神皇正統記あれこれ

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御大出馬

親房は常陸国へ

1338年、延元3年閏7月26日、後醍醐は戦死した顕家に代わって弟の北畠顕信(親房次男)を陸奥介兼鎮守府将軍に任じ、義良、宗良両親王を奉じて東北へ向かわせることを決める。このとき親房の三男顕能は伊勢国司に任じられている。後醍醐は、義良を皇太子(のちの後村上天皇)とし、顕信の指揮下に東国の全官軍を置くことを指示している。ただ、皇太子が東国へ下向するのはさしさわりがあろうと、現地到着後に公表するとした。

ここからいよいよ常陸国が視野に入ってくる。東国へ向かう一行はまず伊勢国に入る。消耗戦必至の陸路を進むより、海路を経て一挙に常陸・陸奥まで兵を送り込む算段だ。伊勢の大湊は全国に分布する伊勢神宮の御厨みくりやからの供物の集積港として交通の要所であり、そこを拠点とする南朝寄りの熊野水軍が船団編成の実務を担当した。顕能の伊勢国司任命はこれを支援する意味もあったろう(顕能は伊勢北畠氏の初代となり以後、戦国時代に織田信長に滅ぼされるまで続く)。9月、船団は伊勢を出帆し東北へ向う(太平記は「兵船五百余艘」と記す。もちろん戦記物の誇張だろう)。このとき親房は、両皇子と顕信とは別の船に乗った。

さていよいよ、親房が常陸上陸のくだりである。

七月の末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしをまをして御船をよそひし、九月のはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云ふ方にたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけける、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせまし<て、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。

9月はじめに伊勢を出て10日ころに上総沖で嵐に遭って伊豆方面へ吹き戻され、そのあたりで多くの船が行方不明となる。しかし、皇子らと顕信の船は西に流されて伊勢へ戻され、一方、親房の船は東に向かい常陸国の内海(霞ヶ浦がそのころは内海だった)に着く。同じ嵐で東西に吹き分けられるとは末の世には珍しいことだ。きっと、皇太子がひなびた田舎に住むのは例がないからと天照大神が押しとどめたのであろう。義良親王(と顕信)は伊勢から吉野へ戻って、父後醍醐の前で帝位を継ぐ(後村上天皇)ことができたのも、この深慮のおかげとしみじみありがたく思う。常陸国は親房にとっては当初からの目的地だったから南朝に味方するものを糾合して守りを固めた。

親房はどこへ着いたか

親房の船が「常陸国東條浦に漂着」と書く資料が多い。東條浦が現在のどこか調べてみた。当時、霞ヶ浦南岸から利根川一帯は、常陸大掾氏の支族東條氏(後述)の所領で東條荘と呼ばれていたというから、東條浦は霞ヶ浦南岸を全体的に指していたのだろう。神宮寺城跡の稲敷市教育委員会の説明板には

辛うじて常陸東條浦漂着した親房の手勢は、南朝方の地頭東條氏に迎えられこの地に拠った…………

とあったので、同市の歴史民俗資料館に問い合わせてみた。

稲敷市甘田入干拓(旧桜川村)付近だと考えられている

との返事をいただいた。今の地図では広大な田圃になっているが、当時は霞ヶ浦が内海として甘田のあたりに湾入していたと考える。現在のように霞ヶ浦・北浦が利根川・常陸利根川に収束して海に通じるのではなく、浜名湖よりもっと開けた形で外海に接していたのではないか。遭難→“漂着”と書く資料が多いが(さいしょはわたしもそう思っていた)、これもどうだろうか。嵐が去った後は、明確にこの辺りを目標に航海して上陸したような気がする。うっかり対岸の、行方側へ上陸すればたちまち北朝勢に攻撃されることを知らないはずはない。現に、敵側に漂着し抹殺された船もあるという。

