縦書き by 涅槃 神皇正統記評釈 大町芳衛著 明治書院発行
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巻五
○第七十一代、第三十八世、後三条院。諱は尊仁、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王〈 陽明門院と申 〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意にて太弟に立給き。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外に〈 欽明天皇の御母手白香の皇女、仁賢天皇の御女、仁徳の御後也 〉うけ給て継体の主となりまします。戊申年即位、己酉に改元。此天皇東宮にて久くおはしましければ、しづかに和漢の文、顕密の教までもくらからずしらせ給。詩哥の御製もあまた人の口に侍めり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民間のうれへありき。四月より位にゐ給しかば、いまだ秋のをさめにもおよばぬに、世の中のなほりにける、有徳の君におまし〳〵けるとぞ申伝はべる。始て記録所なんど云所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。此御時より執柄の権おさへられて、君の御みづから政をしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのころまでも譲国
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の後、院中にて政務ありとはみえず。四十歳おまし〳〵き。
○第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又
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白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。こののち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせまし〳〵き。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱■の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやう〳〵しらせ給こともありしにや。院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、
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後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にも〈 然字火のことにはゞかりありて泉の字に改む 〉おはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年〈 在位にて十四年、院中にて四十三年 〉世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おまし〳〵き。
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○第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才まし〳〵けり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おまし〳〵き。
○第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにまし〳〵ける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をも
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とほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくまし〳〵ければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おまし〳〵き。
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○第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子〈 待賢門院と申 〉、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申の年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてて行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讚岐国にうつされ給。四十六歳おまし〳〵き。
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○第七十六代、近衛院。諱は体仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子〈 美福門院と申 〉、贈左大臣長実の女也。辛酉年即位、壬戌に改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしまし〳〵き。
○第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四 子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しまし〳〵ぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久 執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をおきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の
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他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕ののち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。
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上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。武士どもも多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母
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の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみまし 〳〵しを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてて、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おまし〳〵き。
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○第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛 大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝 朝臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆 を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の
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三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。
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義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の
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理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石■と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてて父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることとぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅 大納言経宗〈 後にめしかへされて、大臣大将までなりき 〉・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき〈 この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。 〉天下の諸国
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は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おまし〳〵き。
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○第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也〈 そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。 〉乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしまし〳〵き。
○第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子〈 建春門院と申 〉、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女 徳子入内して女御とす。即 立后ありき。末つかたやう〳〵所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ
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世をはやくしぬ。いよ〳〵おごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝朝臣が子頼朝〈 前右兵衛佐従五位下、平治の比六位の蔵人たりしが、信頼事をおこしける時任官すとぞ 〉平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよ〳〵悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせまし〳〵けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号
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ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おまし〳〵き。
○第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子〈 建礼門院と申 〉、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよ〳〵おごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ
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申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏こと〴〵く滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おまし〳〵き。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
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