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阿波崎城趾・神宮寺城趾 2011年6月5日

梅雨の晴れ間。今日のテーマは北畠親房。といっても彼にとくに興味があるわけではない。大杉神社から神宮寺へと訪ねたときに、かの都人の足跡が神宮寺近くの神宮寺城に及んでいたことを知って意外に思ったからだ。親房とこの地方の関係はあとに載せる説明板で知れるだろう。親房は神宮寺城のあと阿波崎城へも立ち寄っている(逃げこんだ、が正解か)。それと神宮寺が別当寺を勤める吉田神社。江戸崎を訪れたとき、あの地の祇園祭を町内の鹿島神社と吉田神社が共同で催すと知り、それいらい見てみたかった。

マップ 起点標高38m

北利根橋から稲取大橋の間の堰堤道路は、前回はなんとか走れた。しかし、今回はほとんどが工事中のブルーシートで覆われて走れない。やむなく土手に並走する車道を走った。霞ヶ浦は見えないが、このあたりに多い牧場は間近に見える。

哀れやな 蓮畑の防鳥網にかかったカルガモ霞ヶ浦南岸は牧場が多い

稲敷市を走るのはもう何回目になるか。大分様子も見えてきて、だいたいの地形が頭に浮かぶようになってきた。広大な農耕地帯に点々と丘陵があり、その周囲に村落が寄り添っている。阿波崎もそのような丘陵の麓にある。耕地となるまえは一面の湿原で、阿波崎も名前からしてかつては霞ヶ浦にせり出した岬だったのかも知れない。

阿波崎城趾

街道入口の案内

街道から少し人家の間を入ると丘陵へ上る小道がある。浜風を置いて坂道を上った。保存会の人々が公園風に手入れをしているので入り込めるが、さもなければ一面の木立に覆われて近づくことも難しいだろう。かろうじて草を刈ってあるので、城郭の遺構らしき土塁などが残っているのが分かる。かっては館があっただろう丘の頂きには神社が鎮まっている。

土塁の遺構
南朝に荷担した気概をいまに残すか阿波崎城趾
城趾の神社地震で石塔類が倒壊
スダジイの林

山頂のスダジイ林にほどほどに日が差し込んで、自然と人工がほどほどに混合したよい風景を作っていた。あまり人は来ないようだが、偶然にも、若い人がマウンテンバイクを押して上がってきた。挨拶をすると、待ちかねたように茨城弁で問いかけてきた。下に置いてある自転車の持ち主か? 浜風に取りつけてあるGPSロガーとGPSナビが気になったらしく、あれは何という装置なのか、走行速度や積算距離が測れるのか、いくらくらいするのか…………矢継ぎ早に質問がとんでくる。結局、ロガーとナビの違いから、機種の細かい機能やパソコンとの連携まで説明するはめになった。おかげで予想外の時間を取られてしまったが、考えてみると、西浦の堰堤周辺でサイクラーはいくらも目にするが、神社仏閣ではほとんど目にしたことがない。面白い出会いであった。なお、彼に確認したのだが、阿波崎は“あばざき”と濁って読む。大杉神社は地元では“あんばさま”と呼び、あんば→安馬の連想からか競馬関係者の参詣が多いとも聞いた。

北須賀山満願寺 天台宗 

阿波崎城趾のある丘の北麓の道をすすむとすぐに満願寺がある。

なんとも…………可愛い仁王さん
延命地蔵尊堂内に像は見られなかった
阿弥陀堂左側 石塔が倒れている
阿弥陀堂の木組み 簡素な造りだが……軽快なバランス感覚

門前の説明では、釈迦立像がもっとも重要な寺宝らしいが、この阿弥陀像の説明はなかった。仁王像からは想像もつかない本格的な仏像。風の吹き抜る堂内になんの空調もなくこんな仏像が置かれていて大丈夫なのか心配になるほどだ。浜風でずいぶんあちこち走り回っているが、これほどの仏像がこうした開放的な空間で、間近にみられるのは始めてかも知れない。

頭部はやや扁平で衣紋も単調だが定印を結んだ手の造形はなかなかなもの。そこだけ妙になまなましい。

阿弥陀如来

満願寺の先から、前回の大杉神社へのルートに合流してあとは勝手知ったる道となる。

神宮寺城趾

神宮寺の交差点から県道107を走るとすぐに案内がある。親房が遭難後まず立ち寄ったのがこの城だった。彼が『神皇正統記』を記したのは常陸国を放浪した時期だったといわれているから、ここでもその筆をとっていたか。(いろいろ検索してみると、北朝勢の佐竹、鹿島氏らに攻められ神宮寺城→阿波崎城→小田城--筑波山南方約8キロ--と移って、小田城で執筆したという説が有力のようだ 2011/06/07)。