神宮寺城、阿波崎城、小田城

上陸した親房はまず東條氏に迎えられて神宮寺城に拠るが、すぐに佐竹氏率いる北朝勢に攻められて落城し、阿波先城へ移る。位置からして両城とも東條氏の出城だったろう。なお、東條氏の居城は東條城(稲敷市下太田)で、親房が到着する前年にこの城で南朝方として挙兵している。その情報を親房は把握していたはずである。両城落城後の東條氏の消息は不明だが、その後も存続しているところを見ると居城へ退いて守りを固めたのだろう。南朝勢の攻勢に阿波先城にも長く居られず、さらに霞ヶ浦を渡って、筑波山麓の小田城へ逃れる。このときも、親房らが闇雲に逃げで小田城へたどり着いたわけではなく、小田城の小田治久の手引きがあったろう。当時、霞ヶ浦一帯の漁業・交通は、それに携わる海夫と呼ばれる人々が惣津という自治組織を構成していた。おそらく小田氏の指示で南朝に加勢する惣津の海夫が実質的に親房らの移動をサポートしたものと想像する。

当時のこの辺り(常陸国、下野国――茨城南部、栃木東部)の情況は、南北入り乱れて合戦に明け暮れていた。そこへ南朝の重鎮親房が飛び込んできて、小田城を南朝の拠点として板東経営にあたるべく活動をはじめる。その多忙な軍事・政治的な活動の傍ら書かれたのが『神皇正統記』である。1339年の秋に成ったという。このほかにも翌年に『職原抄』も著している。都で手元に豊富な資料があるのならともかく、神皇正統記などの体系的な記述をどうやって仕上げたのか(原本はなく、現在残っている写本は吉野へ戻ってから手を加えているとはいえ)。皇統譜の類は持参していたようだが、辺境の小田城にあって他にどの程度の文献を参照できたか。小田氏は関東八屋形の一画を占める名門で鎌倉幕府滅亡までは常陸国守護職にあった。小田城にはそれなりの蔵書はあっただろうが、大半の知識は彼の頭脳にストアしてあったものと思われる。

重要文化財「神皇正統記」
神皇正統記 白山本  出典

TBS.Bブリタニカ大百科事典の「北畠親房」(我妻建治)には、宮中にあって親房は少なくとも4回の改元に関与し、ことごとく自説を通しているとし、

いわばこれらの改元は実質的に親房によって決定されたといっても過言ではない……その博覧強記からして構成される鋭い論鋒は、一種傲岸ともおもわれたであろう

とある。まわりの人にとっては鼻持ちならない頑固者だが、逆立ちしても太刀打ちできない知識と知力があったということか。

神宮寺城跡、阿波崎城跡の訪問をきっかけに読み出して正統記だったが、具体的にこれらの城でのできごとや親房が常陸国でどのような活動をしたかについてはまったく触れていない。正統記の位置づけからして、親房自身の常陸での活動など取り上げる意味はなかった。それに、小田城滞在中に後醍醐が亡くなってしまう。

これで、神宮寺城、阿波崎城と北畠親房の関係を知りたいという本来の目的は終わったようなものだったが、ここまでくるとやめるわけにいかなくなった。

常陸国の情勢

当時の常陸国の情勢を調べてみた(→常陸国と周辺の城主・城砦)。おおざっぱに見て南朝方は小田氏、北朝方は佐竹氏が勢力の中心にいる。小田氏は小田城(筑波山麓)を居城とし、鎌倉時代には歴代が常陸国の守護であり南常陸では最大の勢力をもつ。親房はまず小田城に拠点を置くが、小田氏が最終的に高師冬に通じ、親房は関城へ移る。一方、佐竹氏は太田城(現在の常陸太田)を居城とし平安時代は北常陸を支配したが、鎌倉時代は不遇をかこっていた。このころには足利尊氏に呼応して勢力を回復しつつある。佐竹義貞は後醍醐が笠置山に挙兵したときに、尊氏に従ってこれを攻め、その戦功によって常陸守護に任じられている。常陸国守護職は、鎌倉時代を通じて小田氏がその任にあったが、このときに小田治久から佐竹義貞へ移る。後に佐竹氏は、伊達正宗に拮抗する大大名になり関ヶ原後に秋田に転封されるまで常陸に覇を唱える。佐竹氏に絡むのが大掾だいじょう氏とその支族である。大掾氏は、常陸平氏の祖平国香の末流が長く常陸国の大掾をつとめたので、役職が氏名に転じたもの。真壁氏烟田氏鹿島氏などは大掾氏の庶流である。したがって、大掾氏から見れば新興勢力となる小田氏と対抗関係にある。

