神皇正統記あれこれ

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正統記の時代

その時代

縦書き化が終わって読む体制が整ったのだが、読み始めるまえに、そもそも北畠親房と神皇正統記の書かれた時代について、あまりにも知識がないことに気づいた。居眠りしながら聞いていた歴史の授業で固有名詞として憶えているだけで、いまとなっては当時の歴史と、この人物と著作とがとういう関係にあったのか霧の中である。もととも、日本の歴史をろくに知らないのだから無理もないが、それではあまりであるから、正統記が書かれた時代をちょっと調べてみた。

●鎌倉幕府(北条一族)滅亡

    →建武の新政(後醍醐、足利尊氏、新田義貞)

        →南北朝分裂(後醍醐、足利尊氏)、室町幕府(足利尊氏、足利直義)

時の流れは朝廷(皇族)、貴族(摂関家)、武家(幕府)の三すくみで進行し、解けない三体問題のように世は混乱しているが、質量中心はすでに武家にある。実権は幕府にあるものの、なにごとにつけても錦の御旗(院宣、綸旨)が必要で互いの依存関係は深い。その御旗も現役の天皇と上皇・法皇、さらに細分化して皇統が分立して抗争を繰り返す。鎌倉幕府も七代におよんだ北条執権政治が元寇の論功行賞への不満や、それにつづく治安の悪化で各地の武士から支持を失って弱体化して滅亡。北条から足利に武家の盟主が移っても、幕府の内輪もめは依然として続いている。まあ、こんなふうに力関係・利害関係が錯綜し、歴史書を一度読んだだけではまるで頭に入ってこない。

皇位継承と院政

鎌倉時代以降、皇位継承の仕組みは(皇太子の指名を含め)実質的に幕府が管理していた。天皇の嫡子が皇位を継承するのは不文律だが、皇子がなかったり、病弱だったり、能力が劣ったり、嫡子以外の皇子の外戚が時の権力者だったりと、順当な践祚を妨げる要因は多数あった。

さらに話を面倒にするのは院政である。天皇が引退し次代が即位しても、先代が上皇(あるいは出家して法皇)として統治権(治天)を保持する政治形態だ。いったん握った地位は安定的に直系の子孫に手渡したいから、在位中に皇太子を指名する(立太子)ことが慣例化していた。しかし、自分が退位して(あるいは死んで)からではさまざまな障害が顕在化して子孫が確実に皇統を継げるか心許ない。院政を敷けば、自分が実権を握っているあいだに次代を見届けられるばかりか、次々代の継承にまで影響力を及ぼせる。ただし、そうなると天皇の地位は形骸化し、実権を上皇が握るという二重構造になる。じゃあいったい天皇は何のためにある?この現状に反旗を翻したのが後醍醐だ。

さらに院政が当たり前になると上皇が複数になることも珍しくない。皇統が2つあればなおさらで、おのおの外戚(おもに摂関家)や幕府との綱引きで、権力関係はますます錯綜する。天皇家の継承系統の分裂が始まったとされる後嵯峨天皇の時代は、白河上皇から慣行化した院政が制度として整備された時代でもあった。

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