが、すでに自炊部屋も登山客で混んでいる。今日は小屋が満杯の盛況で、食堂から溢れ出た宿泊者が夕食までの時間をつぶすのに自炊部屋を利用しているのだ。それに自炊部屋はトイレへの通路の入口にもなっているのでその往来も頻繁にある。さらに食事のテーブルも食堂だけでは足りないので、今日はこの部屋も食堂の一部として使用されるという。なんだか調理などできる状況ではない。しばし、どうしていいか分からずに呆然としていた。大森氏が交渉して、なんとか自炊用テーブルを確保してもらった。これでなんとか料理を始める段取りができた。

はじめは、繁華街の人混みの片隅みなたいなところで料理して食事する気になどなれなかったが、慣れとは恐ろしいもので、だんだん気にならなくなった。今回はチャウが食当。まず枝豆を煮る。こちらも各自一品持参のつまみで、オクラを焼く。庭先で採れたシマオクラをコンロで焙ってから刻み、オカカを掛けるだけだ。枝豆ができて持参のビールで乾杯。この小屋では350mlの缶ビールが520円で、しかも空き缶は持ち帰りだと大森氏が怒る。アルコールが入ると、だんだん勢いがついてくる。酒はロングのビール2本と昨日の残りの酒4合ほど、それにモンダビの赤が1本ある。夕食が始まる時間になると、食事一式を受け取る待ち行列の末尾が自炊部屋まで伸びて、室内を半周するほどの長さにとぐろを巻く。まさに、われわれは「衆人環視」の中で宴会をする羽目になった。小屋のメニューはカレーかハヤシライスの選択肢しかない。こちらは、枝豆、オクラ焼き、塩レモン漬けのステーキにアスパラ添え、最後はさまざまなキノコの入ったキノコ鍋である。周囲の待ち行列からときおり感嘆の声が漏れる。ある程度年齢がいってから山を始めた彼ら彼女らは、幕営はおろか自炊山行もしたことはないのだろう。こういうことができるという発想すらないのかもしれないと大森氏は言う。

登山客の食事が終わっても、こちらの宴会は延々と続く。食堂からバロックの合奏曲が流れてきたので覗いてみた。テーブルを片付けた薄暗い食堂の床一杯に客が座って無言でテレビを見上げている。内容は放送ではなく高山植物の写真のスライドであった。従業員が撮ったものをDVDにでも編集して流しているのかもしれない。こちらは相撲の千秋楽の結果を期待していたので、一瞥して宴会の席に戻る。自炊部屋には有料でお茶やインスタント珈琲の用意はあるが、建前からすると、雨が降っても珈琲一杯飲んだら食器は自分で100m以上離れた外の水場で洗って元へ戻すことになる。この小屋の従業員はテキパキしてやることはやる。頼んだことは可能な範囲で対応する。しかし、それ以上でも以下でもない。何かしら形式的なのである。大森氏はこの小屋は妙高市の市営だとして(市営かどうかは知らないが市の観光協会が予約の窓口になっている)、ここの機械的なサービスは、公営にこだわらず民営化すれば改善されると主張する。それをわれわれだけの自炊室でぶち上げるのだが、すぐ隣は食堂でみな静に映像を見ているのだから、聞こえないはずはない。従業員にも聞こえたろう。残念ながら当方は体調不良であまり飲めなかったのだが、こんな調子で大森氏の独演会が消灯間際まで続いた。この小屋は完全予約制と称して、1人布団一枚分のスペースはきっちり確保されている。それにわれわれの位置が部屋の一番奥で比較的ゆったり就寝できたことは仕合わせであった。この歳になると朝まで熟睡とはいかないが、何度か目を覚ますごとに、滾(たぎる)るように騒いでいた血流が、しだいに静まっていくのが分かる。