ここで脱線:掾は“じょう”と読み、律令国家の行政官の官職で江戸時代以降には芸能者の名誉称号になる。たとえば、昭和の義太夫の名手豊竹古靱こうつぼ太夫は秩父宮から掾号を下賜され山城小掾やましろのしょうじょうとなる。

また、大掾氏は佐竹氏と強い姻戚関係を結んで勢力の維持を図るが、しだいに佐竹氏に併呑されてゆく。この佐竹・大掾氏系統が常陸南朝勢の東(海)側に位置するのに対して、西(山)側の北朝勢には宇都宮城の上野守護宇都宮氏と小山城の下野守護小山氏がある。宇都宮氏9代公綱は一時尊氏に従うが基本的に南朝方に属し、顕家に従って各地を転戦している。その子で10代氏綱もはじめは顕家に従っているが、途中離脱し北朝方に転じている。また、小山氏の小山城は顕家が第2回の南下のときに攻落している(異説あり)。小山氏の庶流に、下総結城氏があり、さらにそこから分かれた白河結城氏がある。ともに小山氏の支流となるが、当時の勢いは白河結城氏にある。下総結城氏は小山氏とともに北朝に与した。一方、白河結城氏は顕家の陸奥将軍府に参加している。なかでも南朝方で活躍するのが結城宗広とその子の親朝・親光。宗広と嫡子親朝は顕家と行動をともにして各地を転戦、弟の親光は後醍醐の身近に仕え寵臣となる(降伏とみせて尊氏を討とうとし返り討ちにあい敗死)。関氏は小山氏の支流だが南朝方に属す。その居城は親房の板東経営の終盤、最後に頼った関宗祐の関城だ。

常陸国の戦況

少し話を戻す。北畠親房の常陸入りから少しさかのぼる1336年頃、常陸国那珂郡の楠木正成の所領に楠木正家(正成の弟?、従兄弟?)が代官として入り瓜連城を築いている。そこで南朝勢の小田治久、那珂通辰、大掾高幹などと連合して、佐竹貞義率いる北朝勢と対峙する。正家、貞義の攻防は1年ほどで決着し、瓜連城は陥落して楠正家は陸奥へ逃亡したといわれている。このとき、多賀城の顕家は瓜連城へ援軍を送るが間に合わなかった。これを、多賀城から霊山へ顕家が国府を移した理由とする説がある。この結果、南北の戦線は小田城を中心とする常陸南部に後退する。

1338年、北畠親房が東條浦へ上陸し、神宮寺城、阿波崎城を経て、筑波の小田城に入る。親房が神宮城入りしたとき攻撃してきた北朝勢は、佐竹義篤(貞義の嫡子)、大掾高幹、鹿島幹寛・基重、烟田時幹、宮崎幹顕。宮崎氏は鹿島郡宮ヶ崎村(いまは茨城町内)から出た武士らしい。前出の東條氏も大掾氏の庶流だが、東條氏は南朝にとどまるが鹿島郡一帯の庶流は大掾氏の北朝への転向とともに佐竹に付いている。大掾氏の数多い庶流のほとんどが秀吉の治世に佐竹氏によって抹殺されてしまうのだが、当時は知るよしもない。

親房を追って春日顕国が小田城入りしてからしばらくは、彼の活躍によって一時南朝は優勢を保つ。そのときの南朝勢の勢力を、光圀編纂の大日本史に、官軍所保六城(南朝方関東六城)として、常陸国の関城(関宗祐)、真壁城(真壁幹重)、大宝城(下妻政泰)、伊佐城(伊達行朝)、中郡城、下野国の西明寺城を挙げているという。

