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百里基地・茨城空港 2010年2月7日

来月11日、茨城空港が開港する。自衛隊百里基地の西側に民間用の滑走路を造り、旅客施設を付け足したものだ。2月1〜4日には、嘉手納基地から米軍戦闘機が飛来して、日米共同訓練も実施された。騒音を心配したが、ほとんど気にならなかった。自衛隊の日常の訓練のほうが喧しいほどである。単純野次馬としては、百里基地を見てみたくなった。浜風で基地周辺を一巡してみることにした。

マップ

昨日は氷点下40度寒気団が南下し北風が吹きまくった。今朝は、居残った冷気で冷え込んではいるが、快晴。少々の風は我慢することにして決行。9時半頃、少し空気が暖まったのを見計らって家を出た。今日は用心して早めのコンビニで昼を仕入れた。県道242で北上し、鹿島臨海線の北浦湖畔駅の先で北浦左岸へ出て、北浦へ流れ込む巴川を遡行。最初の橋を渡る。巴川右岸の県道2号を北上し、同8号と交差したところで、8号へ乗り換えればすんなり百里基地の近くまでいける。今回は8号を避けて、その南側の丘陵地帯を走ってみることにした。

この丘陵の広大な田園地帯は気分がよかった。見わたす限り畑で、人家は数軒見えるくらい。この時期、農作物はなく裸地になっているので、強風で土埃が巻き上がる。が、よく見ていると裸地だからというわけではない。多分、新しく耕したばかりのところだけ土煙が立つようである。

気分よく走っていたが、途中で道がわからなくなった。地形は平坦な高原状から木立の深い低地へ変わる。うねうねと曲がる小道をたどって少し登り返し、低地を抜け出したところに、突如、踏切が現れた。普通ならビックリするところだが、ああ、鹿島線(石岡←→鉾田)軌道跡だとすぐに見当がつく。踏切の脇に駅ホームがあり、駅前商店らしいものが残っていたが駅名表示は見当たらない。あとで調べると「借宿新田駅」であった。

突如、踏切鹿島線「借宿新田駅」跡

鹿島廃線の軌道にはいつも思いがけないところで出会って、驚かされる。でも、乗ってみたかったなあ、この鉄道。

駅前商店駅名表示は見当たらない

どうも見当が違うようだと、道を戻ってうろうろしていると、小川に行き当たった。ちかごろ滅多に見られない清流である。そこへ、防災広報の「グリーンスリーブス」のメロディーが流れてくる。もう11時半。周囲の丘の木立は強風で揺れているが、この辺りは窪地で風は頭上をかすめすぎてゆく。お日様はぽかぽか。この先、これほど条件のいい場所に巡り会えるか。まだ道に迷っている最中だが、ここで昼食と決めた。

昼飯場せせらぎの音を聞きながら

昼食後もしばらく現在位置の確認に手間取る。携帯のGPSも電波が弱くて応答がない。なんとか大きな車道に出て榎木という交差点へ出た(大きな車道といってもあぜ道に比べての話し)。榎木近辺が持参した地図の図画から外れていたので、またも右往左往したのち、県道50号の芹沢交差点から北西へ向けて一直線に基地へ進む道にたどり着く。芹沢は、新撰組芹沢鴨にゆかりの地名(後出)。

マップ

彼方に筑波山 手前に見える建物は基地施設 「立入禁止 百里基地司令」とある

北西への道が行き当たった与沢というところに百里基地の通用門があった。

百里基地の通用門

ここから、反時計回りに基地を一巡する。なるべく塀沿いに進んだが、道路が離れてしまう場所も少なくない。

百里基地外周の道

居住区?はコンクリートの壁だったが、あとはおおむね金網のフェンス。内部を警備の装甲車が巡回しているが、とりわけ緊張した気配はない。立入禁止の札はあっても、撮影禁止のそれはない。

左一番大きい建屋 手前のマウンドは武器庫?百里基地ゲート 衛兵はのんびり談笑中
滑走路北端通信施設? ゾウならぬネコの檻程度

基地の西側へ回り込んで、大分いったところで、それまでの立入禁止看板が「基地司令」や「北関東防衛局」でなく「茨城県」に変わる。

写真中央の小さな看板には「静かで平和な暮らしには基地も空港も要らない」とある

ここにも反対運動はあるらしく、基地の塀に沿って上の写真の看板があった。こういうことを書けば、平和な暮らしのためにこそ「基地と空港が要るんです」と反論する人がかならず出てくる。

「立入禁止」 茨城県ビルのファサードに茨城空港の文字が見えた

ここまでなるべく塀沿いにあぜ道のようなところを進んできたのだが、空港近くになると、その田圃の真ん中の道にも、この先立入禁止の看板が。まあでもね、ここまで来て引き返すのもシャクなので、失敬しました。

