神皇正統記あれこれ

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後醍醐亡きあと

その後の親房

すこし長くつきあいすぎて飽きてしまったが、簡単に親房のその後の人生についても調べてみた。後村上の吉野朝へ戻った親房は常陸での経験にめげることもなく、南朝の中心にあって主戦派として時局を動かしている。幕府の内訌「観応の擾乱」が起きるや、これを機に、親房は最後の一花を咲かせる。一時的にもせよ京都、鎌倉を抑えて、南朝を正統へ押し戻したのだが、長続きはしなかった。後醍醐を厳しく批判した親房もまた、根源的に時流を動かす力の在りかを見抜けなかったからだ。というより、目のあたりに歴然としていても、認めたくなかったのだろう。

北畠親房  出典

観応の擾乱へ

楠木正成が湊川の戦いを前に逃した嫡子正行は、紀伊、河内などで反幕活動開始するが、四条畷の戦いで高師直に敗れて戦死。師直はその勢いに乗って吉野へ攻め入り行宮を焼く。後村上は紀伊国へ逃れたあと、山間の僻地、大和国賀名生あのうまで行宮を移す。南朝の勢力はここに衰微した。

しかし、1350年、観応元年、幕府内に「観応の擾乱」が起きる。足利直義と高師直の確執に端を発して尊氏と直義の対決に至る君臣骨肉あい食む内訌である。資料を一度や二度読んでも登場人物の利害関係が錯綜して筋が見えないほど複雑を極める。

めちゃくちゃに簡単にまとめると、主役は4人。図式にすると、武家の棟梁足利尊氏とその執事で軍事を統括する高師直、それに尊氏の弟で行政を掌握する足利直義と、尊氏の実子でありながら認知されず直義の猶子となっている足利直冬である。尊氏・直義は兄弟愛、尊氏・師直は君臣の絆、直義・直冬は恩義により結ばれている(実際はそう単純ではないのだが)。一方、直義・師直間には政治手法と性格の違いによる激しい対立があり、尊氏と直冬には近親憎悪に近い情が漂う。

観応の擾乱とその前後の情況を、以下に簡単にまとめる。

足利直義、失脚

1349年、正平4年閏6月、讒言をきっかけに、直義が尊氏に師直の執事罷免を要求し実現する。直義はさらに追い討ちを掛けて師直を討とうとしたが逆襲され、直義は尊氏のもとに逃げ込む(京都擾乱)。尊氏の仲介で直義を政務から外すことを条件に事は収まり、師直は執事に復する。見かけは棟梁の尊氏が部下と弟の喧嘩を丸く収めた体であるが、実態はそう簡単ではない。幕府体制内で尊氏派と直義派との対立は温存されたままで、ますます激化してゆく。

足利直冬の動静

京都擾乱の当時、直義の猶子直冬は、長門探題として備後にいた。京での直義と師直の争いが波及して、直冬は、師直与党の襲撃を受け四国を経由して肥後へ渡る。九州の直冬は、征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方と手を結び着々と勢力を伸ばしていた(ちゃっかり尊氏の名前で領地安堵などして地方の武士を手なずけたという)。これに対して都から帰還命令がでるが、直冬は応じない。京都擾乱から約一年後、、正平5年6月21日、直冬追討の院宣を奉じて高師泰が出京している。

観応の擾乱勃発、高一族滅亡

この年1350年の10月、京の動きは慌ただしい。16日、直冬挙兵の報が京へ届くと、26日には出家していた直義が京都から逐電。一方、28日、尊氏は嫡男義詮に留守をまかせ、師直を率いて直冬の討伐に出京している。御大みずから手兵を伴って出陣ということは、自分の血の流れる直冬の力を大きな脅威と見ていたのだろう。下向の途次、11月16日、尊氏は直義追討の院宣を光厳から受け、一方、京を出て河内の畠山国清のもとへ走った直義も同月、高師直・師泰誅伐の兵を募っている。ここにおいて、尊氏・師直と直義・直冬の対立が鮮明に浮上する(観応の擾乱、勃発)。12月13日、直義は北朝光厳の院宣に対抗し、条件付きで南朝に和議を申し入れ、南朝は条件を棄却して直義の帰順のみを認める。これにより直義は、後村上から師直・師泰誅伐の綸旨をえた直義党は俄然優勢となる。そのころ尊氏は備前福岡に至っているが、12月29日、兵を返している。都や鎌倉のただならぬ情勢が知れたのだろう。鎌倉公方基氏(尊氏次男)を補佐していた高師冬は鎌倉を追われ、1351年正平6年1月15日、甲斐国須沢城で自刃し(常陸国で親房を苦しめたことを知るものには感慨あり)、留守をあずかっていた義詮も京を追われて尊氏のもとへ逃れる。2月17日、摂津国打出浜で両勢力が全面衝突する。足利尊氏軍は直義軍に敗れ、同20日には尊氏・直義は和睦する。条件は高師直・師泰の追放で、尊氏の立場に変化はなかったようだ。敗軍の大将が負けて処分なしは変な気もするが、この戦いの名目は「師直・師泰誅伐」である。しかし、摂津国をでないうちに高兄弟は一族とともに直義側に抹殺される。

