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●96代後醍醐天皇(
後醍醐天皇 |
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三重県斎宮歴史博物館ポスターより |
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北朝時代の南朝の初代天皇。この名を聞くと、われわれの世代には楠正成、足利尊氏、「建武の中興」と連想がはたらく。現在は“中興”の表現にバイアスがあるからか、“新政”といっているらしい。親房が正統記のなかで、こう評している。
すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや
中古以来、これほど和漢の道に精通した天子はいないだろう、というほど学殖が深かったし、その行動を見ても強固な意志と果敢な決断力とを兼備した天子であったと思われる。ただ、自らの力を恃むあまり他人には酷薄で、臣下の能力を見抜く目は高かったが、業績より好悪の情で評価することも多かったようである。武士の扱いなどは露骨にそれが見える。君主としての資質に恵まれながらも、世の中の趨勢を理解できなかった、あるいは、理解しようとしなかった、と感じられる。これは親房にも通底する。
なお父の後宇田に関しても、正統記はこう書いている。
文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。
戒律を
密宗とは密教のことで、大阿闍梨までなったとは、宗教者としても授戒の資格があるほどの高みに達したということだ。後宇田は後三条城以来、後醍醐は中古以来として、親房は差をつけているが、いずれにしても親子鷹だったようだ。
96代後醍醐(大覚寺統)は、95代花園天皇(持明院統)から皇位を引き継いだが、同時に院政も93代後伏見(持明院統)から91代後宇田(大覚寺統、後醍醐の実父)へ戻った。後醍醐践祚のとき、ざっと数えても、存命の皇位経験者が持明院統2名、大覚寺統2名となる。
この天皇の場合も、後嵯峨→亀山の継承と似た兄弟間の複雑な情況があった。ただし、この場合は両統の抗争ではなく大覚寺統の内部抗争になる。即位の前の流れを見ると94代後二条(大覚寺統、後宇田の嫡流、後醍醐の腹違いの兄)→95代花園(持明院統)と続いたので、次の皇位は大覚寺統の後二条の嫡男邦良に移るのが筋であった。しかし邦良が若年で病弱であったことと、尊治の能力を高く買っていた後宇田は、尊治親王(後醍醐)に96代天皇を践祚させる。このときに、後宇田の残した言葉があるとして、正統記は次のように記す。
かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし
この文言は、読んだとき意味がよくわからなかった。“彼の一の皇子”は邦良のことだから、「御子の儀にて伝へさせ給べし」は、邦良が幼いから(直接皇位につけず)皇太子にしておこう。さらに、邦良が早世した場合は、“この”子孫を継体としよう、と一応理解できる。普通なら“この”は直前を受けて邦良のことになるが、中公では後醍醐として訳している。“邦良早世”が子なくしてを含意すると仮定すれば後醍醐と解釈できなくはないし、そうしないと少なくとも正統記の文脈に添わない。このもやもや感は岩波の解説で解決した。このカ所に相当すると思われる文書(実際に後宇田の書いた処分書)は、
一期の後は悉く邦良親王に譲与すべし。尊治親王の子孫に於いては…親王として朝に使え…
となっている。一期は後醍醐在位期間のことだから、後醍醐の任期が終わったら悉く(当然、皇統も含め)邦良へ戻し、後醍醐の子孫は親王として朝廷に仕えなさいと指示している。邦良が早世したときの処置など書いてないのだ。
正統記の読者としては残念ながら、後宇多の意図を汲めば、後醍醐は暫定正統であっても、その子孫(南朝後村上以降)は“正統”の皇統ではなく、また大覚寺統においてすら傍流としか認められないことになる。明治以降、南朝が正統に決まったらしいが、この辺りの説明はどう切り抜けたんだろうか。
正統記はどう書くにしても、実態として後醍醐は、皇位は継いでも自分の子孫を後継に指名することは認められていなかった。さらに後醍醐践祚と同時に後宇田が院政を再開(後二条帝位中に次いで2度目)したので後醍醐には統治権はないし、皇太子は持明院統の
とにかく、後醍醐親政が始まり、当初は理想的な君主だったと正統記は書く。
夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。
しかし、後宇田が亡くなると事態は急変する。当然のことながら皇太子邦良の周囲から皇位継承の申請が幕府に出され幕府内にも呼応する動きが出る。これに憤った後醍醐は第一次の倒幕を計画するが発覚する(正中の変、1324年)。天皇の権威をはばかった幕府は周辺の関係者を処分しただけで後醍醐の地位を温存する。
結城宗広自筆書状(正中の変を嫡男親朝に宛て知らせている) 出典 |
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そして、そのすぐあとで邦良が亡くなり、後伏見の第一皇子
ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。
…………とまあ、親房は手前勝手に解釈している。
親政を再開したものの後醍醐は孤立している。幕府は敵に回したし、大覚寺統のなかでも少数派、もとより持明院統の支援はありえない。このまま時がすぎればいずれ皇位を量仁に譲らなければならない。またも倒幕を計画して(元弘の乱、1331年)、またしても露見。今度は京都を脱出して奈良興福寺、京都笠置山と転戦するが、捕らえられ隠岐へ遠流(1332年)となる。すでに京都を脱出したと同時に、幕府によって後醍醐は廃位され、量仁親王が践祚して、光厳天皇(持明院統→北朝初代)として即位した。