茨城空港ターミナルビル
給油設備広い駐車場

あぜ道から割り込んでずるをしてしまったが、正面のアクセス道路は県道から入るところでバリアがあり侵入禁止。こちらが自転車でターミナル方面から出てきたもので、バリアの外に車をとめて、遠目で我慢していた見物のオジサンに、この中入れるんですかと詰問されてしまった。ぽりぽり。

これで基地と空港にはおさらば。あとは、この辺りのめぼしいスポットを巡った。

地神神社

茨城空港から県道339号を南下すると外之内という珍しい地名がある。そこの県道沿いに地神神社がある。地神=祇で、それなら普通は地名を冠して「外之内神社」とでもするのだろうが、国都神神社といい地神神社といいい、固有の名前を付けないのが不思議といえば不思議。

この辺は外之内 節分の鬼が迷いそうだ
地神?だろうね

この神社で目に着いたのは、社の南側にあったこの祀り物。なんだろう。奥に見える木(左の立木ではない)が立ち枯れで、それを祀っているかともみえるが、神木にしては細い木だった。そういえばこの社も北西向きだ。

何を祀る?奥の枯れた木?

手接(てつぎ)神社

県道339号は百里基地の南端を離れてさらに南下し、やがて県道8号と交わる。その交差点の少し北に、この珍しい名前の神社がある。由来は下の写真のごとし。

 この看板の所在は後出の手奪橋脇だが説明が
読みやすいのでここに載せる

境内の詳しい石碑によれば、殿様は隠岐守芹沢俊幹、カッパの名は七郎。河童の棲まいなせる梶無川は、この神社の北側を流れ、その支流の一つをたどれば百里基地の南西にあたる与沢に至る。

手接神社 拝殿本殿
さまざまな形式の末社手に関係した祈願の納め物
 
 河童七郎

喜八阿弥陀

今日の第2の目標はこの喜八阿弥陀。名前がいいではないか。いかにも由緒がありそうだ。MapFanの地図では、相当大きい縮尺でも名前が表示されるので、さぞかし有名な神社だろうと思っていた。しかし、道案内に類する物は皆無。ここでも浜風で周辺を駆け回って見つからず、諦めて次の目的地へ向かう途中でやはり気にかかり、引き返してもう一度地図をみなおし、やっとたどり着いた。まあ、最初から地図をきちんと見ておけばすむことなのだが。

この辺りは、なだらかな丘陵地帯である。農家は、その低地部分(谷地)を田圃に開墾し、周縁の斜面林を少し上がったところに屋敷を構えている。道路は、田圃と屋敷の中間を縫うように通っている。家屋は森に覆われて見えないが、道路から脇道へ入って少し坂を登ると屋敷がある。喜八阿弥陀堂は、そうした一軒の農家の庭先にあった。

この小道の奥に喜八阿弥陀が

普通の農家とは建築様式が違うから、一見してわかりはするが、農家の母屋の横に並んで、まるで隠居所のような位置にお堂がある。向かいには納屋。人影はない。

小道を上ると階段の先にお堂の屋根が喜八阿弥陀堂

同じ敷地の農家が堂守になっているのか、障子は新しく掃除が行き届いている。

向拝部分はあとから付け足したか?新しい障子が少し開いている

これで(下の写真)喜八阿弥陀の由来がわかった。親鸞が布教で3年逗留した無量寿寺はここから遠くない。

喜八阿弥陀由来親鸞真筆のアルミ板プリント
お堂の並びに農家の母屋が

諦めかけた喜八阿弥陀だったが、見つかってよかった。

新撰組ゆかりの法眼寺

旧玉造町は新撰組の芹沢鴨の出身地。あまり興味はなかったが、ここまで来たおまけで訪ねてみた。芹沢家は、江戸時代には水戸藩の上席郷士だったというが、常陸大掾の庶族の流れを汲むという説もあり、さきの手接神社屋の由来にもその片鱗が見える。前出の芹沢交差点は芹沢家の所領の中心地だったのか。

喜八阿弥陀から法眼寺へは、県道8号を使うと大回りになるが、河童ゆかりの梶無川沿いに小道をいけばショートカットできる。梶無川が法眼寺近辺で地方道をくぐるところの橋が手奪(てばい)橋。名前からして河童が隠岐守に手を切られたのはこの辺りと思われる。前出「河童の恩返し」の説明板はこの橋のたもとにある。

マップ

この橋の100m下に芹沢橋があるかわいそうな河童の七郎

この橋の北東300mほどに、芹沢家菩提寺法眼寺などがある。

芹沢鴨生誕地跡

芹沢家の墓所はこの寺の裏山にある。ただし、鴨は京都で暗殺され、壬生寺に埋葬されたという。法眼寺近辺を辞したのが4時を過ぎていた。

帰途 県道50号から夕陽を見る

帰りはまたも夜道になってしまった。本日はこれまで。

  
   
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