尊氏・直義兄弟の抗争激化

京へ戻った直義は義詮の補佐役として政務に復帰する。高師直と直義の対立は解消されてたが、平穏に戻ったわけではない。師直を経由していた代理戦争が兄弟の直接対決に移っただけであった。3月には幕府は直冬を鎮西探題に任じている。これなどは直義の要請だろうが、自ら直冬の討伐に向かった尊氏が賛成したとは考えにくい。もうこの時期には両派の武将は幕内や所領において独自行動をとりはじめ、一触即発の状態だった。7月28~30日、尊氏と義詮がそれぞれ反乱の制圧を名目に都を出る。両者は都を出て、残る直義を挟撃する手はずだった。事態を察知した直義は8月1日未明、配下の武将や官僚を伴って北陸へ逃れた。尊氏は帰還を要請するが、直義はこれを退け、差し向けられた追っ手と戦いながら、味方の多い北陸を経由して、11月上旬鎌倉へ入る。

この時代の情勢を「南北朝時代の信濃武士」が的確に述べている。

当時の天下の形勢は尊氏派、直義派、南朝派の3勢力に分かれていた。尊氏が鎌倉を攻撃すれば、奈良の南朝派が京都を脅かし、尊氏が奈良へ進撃すれば直義派の支持勢力が京都を制圧してしまう。直義が鎌倉から京都へ攻め上げれば、東北各地の南朝派勢力が背後から攻撃する。

正平一統から破綻

尊氏は三すくみの情勢打開のため7月ころから密かに吉野朝廷と和睦交渉を進めていた。最終的に、尊氏が南朝に帰順し政権を返還、南北両朝が合体することで決着したようである。10月24日、後村上天皇は尊氏・義詮の帰順を許し、直義追討の綸旨を下した。さきに直義が使った手を今度は尊氏が逆用したわけだ。去年は直義の帰順を容れ、今年は尊氏の帰順と、南朝もなりふり構わずといった感があるが、その決定の背後に親房がいることは間違いない。

11月4日、南朝勢に背後を突かれる心配の無くなった(当然、そう思ったろう)尊氏は鎌倉を目指して京をあとにする。尊氏は、駿河国薩埵峠、相模国早河尻などの戦いで直義軍を打破し、1352年正平7年1月5日、鎌倉に入る。2月26日幽閉中の直義が没する(毒殺か)。

尊氏の留守は直詮が預かっているわけだが、もはや彼に行政権はない。11月7日、南朝は、北朝の天皇・皇太子・年号を廃止する(正平一統)。いままで京にあって北朝から官位を授かっていた貴族・武士・僧侶は一挙にその地位を失ったことになる。そうした輩が猟官に山奥の山村賀名生に詰めかける。

太平記の記述では…………

さしも浅猿く賎しげなりし賀名生の山中、如花隠映して、如何なる辻堂、温室、風呂までも、幔幕引かぬ所も無りけり。

親房が後村上から准后の宣下を受けたのはこのときのようである。

北畠入道源大納言は、准后の宣旨を蒙て華著たる大童子を召具し、輦に駕して宮中を出入すべき粧、天下耳目を驚かせり。此人は故奥州の国司顕家卿の父、今皇后厳君にてをはすれば、武功と云華族と云、申に及ぬ所なれ共、竹園摂家の外に未准后の宣旨を被下たる例なし。

「華つけたる大童子」の意味がよくわからないが、「准后の宣旨を受けて、派手な衣装をして、供に担がせた蓮台に乗って宮中に出入りする」ということだろう。宮中といっても賀名生の行宮だが、親房の得意満面が彷彿する。実際には北朝方と事務的な交渉があったのだろうが、うまくいかなかったようだ。ここで、親房は驚くべき挙に出る。南朝勢が京都と鎌倉を奇襲作戦で攻略して占拠してしまった。一連の動きを年表で追ってみると、こうなる。

この辺りまでは南朝勢は破竹の勢いだったろう。しかし、不意を突かれていったんは引いたものの体制を立て直せば武力の優位は尊氏勢にあった。

このとき、引き上げる南朝勢が北朝の神器を接収し、光厳・光明・崇光の3上皇と直仁親王を賀名生に拉致してしまうという大事件が起きるが、ここではおく。その後2年、次第に衰えてゆく南朝勢の情況を見ながら親房はどういう心境にあったろうか。

1354年、正平9年4月17日、北畠親房、賀名生にて死去。62歳。

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