神皇正統記あれこれ

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雑感

君主論、十八史略、正統記

ここまで書いてきて、やれやれ終わったかの感がある。いくら暇つぶしでも継続するのは楽ではない。冒頭に書いたように、「神宮寺、阿波先城に北畠親房の足跡があったことをきっかけに神皇正統記をのぞいてみる気になった」のであって、縦書きで読みやすくなったとブログにあるのが6月17日、それから2カ月も、ああでもないこうでもないと関わっていたことになる。途中、面倒くさくなってちょっと離れたこともあったが、とりあえず書き終わった。

神皇正統記のテーマはその書名の通りだが、そのなかで繰り返し、天皇、つまり君主のあり方について論を展開している。偶然だが、書架に岩波文庫の『君主論』(ニッコロ・マキアヴェリ)があり、読んだことがなかったのでページをめくってみた。マキアヴェリは15世紀イタリアはフィレンツェの官僚であり、書を捧げる相手は最盛期のフィレンツェを統治したロレンツォ・メディチ(イル・マニーフィコ、豪華王)である。君主論は、ハウツーものの古典ともいえるもので、君主になり、また統治するための手段を、西欧の故事や周辺諸国で起きた事例を分析して解説している。

論点のありかたが親房とはまるで違っていて面白い。たとえば、こんな一節がある。

これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、あたまを撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行わなければならない。

あっけらかんとしてドライである。一方、親房は情を絡めて説得してくる。

天下の万民は皆神物じんもつなり。君は尊くましませど、一人いちにんをたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、まつりことの可否にしたがひて御運の通塞とうそくあるべしとぞおぼえ侍る。…………朝夕に長田狭田ながたさたの稲のたねをくふも皇恩也。昼夜にいくさく井の水のながれを飲も神徳也。これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。

親房は、手段として民を消せとはどこにも書かない。目的を遂行する過程でそうした行動が起きるとしても、それをあらかじめ手段に組み込むことはしない。難しい言葉を駆使するが、民に寅さん的心情を期待している。

もう一つ頭に浮かぶ古典がある。『十八史略』「五帝 帝尭陶唐氏」に、鼓腹撃壌として知られる一節がある。皇帝尭が、自分の治世が民に受け入れられているか知りたいとおもったが、周囲には教えてくれるものがいない。そこで姿をやつして巷間に出て人々の話に耳をそばだてていたときのことだ。

老人有り、哺を含み腹を鼓うち、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作し 日入りて息ふ 井を鑿ちて飲み 田を耕して食らふ
帝力何ぞ我に有らんや」と。

ある老人が、お腹をぽんぽん叩き、地面を打ちながら歌っていた。

「お日様が出れば畑仕事をして、日が暮れれば寝る。井戸を掘って水を汲み、田を耕して食物を作る。皇帝の力なんてわしには何の関係もないさ」

確か教科書に出ていたと思うが、穏やかな人民の生活が描かれ、それを寛容に受け入れる皇帝の笑みが彷彿とする。君主の統治のあり方を示すに、マキアヴェリにも親房にもないおおらかさがある。この帝王は、「近くによると太陽のように温かであり、遠くから望むと雲のように風采が盛んであった」。それにつけても、近頃の中国の「君主」たる共産党はどうだろうか。彼らの先祖にこんなに寛容な為政者がいたというのに。

Webの資料漁りについて

今回、神皇正統記に関係して、いろいろな資料をWebで漁った。なにかにつけて、まず検索でヒットするのはWikiの項目である。確かに便利で大いに世話になったが、逆に足を取られたことも多い。有志の委員会のようなものがあって、内容は検証しているようだが、同じ記事のなかでも書き足し、部分修正などで整合が取れていない個所が目立つし、異なる項目間で同じ内容を取り上げていても同様である。

今回調べた歴的な出来事の場合、資料を時系列に並べただけでは一見矛盾すると感じられることがままあった。自分で書きながら思ったのは、この矛盾する資料を、読んで自然に理解できるように“作文”してしまうことの怖さである。Wikiも含めWebの資料は、歴史学者のように正確に歴史的事象を記述するトレーニングを受けていない人が書くことが多いだろう。自分の場合も、文章としての表面的な無難さを保つために、誤解を生むようは、あるいは完全に間違った語句を挿入してしまったことがある。そうした誤謬は気付けば排除したが、気付かずに残っている個所があるのではと恐れる。まあ、そんなに本気で読む人いないから、いっか。

今回、本文中のWebの引用は、そうした意味で“嘘がない”と感じられたものだけを利用させてもらった。そう感じるのも素人判断であることは避けられないのだが、様々な資料を何度もクロスリファーしていると自ずと信頼感の湧いてくるサイトがあるものである。とくに根拠となる古文書を明記してあるとそうだ。たとえその資料が手元にあっても、読めないこちとらには馬耳だが、思いつきで書いているサイトとはひと味違う。

それともう一つ感じたことがある。マクロにはたった一行で書ける出来事が、立ち入って子細に調べてみると果てしなくミクロな事象の連鎖に拡大される。シーザーはガリア戦記を、「来た、見た、勝った」と報告したわけだが、実際に書かれた戦記は8巻に及ぶ長大なものになった。同列に論じるのはおこがましいが、この文章でも、北畠顕家について最初に書いたときは、ほんの数行に過ぎなかった。それが、だんだん調べていくうちにこの人物に興味を感じて、ついには親房に迫るような量の章になってしまった。どこで打ち切るかの決断は、調べれば調べるほど難しくなる。

思いついたことはなにかと書き尽くしたようである。

『神皇正統記』読後感は、これまで。 2011/08/20

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