神皇正統記あれこれ

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神皇正統記の構成と“正統”

その構成

神皇正統記は、神代から親房の当代、後醍醐、後村上天皇に至るまで、即位の順を追って天皇の血縁関係と統治者としての業績を記述したものである。その意味では古事記の記述と重なる部分(『記』は推古帝まで)もあるが、後世に発生した雑音?も多分に混入している。

主要な天皇については、親房の家業でもある和漢の文献研究で得た知識に照らして、その事績を批判的にコメントしている。各代天皇とはいっても、親房自身が主と仰いだ後醍醐には、筆者の深い思い入れがあって、大きなスペースが割かれている。原典は上・中・下の三部構成だが、『評釈』は巻一から巻六に別れ、最後の巻六はほとんど後醍醐の記述に終始している。和漢の故事を縦横に引用してその天皇の為政者としての行為を照射する。拠って立つ倫理感は、神道、仏教、儒教のそれを混合したもの。親房の歴史観からして重要な天皇となるほど、このコメントの部分が長大となる。

“正統”とは

正統の天皇たる要件は、(1)神代から正しい血統を継いでいることと、(2)為政者として正しく世を治めること、この2点である(神器の継承もあるが、これはおく)。これを満たしたものが親房にとって、天皇としての“正統”となる。そして、(2)において事績の優れた天皇の子孫はその程度に応じて長く栄える、という論法を多用している。

しかし、25代武烈で皇胤が絶え、応神から5世代をまたぐ26代継体の“継体”についての説明はそうとう苦しい。親房自身、応神の皇子仁徳があれほど徳の高い天子だったのにその子孫が武烈で絶えて、別の皇子の子孫(継体のこと)が残ったのは謎だと書いている。正統でない傍流が皇統を引き継いだ例として、(1)ヤマトタケルの早世による13代成務天皇、(2)武烈のあとの継体天皇、(3)天武系が絶えて天智系に復した49代光仁天皇、を挙げている。成務の場合は次の14代仲哀がヤマトタケルの子だから正統に戻ったとし、継体の場合は非常に優れた天皇だったので傍流であることは問題にならないといい、光仁の場合はもともとの正統の天智系へ戻ったと説明している。現代のわれわれからするとこの論旨は理解できないが、親房自身はこれで納得したかったんだろうなあ、と思うしかない。

印象的だったのは、この正統の論理は、天皇の臣下である朝廷貴族に対しても適用されていることだ。彼からみて最も正統な臣下は藤原家で、その祖先は天孫降臨に随行した天児屋根(アメノコヤネ、古事記の記述順では随行する神々の筆頭に書かれている)である。鎌足は21世の子孫で、この系統を正しく継ぐものだけが摂政・関白を務めることができるとしている。藤原とアメノコヤネの引用は何度も出てくる。親房も天皇を祖とする村上源氏の流れにあるが、庶流であることが引け目だったのだろうか。

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