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梓ひだまり(川喜多山荘) 2014年11月28-30日

集まる機会もだんだん減りつつある梓だが、今年はまた川喜多さんの山荘を利用させていただくことになり、2泊の恒例日だまりが復活した。喜ばしいことである。尚やんは頸椎の不調で手術を受けるとのことで参加できないのは心残りだが、名誉会員の金谷氏を含め他の梓全員が参加することができた。

2014年11月28日(金)

曇り。

南浦和にはすでに大森車の全員(鈴木、亀村、中村)が集合していた。寄居で田中車(冨山、後藤、金谷)と合流する。みんなそろったところで、今日の方針が決まり、昼飯は抜きで買い物をして「はしばみ(川喜多)山荘」で宴会に突入するはこびとなる。信越道が佐久盆地へ下ると浅間山が見える。山頂は雲に被われていたが、山腹の大半はすでに雪で覆われて浅間の火山地形独特の黒い縦縞がわずかに見えるばかり。一瞬にして、今回、浅間登山は無理だねと一決した。中部横断自動車道(無料区間)の途中で下りて、大森氏が最近見つけたという業務用スーパーで今回の食料・飲料を仕込む。

さっそく宴会準備だと意気込んではしばみ山荘へ乗り込んだが、室内には夥しい数の昆虫(カマドウマの仲間)がひしめいていた。以前に同じころ山荘を拝借した2003年の日だまり山行(佐久・北八池巡り)のときにも同じような経験をしているが、今年は温かいせいか生きている個体も多く、さらに窓という窓には黒ゴマを蒔いたように羽虫が蝟集していた。考えれば、幾度となく通った黒姫でも九州旅行の亀村山荘でも、しばらく使っていない家を使うときは必ず同様な目に遭うのだ。

少し遅れて川喜多さんも到着した。小一時間もかけた掃除も終わって、大森氏の鶏の水炊きの仕込みも終わったところで、「4時15分」に乾杯し宴会開始となった。明日の浅間山登山は流れたし、天気予報も雨ということもあって、宴会も一区切りついたところで、川喜多、金谷、大森3氏は、ご当地の行きつけのカラオケ飲み屋へと繰り出した。

2014年11月29日(土)

本格的な雨。午後に曇り、ときおり日射し。

大森氏の塩サバと味噌汁で朝食。それに昨夜の外出組のお土産でトンカツがたっぷりあったのでその卵とじなどが出た。昨夜の残りの酒を片付けるとの口実で朝から酒が進んだことはいうまでもない。

今日も昼は抜きで(つまりアテでだらだら飲んでいるという含意)、川喜多、金谷、橋元は山荘に残留。他は生け簀のコイを仕入れがてら温泉へでかけた。夕食はコイの洗いから始まり、チャウの芋煮、それに川喜多さんの手打ちソバの実演が本日のメインイベントとなる。ぼくも最近はピザやフェットチーネの生地を自分で打つので、ソバ打ちの手順はおおいに参考になった。打ち立ての新ソバのあとには場違いだが当方のクリームシチューなど。

2014年11月30日 日曜日

快晴。

1日ずれてくれれば良かったものをと恨めしい好天である。後藤さんのサラダとビーフシチュー・ライス、それに前日の残り物で朝ご飯んを済ませて山荘を掃除する。

荒船風穴

大森車と田中車は山荘から別行動となる。直帰する田中車とは佐久南ICで別れ、われわれは内山峠を越えてのんびり帰ることになった。途中、カメちゃんの発案で、先頃世界遺産に指定された富岡製糸場の関連施設、下仁田町の「荒船風穴」を目指すことになった。内山峠をトンネルで抜けてすぐに左に荒船風穴への分岐があるが、ここは大雨による土砂崩れで通行できない。次の分岐は峰の茶屋を過ぎた辺りにあるが、そこはのっけからスイッチバックしないと入れない山道だった(あとで調べると意外にもこれが旧254号)。車のすれ違いはやっとの幅員で、舗装はされているのだが急勾配の急カーブが続く。途中に、神津牧場・荒船風穴方面7キロの標識があった。初めからこの長途とわかっていれば諦めたものを、もう遅い。結果、この寄り道がぼくにとっては思いがけない大誤算となった。車酔いである。歳を取って老眼が進んだせいか、最近とみに車酔いに弱くなった。駐車場で酔い止めの薬を飲んだが、ときすでに遅かった。

ルートについて

いまさらな話しだが、荒船風穴へ長野側からアプローチする場合、内山トンネルの出口近くの林道が使えないとすれば、内山トンネルを使わずにトンネル入口で右側へ分岐する道(以前、冨山さんの復帰祝いに辿った道、実は旧254号)を使って内山峠越えをするのが正解だったかもしれない。いずれにしても戻りは今回の道を使うことにはなるが。

また富岡方面からアプローチするなら、下仁田の市街から出るシャトルワゴンの利用が楽だろう。このルートは一般車は入れないようだ。

マップ

Googleマップのこの辺りの道路の表現は国土地理院の地図に比べると不正確であり、だいぶ誤差がある。とくに新旧の国道254が幅員がまったく異なるのに、同じ表現になっていて区別がつかない。下記に国土地理院の地図で、国道(新254)から山道(旧254)への分岐付近(地名「白井平」の下)の状況を示しておく。こちらの地図では現在利用されている国道は赤、旧道は白ではっきり区別されている。また、分岐付近でスイッチバックせざるをえない様子も見て取れるだろう。また神津牧場から荒船風穴までの道路と、それが下仁田の市野萱まで通じている道路に接続している様子は地理院地図にも反映されていない。

