神皇正統記あれこれ

神皇正統記評釈   神皇正統記の年表   神皇正統記の地図   常陸国と周辺の城砦     [OjerbWebへ]

時代の華 ― 北畠顕家

驚異の西上

顕家をWebで調べていて驚いたのだが、どうやらこの貴公子は小説や漫画の主人公として斯界では大活躍をしているようなのだ。顕家だけをテーマにしているサイト(多分、女性が開設)があり、あこがれの眼差しで詳しく彼の行動を追っていたりする。読み進めてみれば、“顕家卿”とか“顕家さま”とか黄色い声援が聞こえてきそうなのである。知らないのはこっちだけかもしれないが、彼の挙動が分かるにつれてじいさんもファンになりそうな魅力的なキャラクターである。こちらも親房より顕家を追うのに時間をさいてしまったかもしれない。

後醍醐が京から坂本へ移って難を避けている間、東北から顕家(親房も)と義良親王が陸奥の軍勢を率いて攻め上る。資料は、顕家の多賀城出発が1335年、建武2年12月22日で、坂本着が翌年の1月13日と記録している。普通ならこの時期の陸奥は積雪期、兵を動かすことはない。しかも、途中、南朝勢と戦いながら陸路を切り抜けたとすれば、これは驚異的な行軍速度だ。有名な秀吉の中国大返しは季節は夏、高松・京都間は直線で180キロで10日を要したという。顕家の西上は厳冬期の積雪地方を通過し、多賀城・坂本の直線距離580キロを23日で走破している(直線距離はGoogleマップのツールで計測)。距離が長くなればそれだけ疲労も蓄積するわけだから困難度は比較にならない。ま、正直、信じらんない!!!ってレベルの神業である。2度目の西上はある程度記録が残っているが、最初の西上についてはあまり資料が見つからない。

まさかの顕家の着陣で勢いを得た官軍は京都を掃蕩して、後醍醐は都に還幸する。尊氏は海路九州へ逃げ延び(途中、備後国鞆津で光厳の使者から新田義貞討伐の院宣を受けているところがさすがにしぶとい)、一方、顕家は東北統治のため多賀城へ戻る(1336年建武3年6月帰着)。

尊氏の反攻

しかし、尊氏は九州で息を吹き返して都に攻め戻る。このとき尊氏は、逃亡しながらも周到に確保した光厳上皇の院宣を奉じている。今の神戸近辺の湊川の戦い(建武3年5月25日)で官軍は撃破され勝敗は決した。情況を事前に察知していた楠正成は嫡子正行を故郷の河内へ逃がす。

突如、脱線するが、このときの情景を謡ったのが「桜井の別れ」。これが母方の祖母がわたしの子守歌に歌ってくれた曲である。まったく音痴のわたしもこの歌だけは歌える。

正成兄弟は自刃、新田義貞は京へ敗走する。つまり、顕家が多賀城へ戻るより前に、すでに都の情勢は逆転していた。京都は尊氏の手に落ちるが、正統記は後醍醐に都合の悪いところははっきりとは書かない。

尊氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。よりて都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁ゆたひとと申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。

補足的にパラフレーズするとこうなる。

「山門に臨幸し給…………」→後醍醐は比叡山に逃げ込んで抵抗を続ける。
「元弘偽主」→光厳天皇を偽の主上と表している。
「御弟に、三の御子豊仁と申けるを位に」→光厳の弟豊人が光明天皇として即位。
「主上都に出させ給」→比叡山を下りて都で尊氏と和睦。
「東宮は北国に行啓あり」→勝利した尊氏は成良親王(後醍醐の皇子)を光明の皇太子に、また後醍醐を上皇として遇し慰撫に努める。

南朝の成立と顕家の第2回西上

1336年、建武3年8月、尊氏の講和の誘いに乗ったかに見せて、後醍醐は上皇として京都に戻ったが、そのままおとなしくはしてはいなかった。同じ年の12月には京都を脱出し楠正行の郎党を従えて吉野へ移り、そこに行宮(吉野朝廷)を設けて天皇復位を宣言する。なんたる執念か。ここで両統迭立は完全に分裂して半世紀におよぶ南北朝期が始まる。

陸奥に戻って半年ほどしか経っていない顕家に、吉野行宮の後醍醐から、尊氏討伐の綸旨が下っている。しかし、顕家は前回のように直ちには出発したわけではない。まず翌1337年、建武4年1月、国府を多賀城から60キロほど南の霊山(南朝方の伊達行朝の領内)へ移す。霊山を拠点にした顕家は、常陸国へ南下して小山城(幼少の当主小山朝郷を擁し、足利一族の桃井貞直が守っていた)を攻め、引き返しては霊山北東の相馬氏を攻めなどしている。さきには脱兎の如く京へ駆け上った顕家も、自分が留守中の陸奥の情勢を見越して、まず地元の足場を固めておくだけの経験を積んだということだろう。

顕家、出発

1337年、建武4年8月、ついに都に向けて霊山を出発する。2度目の顕家西上については、Web資料「北畠顕家の最後の遠征」「知られざる南朝の重鎮・鎮守府将軍北畠顕信」が非常に参考になった。その前に春日顕国を先発させ再度小山城を攻め小山朝郷を捕縛したとされている(異説あり)。このあとしばらくの顕国軍の行動はよくわかっていないらしいが、少なくともしばし留まって常陸国の南朝勢に加勢していたらしい。親房登場以後の常陸情勢にも関係するので、Webの資料「南北朝期の茂木氏(その1)」を引用する。