神宮寺城趾あの林のなか

県道から砂利道を進んで森に近づくと、空堀と土塁が行く手を阻む。正面に梯が掛けてあった。城趾の中には何の説明もない。表の説明板にあった「北畠准后唱義之処」の石碑らしきものが倒壊していた。准后も夢のまた夢である。

空堀と土塁 浜風はここまで、下乗!

工事現場にあるような金属製の梯を上ると、土塁に囲まれた窪地があった。木立に埋没しないように、たまには刈り込まれているといった印象。

この辺りに親房が神皇正統記を推敲した館が

吉田神社

ウノハナキリンソウ

神宮寺城趾から吉田神社へは県道107号一本道。境内の構えは江戸崎の鹿島神社よりだいぶ大きい。この神社は中世から東条庄三十三村の氏子の総鎮守だそうだ。

珍しい鳥居

この鳥居は珍しい。以前、どこかで見たような憶えもあるが思い出せない。普通の鳥居は左右の柱と、2本の横木(笠木と貫)で構成するが、これは貫が1本だけで、それに屋根が載っている。しかも主柱の後方にだけ控え柱がある。神社に関してはダントツに情報の多いこのサイトを参照すると「冠木(かぶき)両部鳥居」が近いようだが、屋根の有無、控え柱のそなえに違いがある。

吉田神社本殿

コンクリート製に見えるが、木造で薄茶色の塗装をしてあるようだ。

これで今回の目標はすべて果たした。吉田神社からゴルフ場の丘の裾野を縫って信太古渡を目指す。相当な上り下りを覚悟していたが、あっけないほど平坦だった。

羽生浅間神社

途中にあった神社で何の名前もなかった。ただ、参道の階段の風情に引かれて上がってみた。あとで地図でみると浅間神社とあった。稲敷市羽生に位置するので、「羽生浅間神社」としておいた。

浅間神社階段脇のスダジイ
階段わきのスダジイ 境内から

階段の上は境内というより開け放たれた感じの広場になっていて、奥に小さな社殿がある。この社の珍しいのは、左右に木造の大きな大刀が添えてあること。

浅間神社斜めの棒は木太刀 奥側にもある

左右に大きな木太刀を添えた社ははじめて見る。

木太刀真新しい清掃用具

注連縄の飾りもなかなか独特。

注連縄にいろいろものを挟むのはよく見る習俗だが…………

挟んであるのは? サイカチの実ヒイラギ、ナンテン

左の大きな挟み物は近寄って調べてみると、なんとサイカチの実である。昔はこれを洗剤の代わりに使ったようだが、どういういわれで注連縄に挟むようになったのだろうなあ……。そういえば、お茶の水のサイカチ坂のサイカチはいまも無事であろうか。

社の背後の山へ登る階段があった。上って見ずばなるまい。最上部は窪地になっていて、何かの祭祀を行った場所だろう。浅間神社だから、あるいは富士山が見えたのかもしれない。板碑(いたび)らしきものもあった。

頂上窪地は祭場 手前は板碑か

詳細はわからないが、大木太刀といい注連縄の飾りといい、まだこの土地伝来の作法が残っている。なかなかの収穫で満足。

吉田神社から大回りして信太古渡へ向かうのはいうまでもない。コンビニで昼のサンドと泡を仕入れることと、鴻野屋の大福を買って帰るためだ。

昼場(信太古渡)

吉田神社で気づいたのだが、途中で地図を落としてしまった。それに午後は崩れそうだというし、急に気温も下がってきた。帰りを急ぐことにしよう。

花盛りの古墳

大福を買って神宮寺を過ぎ、十三名主の墓碑のところから霞ヶ浦方向へ山道に入る。とはいっても両側はゴルフ場なのだが、それを過ぎると昔からの山村の残るのどかな道になる。こののどかな道で、さらにのどかな古墳を見つけてしまった。

庭先の古墳は……花盛り

自分の庭に古墳があって、それを花で飾り立てている。

間違いない 古墳の石室

今日は意外な収穫が多かった。

本日はこれまで。

  
   
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