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霞ヶ浦北部一周 2011年11月26日

テレビが流す天気図では目玉焼きのような高気圧が本州を覆っている。気象予報士ならずとも、絶好の行楽日和を予測できる。何処というあてはなかったので、Googleマップを拡大したり縮小したりしながら、あれこれ思いを巡らせ、結局、霞ヶ浦北部を一周してみることにした。霞ヶ浦大橋を南端として高浜(JR常磐線高浜駅がある)を最北とする湖面を一巡する。実は霞ヶ浦南部一巡を先に思いついたが、気軽に走り回るには巨大すぎた。

マップ

ただ、霞ヶ浦の堰堤道路はサイクラーのメッカ。骸骨に派手なペンキを塗ったようなメットを被って車曳きのような股引をはいた若者?達が、ロードランナーという軽量・高速車でビュンビュン走っている。ここを浜風で走るのは、銀座を山靴でどだどた歩くようで気後れする。

わたしも今月で68歳になってしまったが、いくら歳を言い訳にしても、自転車を漕いでいて追い抜かれるというのは不愉快である。自動車で抜かれても車のせいにできるが、自転車で抜かれるのは自分の体力・脚力の劣勢をいやおうなく突きつけられるからである。まあでも、他にあてがなければ、しゃあない。

あとで気付いたが、この行程は霞ヶ浦北部を1周する距離よりも、我が家からスタート点(霞ヶ浦大橋)までの往復の方が長かった。以前、霞ヶ浦大橋へ行くとき通過していた鹿行大橋は震災で落下し現在も不通。新橋開通は来春になるらしい。代替ルートとして、通い慣れた北浦大橋経由西蓮寺のコースを使うことにした。

下の写真。ポニー2頭がいるのは行方丘陵の畑の一角。西蓮寺への行き帰りには毎度おなじみだが、今日は道路のすぐ近くに繋がれていたので写真を撮ってみた。

今回は西蓮寺の南側を通過して霞ヶ浦堰堤道路へ抜ける。

霞ヶ浦左岸から筑波山

写真ではわかりにくいが、左側に一番高く見える双耳峰が筑波山。「17.00」の標識は湖尻の北利根橋からの距離を示す。右に白く見えるのが霞ヶ浦大橋東詰に建つ『虹の塔』。

霞ヶ浦大橋から筑波山 左の陸の奥富士見塚古墳が顔を覗かせる丘陵

霞ヶ浦大橋からは、右回りでも左回りでもいいのだが、魂胆あって右回りにした。霞ヶ浦大橋で右岸に渡ってしばらく走り、国道354号沿いのコンビニへ寄り道。このあたりではここを逃すと高浜まで店はない。このコンビニは出島の椎を訪ねたときに見つけたが、インストア・ベーカリーがあって、焼きたてのパンがいろいろ置いてある。これが右回りにした理由。泡とパンを仕入れて少し走ると、左手の丘陵の奥に富士見塚古墳が顔を覗かせている。出島の椎を訪ねたときは、この古墳の上が昼場だった。その先で、筑波山の眺めの良いところにさしかかったので早昼とする。

 筑波山を長めながらの昼場パンいろいろ

カレーパン、ピザ風、チャパティ風、????風と見た目にも楽しい。なかでも初見参は、写真のカレーパンとチャパティの間に見える、焦げ茶の薄焼き煎餅のような????風。薄焼きの下に平べったいイングリッシュ・マフィンのようなパンが付いている。というかマフィンに大きめの煎餅が載っているというのが正しいかな。この煎餅の正体は焦げたチーズ。ベーコンにチーズをかけて、チーズが茶色くなるまで炒めたもの。冷めるとぱりぱりと香ばしい。チーズを焦がした失敗を逆手にとったような一品。あれもこれもで少し買いすぎ。泡が足りなくなってしまった。ははは。

昼食後、堰堤道路をどんどんさかのぼると、震災の被害から復旧していない個所に行く手を阻まれる。ここは、側道が通っていたので問題なく通過。もうこの辺りでは対岸が迫り、霞ヶ浦なのか、そこへ流れ込む恋瀬川なのか判然としない。もちろん縄張り意識の鮮明な国交省、どこかに標識があるはずだが。