地理院地図に利用したルートを載せたかったが、残念ながら国土地理院のファイル読込が今回はうまく機能しなかった。

荒船風穴の見学者用の駐車場は神津牧場の中心部をすぎてなお2キロほど先にあった。周りは開けているが、急作りの鉄板を敷き詰めた駐車場で、そからは徒歩で700mほど舗装された急な山道を下る(標高差で100mほど)。帰りの急登を考えてだろう、風穴の案内所にタクシーが常駐していて片道710円である。国土地理院の地図には「荒船風穴蚕種貯蔵所跡」(縮尺25000のまま白井平から北北東へスクロールすると見える)とある。下ってくる見学者を待ちかねるかのようにガイドが資料を配布し、ある程度人数がまとまると施設の案内をしてくれる。将来はどうなるかわからないが今は無料である。風穴というからには洞窟でも待ち受けているかと思ったが、目の前に現れたのは石組みの深い堀のような構造物で、それを風穴と呼んでいた。風穴は谷間の斜面に位置し、上から1号、2号、3号と並んでいる。順路はまず一番下の3号を南側から見て蚕種管理について概要の説明を受けてから、3号を下から回り込むように北側へ移動して2号で温度管理の説明などがあり、最後にもっとも古い1号(かって崩れたものを復元)へ至る。

荒船風穴の説明はこちらに詳しい

明治から大正にかけて絹糸が日本の外貨獲得の主役だったことは学校で習ったが、その一翼をこの施設が担ったわけだ。蚕種の管理が富岡工場向けだけでなく商業化していたことが意外だった。いまに残る蚕種保管の台帳を調べてみると、富岡に限らずほとんど全国から蚕種がここへ送られて有償で管理されていたという。もちろん他所にも蚕種貯蔵施設はあったが、ここは全国有数の規模だった。交通手段の未発達だった時代に、北は北海道から南は鹿児島まで、どうやって蚕種を送り、また送り返したのか、考えるだけで気が遠くなる。

それともうひとつ意外だったのは温度管理のこと。風穴から吹き出す風の温度が数度℃に安定しているのは夏場であって、10月を過ぎると外気温の影響を受け出すという。冬期間の降雪が解けて山体に浸み込み、凍結した地下水が恒温性の原因であって、夏をすぎるころにそれが消滅するため外気の変化を受け出すようだ。見学者が手をかざして体感できる風穴が何カ所かあったが、いずれも冷風の吹き出しはほとんど感じられなかったのはそのためだろう。

風穴の全容 下から順に3号、2号、1号の石組み

運営されていた当時は各石組みに上屋があった。

最下部の3号の前で説明するガイドさん3号石組み

3号風穴の下を回り込んで、2号、1号へ。

下から見る3号の石組2号と3号
2号左壁側同右壁側

風穴は一様な石組みに見えるが、実際には上手の右側の石組みには細い隙間があって冷風が吹き出し、下手の石組みは目張りがされていて冷気を逃さないようになっている。2号風穴の前に温度計があり、現在の外気温と風穴の吹き出し温度のリアルタイムの計測結果が表示されている。風穴の温度は4℃で、外気温との差は10℃を超えていた。細かいことになるが、説明では1号、2号、3号のように構造体全体を「風穴」とも、また、各構造体の積石の隙間の吹き出し部分も「風穴」とも呼んで、区別なく使われている。

当時の上屋の復元模型上屋内部の写真

最後に一番高い位置にある、もっとも古い1号風穴を見る。 

1号風穴
1号から3号まである荒船風穴を一巡して案内所まで戻ると、タクシーの運転手さんが、「ハシモトさんですか」と声を掛けてきて、「先に乗ったお2人さんに”タクシーで行った”と伝言してくれと頼まれました」という。中村、亀村、ぼくはガイドに従って説明をききながら施設を回ったが、大森氏と善さんはガイドなしで一回りして、タクシーで駐車場へ戻っていた。タクシーは4人乗りだから、いずれ一緒には乗れない。それに大森氏は下仁田町の歴史民俗資料館に寄ってさらに詳しい説明を聞きたかったので先を急いだとのことだ(もっとも、こちらの下りの車酔い再発で資料館どころではなかった)。そのころには車酔いの不快感も収まっていたし、われわれが歩いて戻ればますます待たせることになるのでこちらもタクシーを利用した。運転手さんの話しでは、荒船風穴の公開は今日が最終日とのことだった(再開は来年4月1日から)。

帰りは同じ山道を戻った。大森氏はずいぶん丁寧に運転してくれたが、それでも山道のくねくねには勝てなかった。途中から車酔いが再発し国道へ戻ったころには限界状態になった。不快状況の説明をこれ以上するのも興を削ぐので、この辺にしておく。

当方がこのような体たらくであったので、昼食は抜きにして(そういえば3日間昼抜きか)帰りを急ぐことと決まる。同道諸氏には御迷惑をかけた。甘楽で一休みして、4時前に南浦和に帰着した。

結局、風穴を除けば、山行も観光もない恒例の梓年末集会ではあったが、酒を囲み寝食を共にしてみんなで集まってわいわい騒ぐのはいくつになっても楽しいものだ。こうした環境を提供してくださる川喜多さんに感謝しつつ、梓の集まりの長く続くことを願うものである。 

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