10~11月の北畠本隊の動きは、よくわからない。利根川の戦いが12月にあるので、それ以前は下野にいたということになるが、時間をかけて味方が集まるのを待っていたのだろうか。1つだけはっきりしているのは、春日顕国の隊を一時的に常陸に向けたことである。常陸では、佐竹勢が東条、笠間などの南軍を攻めていた。ここに、春日勢が小田氏治と合流し、反撃をかけたのである。戦いは10月27日に小河郷で行われた(烟田文書)。勝敗は不明だが、以後しばらく佐竹勢の積極的活動は見られなくなる。恐らくは宮方が勝ったのだろう。

(OJer注 小田氏治は、治久の誤りか)

ここに登場する東條氏は、いずれ親房を迎えることになる神宮城、阿波崎城の主である。こうして顕家は12月13日の利根川の戦いまでに時間を費やしたが、24日には鎌倉を攻略して関東執事斯波家長を敗死させ、翌年1月2日には鎌倉を発っている。

青野原で伊勢へ転進

合戦を繰り返しつつ東海道を上り青野原へ至る。青野原は現在の大垣市垂井町、関ヶ原にさしかかるの手前の平野だ。このときすでに関ヶ原の要害には尊氏の指示で高師冬(師直の従兄弟、猶子)が陣取っていた(この師冬がのちに親房を常陸国から追いだすことになる)。背後からは桃井、宇都宮らの北朝勢が追いすがってくる。そのまま進めば、東西から挟撃されることは必至。1月28日、顕家は青野原において追撃してきた北朝勢と激戦を繰り広げた。ここで顕家が勝利したとする資料が多いが、勝負はいずれにしても消耗した顕家軍に関ヶ原を突破する余力は残っていなかった。顕家は京へ直接向かうことは諦め、1月30日に青野原から伊勢へ転進している。当時、伊勢の田丸城には父親房、弟顕信らがいるし、親房と親交のある渡会家行(伊勢神宮外宮禰宜、伊勢神道の大成者)の支援などもあったろう。しかし伊勢における南北の戦線は南軍が劣勢にあったようで、田丸城の北西7キロほどにある櫛田川を挟んでにらみ合っていたという。

奈良へ

陣容を立て直した顕家は2月16日、伊勢の北朝勢を打破し、さらに奈良周辺の北朝方守備を突破して21日奈良へ入っている(経路は不明)。しかし28日、高師直・師冬率いる北朝勢の主力が奈良へ攻め込み、奈良坂(般若坂とも。東大寺北、般若寺付近)の戦いが起きる。これに敗れた顕家は3月8日摂津の天王寺に入り、追撃する北朝勢を退けている。奈良から直接京へ北上することは諦めて、海側から迂回するとみえる。経路の詳細はわかっていないが、地形的に大和川に沿って大阪湾側へ抜けたと考えるのが自然だ。また勢力分布からみると渡辺党という武士団の存在がある。渡辺党は、皇室領の大江御厨みくりやを統括する瀬戸内海の最有力水軍で、朝廷の行事に従事し滝口武者を輩出するなどごく朝廷に近い立場にあった。大江御厨は大和川の流域から河口へかけての一帯であるから、それを顕家が利用したと考えるとわかりやすい。

石津の戦いに死す、21歳

このとき顕家は天王寺から別動隊を先行させ、京への街道を扼する男山まで送り込んでいる。太平記は、この別働隊は顕家の弟顕信が率いたとしているが確証はないという(当時の戦況は各武将の軍忠状―戦功の申告書―によってある程度正確に把握できる)。これに対して、高兄弟の北朝軍は13日、男山方面を攻めて南朝勢を追い返し、ついで15~16日にかけて北朝勢が総力戦で顕家の本隊を攻め立てた。これにより顕家は和泉まで退き、そこに観音寺城を築いて拠点とする。以後、5月まで戦線は膠着し小競り合いが続く。

5月15日、顕家は後醍醐宛てに諫奏状を残す。趣意は父親房が正統記のなかで述べている天皇の政治姿勢に対する批判に通じるのだが、若年の顕家の表現は正統記よりはるかに情熱的で直接的。しかも、親房があまり批判しない公家や僧侶に対しても厳しい目を向け、一方、農民や武士の待遇に関しては父よりはるかに親身な意見を述べている。14歳から遠国で指揮官として直に彼らに接してきた顕家のほうがより深く相手を理解していた結果だろう。翌16日には高師直が大軍を率いて本格的な行動を起こしているので、それを察知して覚悟の諫言だったと思われる。5月22日、衆寡適せず、北畠顕家、泉州石津の戦いで戦死。21歳。

顕家諫奏状  出典 → 抄訳あり

息子を失った親房は正統記にこう記す。

時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。

このころ後醍醐は自分の皇子を九州や北陸の平定に派遣している。北陸へ向かったのは恒良、尊良両皇子と義貞だが、実は当時すでに後醍醐と義貞には確執があり、皇子らは義貞の人質のような立場にあったという。そのとき南朝方の拠点となった地域が大覚寺統の受け継いだ荘園群ということになろう。京都の奪回はままならぬうちに時は過ぎ、北陸を転戦中の皇子たちも自刃や捕縛においやれられて、1338年、建武5年閏7月2日、ついには新田義貞も越前藤島で戦死する。

inserted by FC2 system