堰堤道路行き止まり工事中というか放置状態というか

高浜の直前で対岸へ渡り返す愛郷橋はまだ工事中で、上流側に仮設の橋が架かっていた。

堰堤道路(右のブルーシート)の代替路愛郷橋は復旧工事中

高浜からUターンするつもりだったが、さっき見た富士見塚古墳に触発され、ここまで来たのならと、船塚古山墳を再度訪ねてみる気になった。この古墳はJR高浜駅北西の丘陵にある。

高浜駅北の踏切にて 特急ひたち通過
船塚山の前方後円墳 前方部より後円部を見る

この古墳が造営された5世紀、建造物といえば支配者層の館と庶民の集落の掘っ立て小屋程度しかなかっただろう。その時代に、この古墳の頂から眺める霞ヶ浦はどのようなものだったか。常陸風土記で「流れ海」と呼ばれていたそのころの霞ヶ浦は、いまよりはるかに海浜の面影を宿していた。この一帯は、肥沃な大地から採れる豊富な農産物と汽水域に産する多様な魚介類に恵まれ、人々は豊かな暮らしをおくっていた。いかに強大な豪族が支配していたとしても、ぎりぎりの生活を余儀なくされていれば、これだけの規模の墳墓を構築する余力はなかろう…………なんて、空想してしまうのである。

後円部前方部

来がけには素通りしてきたが、愛郷橋を渡ったところに高浜神社がある。この神社は必見である。

高浜神社

苔生したかやぶきの屋根の社屋と、それを囲繞するケヤキの古木。

左拝殿、右本殿 右手はケヤキ こうした古木が何本もある

次の写真に見られる高浜神社の説明板は、常陸風土記を引用して、霞ヶ浦が海であったころの情景を懐かしんでいる。高浜のすぐ内陸にある石岡に当時の国衙が置かれていた。高浜の港は、地方の中心と都とを結ぶ交通の要所だった。

常陸国風土記はなかなかの美文である。この説明にある「あるいは駕を命じて出向き、また舟をこぎ出して遊ぶ」の一節は、陶淵明の「歸去來兮辭」を思い起こさせる。百姓が五柳先生に、田畑に春の訪れたことを告げたときの情景である。

農人余に告ぐるに 春の及べるを以てし

將に西疇に於いて 事有らんとすと

或は巾車に命じ 或は孤舟に棹さす

…………

萬物の時を得たるを羨み 吾が生の行くゆく休するを感ず

わざわざこの話題を持ち出したのは、常陸国風土記にまつわる一説を思い出したからだ。風土記は、日本書紀を完成しつつあった朝廷が、各地の国司に編纂を命じた郷土誌。おおかた散逸したなかに、この地の風土記はある程度原型をとどめた姿で伝承され今に残る。その文体は、この説明文の現代語訳から伺えるように文学的な香りが高い。風土記編纂当時の常陸国国守は藤原宇合(うまかい 不比等の三男)。その部下に高橋虫麻呂がいたのではという推測がある。宇合は懐風藻に、虫麻呂は万葉集に作品が収録されている。常陸風土記の文学性と、この2人の文人行政官を結びつけて、その編纂に彼らが関わった可能性が高いという説があるのだ。宇合は当然、陶淵明の詩に通じていたはずだし、おのずから風土記の文体にその素養が現れてきたとしても不思議はない。

さて、脱線が長くなった。

高浜神社からは、ひたすら霞ヶ浦左岸を下る。前方、はぁぁぁーーるかの点景として白く虹の塔が望まれる。

あの左から突き出す陸の突端に虹の塔が…

旧玉里(たまり)村が半島のように霞ヶ浦に突き出しているのをぐるっと迂回して、しばらく走ると今度は左手に三昧塚古墳が見えてくる。ちょっと遠回りだが、富士見塚、船塚山のついでに古墳三題と洒落て寄ってみる。ここは船塚山古墳の帰りにに訪れている。

三昧塚古墳

もう浜風を漕ぐのも大分飽きてきたが、ここまでくれば西蓮寺へよらずばなるまい。行方観光協会のレポートではそろそろ色づきはじめたという。たしかに、そのようである。

1号2号

前回、銀杏は採らないのかといぶかった若いイチョウの周囲にもう銀杏はなかった。競争相手のいないお寺の境内で、あせって採る必要もないわけだ。

銀杏はなく落葉のみはや斜光 向こうの山は山百合の里

次回こそ黄葉盛りのころに訪ねることにして、西蓮寺をあとにした。

本日はこれまで。

  
   
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