出典

城名のあとのカッコ内は当時の城主で、名前から分かるように彼らは土着の武士である。このうち中郡城と西明寺城は北朝方の城だったが、春日顕国の活躍で一時南朝方が占拠している。常陸合戦と呼ばれた当地の南北朝間の攻防では、顕国は親房の手足となって軍事面で八面六臂の活躍をしている。常陸南部の城趾の解説板を見るといたるところに、顕国を指す春日中将とか春日侍従の名が登場する。

幻の常陸国将軍府

北畠親房が神皇正統記に「常陸国はもとより心ざす方なれば」と書いているのは、この地の南朝勢力を糾合し、陸奥将軍府、鎌倉将軍府とならぶ常陸将軍府ともいえるものを設立するためだった。実際、京から公家や武士を呼び寄せて行政・軍事の実務に当たらせている。ゆくゆくは多賀城(北畠顕信)―白河(結城親朝)―筑波(小田治久)の軸を結び、陸奥と出羽を治める(陸奥将軍府の軍事的な覇権は出羽にも及ぶ)とともに、北側から関東の鎌倉方ににらみをきかせるつもりだったのだろう。小田城に落ち着いた親房は、板東や南奥各地の武士に矢継ぎ早に書状を送って南朝勢への参加を促している。しかし、彼らは親房の期待通りには動こうとはしない。それはそうだろう。親房の発想は、武士は朝廷・公家の指示に従って当たり前、その結果、戦って勝利したからといて身分や領地を望むのは間違いで、伝来の領土を安堵されるだけでも嬉しいと思えというのだ。とうてい受け入れられるものではない。

凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。

つまり、およそ皇国に生まれて忠義をつくして命を捨てるのは人臣の道である。これをけっして功名のようにおもってはならない、というのだ。

小田城で親房は神皇正統記の次に官職の由来(有職)を解説する『職源鈔』を著しているが、その内容は、むやみに上昇志向の板東の田舎武者達に身の程を諭す意図もあったようだ。しかし、武士にしてみれば命がけで戦って、負ければ諦める(か命を失う)にしても、勝っても何の報償もなければだれも従うわけがない。

なかでも親房の一番の標的は白河の結城親朝だった。宗広・親朝の親子は、家顕戦死後は顕信に従っていたが例の嵐で吹き戻され、宗広は伊勢で客死している。父の死後、白河に戻っていた親朝は親房の度重なる出兵要請に応じず、南北を天秤にかけていた。現存する『白河結城家文書』には、親朝の挙兵を促す数十通に及ぶ親房の書状(御教書)が含まれているという。宗広・親朝親子は長く顕家に従って行動しているので親房の信頼は人一倍だったが、それでも、数通送って芳しい返事がなければ相手の立場を察するだろう。こうと思い込んだら目が座って他が見えなくなってしまう親房の性格が現れている。

北畠親房より結城親朝に宛て御教書  出典

高師冬、動く ― 親房、関城へ移る

親房が常陸の国に入ってからの活発さを増した南朝方の動きを、京都の尊氏も黙って見過ごすわけはない。1339年4月、関東執事高師冬の率いる大軍が関東平定のために京都を出発している。幕府軍の侵攻にともない戦いは関東から常陸南部にかけて各所で行われているが細部まではわからない。たとえば、結城家文書には、1340年、興国元年年5月、師冬が下総国駒館を落としたが、翌日奪回され師冬遁走とあるそうだ。

