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両統迭立 ― 皇統分裂への萌芽

嵯峨天皇

ファイル:Emperor Go-Saga.jpg
出典 Wiki「後嵯峨天皇

●88代後嵯峨天皇(邦仁くにひと、在位1242-1246)

南北朝に先駆ける持明院統(北朝へ)と大覚寺統(南朝へ)への皇統分裂は、代後嵯峨が後継を指名しなかったことに発するという。後嵯峨天皇の時代、皇位継承がどう行われていたか。

土御門の皇子邦仁の若年時代は、祖父後鳥羽は承久の乱に破れて隠岐に遠流、父土御門も連座の名目で土佐に隠っているので、皇位からは遙かに遠い傍流だった。時の四条天皇が皇子なくして夭折し皇太子の指名もなかった。父の後堀河法皇もすでになく院政は停止して外戚の九条、西園寺が政務を執っていた。通常なら、これら外戚の推挙する後継を幕府が承認することになるが、時の執権泰時がこれを拒否し邦仁を皇位につける。

後嵯峨が践祚したときの事情を正統記はこう記している。

泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。…………天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也

天照大神の意図を泰時が代弁したということだから、この書きぶりをみると、皇位指名の実権は完全に幕府が握っていたことがわかる。結果的に、後嵯峨がいくら優れた天子だったとはえ、天意を一介の武士が媒介すると言い切るとは、おいおい親房さん、そんなこっていいのかいと言いたくなるが、親房にはそんな意識は毛頭ない。正統記は後嵯峨をこう評している。

院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし

26年に及んで安定な世を経営したとして評価は高い。これとならんで、親房は泰時も高く評価している。

泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき

後嵯峨が践祚したとき上皇は不在だった。実権をもつ公家の中に何かと容喙してくるやかましい外戚がなかった。これを利用して後嵯峨は自分に都合のよい姻戚関係を構築する。能力だけでなく、ついてもいたわけだ。在位4年で帝位を退いて長期の院政を開始する。親房はこの院政期間を安定した政治と高く評価しているが、歴史的には鎌倉幕府が朝廷を完全なコントロール下に置いた時代とみなされている。

後嵯峨は退位にあたって、まだ4歳の嫡子久仁ひさひとに皇位を譲った(89代後深草)。さらに後深草が在位中にまだ10歳の恒仁を立太子させ、後深草が17歳で病をえたのを機に妃腹では次男になる恒仁つねひとへの譲位を促す。ここに90代亀山天皇が即位する。さらに後嵯峨は、亀山の在位中に、すでに後深草に皇子煕仁ひろひと(のちの伏見天皇)があったにもかかわらず、それより若い亀山の皇子世仁よひと(のちの後宇田)を立太子させる。正統記は、こう記す。

此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹きさきばらに皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ぬ。

親房は、後嵯峨の意中は皇統を嫡子後二条流には戻さず次子亀山にあずけることにあったと書いている。

    →Wikiより、両統迭立の図

両統迭立と天皇家荘園群の分与

後嵯峨にも嫡流に対する配慮があったのだろう、天皇家の資産から膨大な荘園群を後深草に分与する。それには亀山からの反発があり同じように亀山にも相応の荘園群が与えられる。これまで天皇家として一括して相続してきた荘園群の大きな部分が両系統に割譲されてしまった。現在でいえば、親の財産を生前相続で兄弟がもぎり取った形か。のちに持明院統が北朝、大覚寺統が南朝に別れての抗争に発展するのは、この荘園群を財産基盤として確保したことが大きいという。南朝の親房がなぜ常陸国を拠点にしたか疑問だったのだが、多分、そうした荘園群のひとつがこの地にあって、そこを拠点とする武士団(国人集団)が行き掛かりじょう南朝側についたからかと納得した。

大覚寺統と呼ばれるようになった由来は、後二条と後醍醐の間、持明院統に世が移っているときに、後宇田が嵯峨の奥の大覚寺というところに隠棲していたためのようだ。

嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。

正統記のなかで「大覚寺」という語はここに一カ所あるだけ。「持明院」の語は一度も使われていない

しかし、後嵯峨は亀山天皇の在位中に後継を指名せずに亡くなる。ここで、ことをややこしくするのは皇太子の指名で皇位継承は決めたものの、自分自身の治天としての地位をだれに渡すかについては意志を示さなかったことだ。この時点でまだ後深草は上皇として健在。ただでさえ弟の亀山に皇位を奪われた怨みがあるから、これを機に治天の地位こそは自分が手に入れようと画策する。一方、現役の亀山天皇も親政を望み、兄弟喧嘩が始まる。実質的な決定権のある幕府は、後嵯峨の意志を、その中宮であり兄弟の実母でもある大宮院に尋ねる。その結果、亀山が治天を継ぐ。これで天皇親政が開始されるが、その期間は短く、後宇田に皇位を譲って上皇としての院政へ移る。後宇田が践祚した時点で、幕府から後深草に太上天皇待遇の申出があるが、後深草は腹いせにこれを辞退する。なんだか史実の流れを頭に入れるだけで頭痛がしそうだが、このあとの皇位は幕府の承認のもと、持明院統の92代伏見→93代後伏見のあと、94代後二条(大覚寺統)→95代花園(持明院統)と移り、96代後醍醐天皇へやっとたどり着く。

なお、幕府が正式に10年ごとの両統迭立の方針を表明するのは1317年、文保元年4月9日(文保の御和談)で、花園から後醍醐(院政は後伏見から後宇田へ)へ皇位が移る前年になる。幕府とすれば皇室内のもめごとをいちいち調停に持ち込まれるのは面倒だから、大覚寺統と持明院統から10年ごとに天皇、治天をセットで推薦してくれれば、こちらもそのまま承認しますよっ、てなものだったろう。

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