2014年9月29日 日曜日

5時起床。快晴。やや風。

今日は高谷池ヒュッテから火打往復し笹ヶ峰へ戻る。

「5時よ」のチャウの声で起床。まだ小屋の灯りもつかないうちに、自炊部屋で昨日のキノコ鍋の残りを温めて朝食。食堂の行列が自炊部屋まで届くころには朝食を終えていた。

小屋の外の玄関脇にザックの置き場がある。そこにザックをデポして火打山まで往復する。やや風があって寒そうだが、全天に雲はない。

高谷池の湿原から低い稜線を越えると天狗の庭だ。青空を背景に全山が紅葉して素晴らしい。もっとも、この高度ではすでに紅葉の最盛期は過ぎているが、遠景として見れば真っ盛りといってもよかろう。

天狗の庭を過ぎて、火打への稜線へでると、日陰にはすでに霜柱が立っていた。稜線へ出てから風が冷たいかと予想していたが、まだこの時期ではさほどでなかった。日当たりと景色が良くて風のないところを探して一服した(7:10-7:20)。場所探しに引きずられて長く歩いたせいか、それからわずかに登っただけであっけなく頂上に着いてしまった(7:33)。昨日の妙高の苦闘を思えば、楽ちんちんであった。

山頂のケルンを台座として、風雪で輪郭もさだかでない小さな石像が立っていた。索条と剣を手にしているので不動明王だろうか。この山頂からは「能生白山御正躰」銘の懸仏(かけぼとけ)鏡面が発掘されたと小屋の案内板にあった。調べて見ると、能生は観光名所になっている日本海側のノウであり、能生には白山神社があって、その山岳信仰の対象に火打山がなっていたということらしい。信濃側からはどこかの山に登らなければ火打は見えないが、日本海側なら海辺から見えるだろうし、山容もバランスの取れた円錐形で目につきやすかったかもしれない。

火打山頂からの視程はこれ以上望めないほど良好で360度の展望が得られた。周囲の頸城山塊、やや離れて後立から槍穂方面、遠方の富士山や南アが望まれた。この山並のなかに噴火した御嶽山も含まれているはずだが、噴煙を認めることはななかった。西側はすぐ眼下に日本海が見える。

風が冷たいので山頂から少し戻って一服する。そのうちに団体がぞろぞろと登って来たので、これに巻き込まれてはならじと退散した(7:50-8:07)。高谷池ヒュッテ(9:12-9:28)でザックを整え、手洗いなどをしているうちに、さきほどの団体も戻ってきた。彼らは初日にわれわれが寝ているあいだに観光バスで到着し、われわれと前後して登って来たようだ。おそらくこのヒュッテに直行し火打山だけを目指したのだろう。とにかく、いっしょには歩きたくないので、先発して、あとはひたすら錦繍の秋山を下った。

途中の下りで1回だけ休んだ(10:27-10:59)。ちょうどテント一張りくらいのスペースがあって、木立の間だから向かいの山のがよく見える場所で、おそらくこのコースで最高の景観の得られる場所だったのではないか。笹ヶ峰キャンプ場着(12:18)。

ひごろの運動不足を、山にこってり絞られたが、秋山としては最高の紅葉と気候に恵まれ、満足した。

杉野沢の部落の「杉野沢温泉センター苗名の湯」で汗を流す。ちょうどわれわれが上がったところで、例の団体のバスが到着した。どこまでもしつこいやつらだ。大森氏が温泉の受付で情報を仕入れたソバ屋に向かう。その道は、往時、黒姫の小屋から妙高方面のスキー場に通うときに利用した勝手知ったる道だった。地震滝橋を渡って、当時はなかったスノーシェルターの坂を登って、右側のソバ屋。なんだか憶えがありませんか。そうです、雨飾山が雨で流れて、小谷温泉から笹ヶ峰へ抜けたとき、昼を食べたあのソバ屋だったのだ。

汗も流し腹も満たし、まことに申し訳ないがあとは大森氏の運転に身を任せるだけ。さしたる渋滞もなく、うとうとさせてもらっているうちに南浦和へ帰着した。毎度のことですが、万端、ありがとうございました。

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