それでも彼は諦めない。地方の武士の支援を受けて隠岐を脱出して挙兵する。これに呼応して楠木正成や幕府に不満を持つ地方武士団が蜂起、さらに幕府が平定に送った足利尊氏が後醍醐側へ寝返り、一方、幕府は新田義貞によって滅びる。倒幕が一時成功し、1333年、建武の新政が開始される。後醍醐は、幕府による廃位を覆し、その後の体制の変更をすべて巻き戻す。当然、光厳の皇位も廃される。
後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を結城親朝に命じた綸旨 出典 |
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正統記はすべて高氏とし尊氏は使っていない。本来高氏で、倒幕の功により後醍醐の諱である尊治の一字を授かって尊氏となった。本来なら、その前後で名前を使い分けるべきだろうが、ここでは尊氏で統一した。その後の情勢を見れば、親房が「尊氏」を使わなかった理由は自明だ。
●北畠親房
ここで主役の紹介をしておこう。村上源氏の庶流を継ぐ朝廷貴族。早くから後醍醐に重用されていたが、親房が養育係を務めていた(この間に正中の変が起きている)親王が亡くなり、それを機に出家して引退。倒幕計画自体には参画していなかったという。新政以後に政治の舞台に再登場する。正統記中の親房自身の言葉を引用すれば、
代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ
和漢の学問を修めて朝廷を補佐することのみを業としてきたという文人家系だが、後醍醐の天皇親政の理想を体して、行政官と軍指令とを兼ねるような働きを期待される。実際、自身と子らを含めてそのとおりに働いた。前掲の引用は、嫡子顕家が陸奥守に任じられるときの言葉だが、北畠家全体のこととみてかまうまい。
武士の力を借りて、武士の政府たる幕府を倒したものの、後醍醐の理想とする天皇親政は、武士集団の望みとはとはイスカの嘴だった。楠正成のように尊皇に命を賭したものはわずかで、多くの武士が目指したのは所領の安堵・拡大と官位の昇進でしかなかった。しかし、後醍醐にとって武士は天皇の意志に従って手足のごとく動いて当然で、(武士が期待するほど)相応の報奨を与える気はなかった。この点は親房も同様で、正統記でも部下に成果に応じた一時的な名誉は与えても継続的な領土や官位は与えるべきではないと繰り返し述べている。しかし、違いはある。後醍醐は気に入った相手には放恣に報奨を与えているが、親房はこれに一貫して批判的である。結局は裏切られることになる尊氏への過分な待遇にしても、
君のみだりにさづくるを謬挙とし、臣のみだりにうくるを
と手厳しい。倒幕で一時的に結束したものの内実は利害相反する親政体制は目的を果たしてしまえば、いまの民主党と同じで自壊するしかない。新政は2年半ほどであえなく途絶することになる。
新政の過程は正統記に詳しく書かれている。親房も渦中にあったのだから当然だろうが、自身を直接表へ出す書き方はしていない。息子達の活躍は書いているが、親バカの故にではなく、歴史的に見ても特筆すべき働きをしている。建武の新政は天皇親政だから、後醍醐は全国を統治するため自分の皇子らをトップにして公家・武士の補佐役をつけて全国に派遣した。たとえば、
顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所、侍所、引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。奥州の有力地頭である南部氏や、白河結城氏の結城宗広、伊達行朝らの勢力を糾合し、1335年に顕家が鎮守府将軍を兼ねると軍事権も強化され、足利氏の代官たる斯波氏と競合していった。
ここに登場する結城宗広(嫡子の親朝も)、伊達行朝は、以後2度に及ぶ顕家の京への遠征に随行してともに戦い、顕家戦死ののちは親房に従って行動している。また、公家としては北畠の一族である春日顕国も将軍府に参加している。顕家とこれらの面々は、今後の南北朝の抗争の過程で重要な役割を果たすことになる。
新政の成立も崩壊も、裏切りを繰り返す足利尊氏が一方の主役である。別にどちらの立場に肩入れするわけでもないから、裏切りとはいわず転向としようか。尊氏の行動を見てみれば、一族郎党を率いた利権代表の立場としては、あまりに公家に偏重する新政府のあり方に対抗せざるをえなかったと納得する。それに、彼は直接に天皇を害する意志はなく、ある意味で当時の日本人が普通にもっていた尊皇の念は共通しているように見える。新政の最中、尊氏は鎮守府将軍として都を守り、弟の直義は執権として鎌倉にあった。都ではすでに「二条河原の落書」が評判になり、新政の失敗は庶民にも知れ渡っていた。
そこへ北条の残党が蜂起して鎌倉を占拠(中先代の乱)。直義は鎌倉を脱出する。尊氏は鎮圧のため鎌倉へ向かうとき、征夷大将軍と諸国惣追捕使補任を求めたが後醍醐はこれを入れない。尊氏は独断で出京して鎌倉へ向い、やむなく後醍醐は尊氏を征東将軍に追認する。前二者が全国を対象とするが、後者は東国の騒動を鎮めるためだけで、権限は強く限定される。それまでにも論功行賞の不満もあり、すでに尊氏は新政を見限っている。逃げてきた直義と三河で合流し鎌倉を奪還。東国は平静に戻る。
尊氏は帰京命令を無視して都へ戻らず鎌倉で幕府機能を再開する。さらに天皇の側を離れない新田義貞を君側の奸として、その追討名目で京都へ攻め上る。名目というか、尊氏の心情では天皇を攻めることなど論外だった。途次、数度の攻防があるが結局、後醍醐は都を出て比叡山麓の坂本へ避難する(1336年、建武3年1月)。戦乱で皇居は焼け、重宝があまた失われる。親房は正統記で
昔よりためしなきほどの
と記している。