高師冬指揮下の北朝勢は、下野・常陸に展開し、関東六城をはじめ南朝方の城館を攻め立てた。しかし、そう簡単に平定できたわけではない。1341年、興国2年6月23日、小田城を攻めた師冬は敗退している。攻略し難しとみた師冬は懐柔策に切りかえ、一方、大勢を見極めた小田治久もそれに応じて和議が成立。同11月、所領安堵を条件に小田城は開城する。親房らがその前後にどういう対応をとったのか不明だが、親房は関宗祐の関城へ、春日顕国と興良親王は下妻政泰の大宝城へ移っている。両城(「余湖図コレクション」→「茨城の城」→「大宝城」、「関城」より)は距離にして3キロと隔たっていない。現在は陸続きだが、当時、関城と大宝城は大宝沼に囲まれて城砦島のような地形であり、守るに易く攻めるに難かったという。また両城は船で互いに連絡を取り合ったのだともいわれている。それにしても、広範な影響力をもつ小田氏に比べて、関、下妻両氏の勢力は見劣りする。そこで、約2年に及ぶ籠城がどうして可能だったのか。Webの瞥見だが、伊勢神宮の神領、相馬御厨から兵糧を得ていただろうという説がある(「小嶋琢也の晴耕雨読」より)。この相馬は福島の相馬ではなく、取手市、守谷市、柏市、流山市、我孫子市一帯の旧称(福島の相馬は、相馬御厨を治めていた相馬氏が福島の相馬へ移ったことによる)。北畠と伊勢あるいは外宮の渡会家との関係を考えると蓋然性がある。関城を攻めあぐねた師冬軍は坑道を掘って攻め込もうとした。それに気付いた城兵も反対側から掘り進める。しかし師冬側の坑道は地盤が軟弱で落盤し、坑道戦いは中止されたという話が残っている。

出典

関城籠城のあいだも結城親朝への説得は続き、一連の親朝への手紙のなかでも白眉とされる『関城書』が1342年、興国4年10月ころ、ここで書かれている。

大町桂月が筑波登山をしたおりの『秋の筑波山』という一文が青空文庫に収録されている。このなかで、関城、小田城が対比的に取り上げられている。桂月当時の風潮がわかって一興である。

籐氏一揆の噂

1341年興国2年5月、南朝内部からも不協和音が聞こえてくる。これも結城家文書によるが、近衞経忠の画策した「籐氏一揆」の噂だ。このひとは後醍醐に認められ若くして関白になり紆余曲折はあるが、後醍醐が吉野に去った後の北朝でも光明天皇即位のときに関白を宣下されている。しかし、後醍醐を慕ってか、関白職を放擲して南朝へ移り、そこで左大臣になっている。後醍醐の死後、後村上の朝廷では居心地が悪かったか京へ戻る。いくら摂関家の重鎮でも敵側から戻った経忠が厚遇されるわけはない。都で疎外された経忠が起死回生で目論んだのが籐氏一揆だ。経忠が主導して南北朝の統一を図り、あわよくばその功績で自分が天下を取ろうとした。そのためには、いくら僻地にいるとはいえ主戦派の頭目であり後村上への影響力の強い北畠親房を排除しなければならない。藤原長者であった経忠が常陸・下野の藤原系氏族である小山、結城、宇都宮、小田などと戦線を組んで、親房の力を削ごうとしたという。籐氏一揆は実際の行動に移されたわけではないが、少なくとも常陸の南朝勢力の分断に幾ばくか寄与したとされる。たとえば、結城親朝の南朝方離脱にその影響を見る説もある。

結城親朝、北朝へ ー 常陸合戦終わる

1343年、興国4年8月、結城親朝がついに旗幟を鮮明にし、北朝方として挙兵するにいたって大勢は決した。11月11日、高師冬によって関、大宝両城は落城する。ここでも詳細な経過はわからないが、北畠親房は吉野へ戻り、春日顕国は逃亡。関宗佑、下妻政泰ともに敗死している。興良親王については小山朝郷(顕国に釈放され南朝方に属している)の小山城へ移ったとも、駿河へ移ったともいわれる。顕国はそのごも各地を転戦し、一時は大宝城を奪回するが翌年には捕らえられて刑死している。

常陸合戦は終結した。北畠親房、小田治久、結城親朝といった大物は、転出したり転向したりして生きながらえ、彼らに振り回されながらも、最後まで支えつづけた関宗佑や下妻政泰ら土着の小領主は城の陥落とともに自ら命を絶っている。親房とともに脱出できたであろう顕国が最後まで常陸国に留まって奮戦したのはなぜだろうか。捕縛後に処刑され、さらにその首は京で曝されたという。親房、顕家二代に献身的に仕えた春日顕国に対して、吉野にいた親房は何の手も打たなかったのか。この結末は、なんともやるせない。

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